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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第五話  家族

男が出て行くと、おなごは、冷たい風が吹き込む戸口を閉め、体をかがめ、


「大丈夫だよ」


と、女童を抱きしめて、


「あんな男のどこが良かったんだか」


と、つぶやいた。


「こたびばかりは、黙っておくわけにもいかないだろうねえ」


勾玉を回収しなければならない。


おなごの様子をうかがいながら、立ちあがろうとしたとたん、体中に痛みが走った。


漏らしそうになった声を飲み込んだ。


人間に弱みを見せてはならない。


右腕の痛みはどうにか我慢できるが、動かすと全身が悲鳴を上げる。


背を床につけていなければ盗人を投げ飛ばすこともできなかっただろう。


額には髪の毛がべっとりと貼りついていたが、払いのける気にもなれない。体もだるい。


「腫れは引いてきましたが、治るまでには日がかかりましょう。ゆっくりとしていきなさい。ここは遠慮がいるような、お屋敷ではありませんからね」


そう言われて思い出した。


鹿の毛皮を売りに行った先で襲われたのだ。


先ほどの盗人はむろんのこと、目の前で微笑んで見せる丸い顔のおなごにも見覚えがなかった。


自分がどこにいるかさえわからなかった。


身に着けている紺地の衣も自分のものではない。


「ここは……どこだ?」


喉も痛む。


「阿岐権守様にお仕えしている者たちが住む廓の中ですよ」


阿岐権守とは、この地の国司だ。


もとは都の大臣だったが、権力争いに敗れ、罪人としてこの地に流されたと聞く。


国司とは名ばかりで外出も許されず、政は、この地の役人が行っている、とも。


おなごは菜を取りに出ていたのだろう。


背負った籠を土間の隅に寄せると鍋を手に近づいてきた。


武芸に秀でているようには見えないが、用心に越したことはない。


痛みをこらえ、体をずらして万一に備える。


「いやな思いをさせましたね」


おなごは、イダテンの警戒に気づく風でもなく、鍋を手前の囲炉裏にかけ、居住まいを正し、明るい口調で続けた。


「わたしの名はヨシと言います。あなたが歩けるようになるまで世話をしますからね……おなかがすいたでしょう」


隣にちょこんと座った丸い目をした三歳ほどの女童が、ヨシの顔を見上げ、衣の袖を引いた。


ヨシの顔がほころんだ。


「この子の名はミコ。ミコと呼んでいます……すぐに、かゆが温まりますからね」


ミコと呼ばれた女童は、母の腰にまとわりつきながら振り返って、はにかむように笑った。


確かに、たいした家ではなかった。


イダテンが寝ている板の間の手前に囲炉裏が。戸口に小さな土間があるだけだ。


幅一間半、奥行きが土間二間。板の間が三間といったところだろう。


とはいえ、一般的な百姓の住む家よりもよほど広い。


百姓の寝起きする家は二間四方、たった一部屋という、納屋とさほど変わらぬ大きさの家がざらにある。


しかも、板の間などない。土間で、藁や筵に包まって寝るのである。


山間には、地面を掘り下げ木を交差させ、その上に葦や茅を葺いた壁のない家さえ珍しくない。それに比べれば、よほどしっかりした造りだった。


いや、それよりも、これは一体どういうことだ。


母親も、小さな女童も、鬼であるイダテンを見て逃げ出すどころか、笑みを浮かべている。


しかも、イダテンの足や腹には湿布らしいものが巻かれている。


――鬼の看病をしていたというのか。


人間には二通りしかいないはずだ。


イダテンを怖れ、逃げ回るか、葬ろうとするかの。


しかし、体中が悲鳴をあげているところを見ると夢ではないのだろう。


「起きてすぐでは食欲もないかもしれませんが、食べなければ体は元に戻りませんよ。ここに置いておきますから、食べたくなったら箸をつけなさい」


簡素な折敷の上に置かれた椀から湯気が立ちのぼっている。


なんともよい匂いがした。


鹿を狩るために潜んでいたときに胡桃をかじって以来、何も口にしていないのだ。


おなごが、床に転がっていた勾玉をイダテンの傍に置くと同時に、戸口が大きな音をたてて開いた。


雨に濡れた笠をかぶった小さな影が、おお、寒いといいながら入ってくる。


眉がきりりとして顔立ちも整っているが、どこか、きかん坊そうな童だ。


歳はイダテンと同じぐらいだろう。


息を切らせながら、重たげな角桶を土間に置かれた台の上に置いた。


「おかあ、今日とってきた柴は、お邸の納屋に置いてきたぞ……吉次のやつめ、霜月を前にしながら炭もろくに用意しておらんのじゃ」


「ああ、三郎、今……」


母親は、そこまでいって顔をしかめた。何かが気にさわったのだろう。


三郎と呼ばれた童は、イダテンが目を覚ましたことよりも、漂ってくる匂いのほうが気になるようだ。


足も拭かずにあがってくると、イダテンのかたわらに置かれた椀を覗きこんだ。


「なんと! 白い米ではないか。どうしたのじゃ! 何があったのじゃ?」


「ああ、うるさい子だね、台無しだよ、まったく。せっかく武家らしく、上品にふるまっていたというのに……おまえたちのもありますよ。姫様からいただいたのですよ……いつになったら、母上といえるようになるのかねえ」


眉間にしわを寄せ、首を振ってため息をついた。


「おおっ、なんとも甘い匂いじゃのう」


三郎は鍋の米から目を離さなかったが、母親の小言は耳に届いていたようだ。


「武家とは言え、百姓とたいして変わらぬ暮らしをしておる、われら下っ端が飾ってみてものう」


事実、下級の武士は戦のないときは田畑を耕しており百姓と区別がつかなかった。


三郎の運んできた桶の水を瓶に移しながらヨシは表情を曇らせた。


「三郎には、大望はないのですか」


 その言葉に、三郎は心外だという表情を見せた。


「わしは、兄者のように大言壮語をせぬだけじゃ。心配はいらぬ。あと十年じゃ。十年のちには数え切れぬほどの手柄を立て、幾人もの郎党をかかえておろう。二十年のちには、この地の棟梁じゃ」


と、胸を叩いてみせる。


ミコと呼ばれた女童も負けじと宣言する。


「ミコも長者さまのところにお嫁に行って母上を楽にしてあげるよ」


「調子のいい子たちだよ」


ヨシは、あきれたように微笑んでいたが、どこか寂しげに見えた。


腰に巻きつけたしびらで、手をぬぐいながら声をかける。


「さあ、いただきましょう。早く手を洗ってきなさい」


「おおっ、米じゃ、米! しかも白い米じゃ。菜はなんじゃ? 汁の具は?」


三郎は、菜を探してうろうろしはじめた。


ミコも三郎に合わせ、米を連呼している。


「なんです、行儀の悪い」


「一年ぶりじゃぞ、良いではないか」


「これが、こめ? 白いの?」


「おお、雑炊の中に混ざっておることはあるが、一椀まるごと白い米は一年ぶりじゃ。おまえは幼かったゆえ憶えておるまいな。汁の具はシロタモギタケと青菜じゃ……なんと、ひじきの醤煮もついておる。これは豪勢じゃ」


と、いいながら手も洗わず、箸に手を出し、ヨシにぴしゃりと手を叩かれる。


三郎は、叱られたことを気にするでもなく、山のように盛り上げられた米を、あっという間に平らげた。


さらに、イダテンが自分のかゆに手をつけていないのを見るなり、


「おい、おまえ、食わないのか、食わないんだったら、わしに……」


と、空になった椀を持って詰め寄ってきた。


「三郎! いいかげんにしなさい! 先日もイダテンのおかげで珍しいものを食べることができたばかりだというのに」


「おお、そうじゃった。腹に入って目の前から消えると、すぐに忘れてしまう……残念じゃったなイダテン。おまえは二日も寝ておったで、鹿肉が食えなんだのう」


あれから二日もたったというのか。なるほど体が水を欲しているわけだ。


早々に、この地を離れるつもりだったが、その予定も狂ってしまった。


「鬼に角はつきものだと思っておったが、おまえにはないのじゃな」


「三郎!」


ヨシの制止など、お構いなしに、しげしげと頭を見ている。


黙っていると、興味は食べることに移ったようで、空になった椀を見つめ、毎日食いたいものじゃ、とつぶやいている。


父には角があったと聞いている。


大人になったら生えるのか、人との間に生まれたから生えぬのかはわからぬが、角などなくとも燃え上がらんばかりの髪を見れば一目で人ではないとわかる。


     *


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