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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第四十四話  わが名を後世に

櫓の上に立つ三郎に、帰ってきた九郎が声を掛けてきた。


悲鳴のような声だった。


「三郎! 何だ? 何が見える?」


「……」


「なぜ黙っている。わしは言われたとおり忠信様に伝えたぞ」


言葉にできなかった。


ここは、田舎とはいえ国府である。収穫祭ともなれば多くの人出がある。


だが、そのようなものとは比べ物にならなかった。


太鼓の音とともに一斉に旗が上がった。


鬨の声があがり、街はずれに広がる畑や田の先から、軍勢が津波のように押し寄せてきた。


前方の川からは水鳥が、後方の山からは山鳥が羽音を立てて一斉に飛び立った。


敵は東の鹿籠山の麓、南の天神川、西の温品川の手前あたりに陣取っていたのだ。


およそ十町先というところか。


邸の背後を守るようにそびえ立つ吹晴山と長者山の間の尾根にこそ旗は上がらなかったが、邸の背後は大岩を幾重にも重ねたような崖である。


姫様の足では登ることもかなうまい。


完全に取り囲まれたのだ。


生まれてこの方、見たことがないほどの数の人間たちが――幾千もの兵が邸を目指していた。迎え撃つべき、この邸には、どれだけの侍がいるだろう。


すでに勝負は見えていた。


だが、攻める側も必死である。


功名をあげようと騎馬武者や郎党、伴類どもが収穫のすまない田畑や道の区別もなく、先を争って向かってくる。


陣形もなにもあったものではない。完全になめてかかっている。


流れ旗が泳ぎ、馬の蹄の音が地鳴りのように響いてくる。


熊野有遠、畑賀兼康、中野盛能の旗印だ。熊野、畑賀、中野、矢野、船越、坂の武将たちの旗だ。


西側に位置する温品、矢賀、中山の武将たちの旗は見えなかった。


かといって、それらが味方についてくれるわけではない。


先頭の兵と邸までの距離は、九町を切った。


宗我部の旗印はない。


勇猛と名高い兼親の姿が見えぬのはなぜだろう。


後方で采配を振るっているのだろうか。


島影に隠れようとする陽があたりを赤く染め、攻め寄せる兵を黒い影に変えようとしていた。


二の郭、三の郭の門前から様子を伺っていた郭の住人たちから悲鳴があがった。


街のあちこちから火の手があがったのだ。間諜を潜ませていたのだろう。郭にもかけるに違いない。


イダテンの言うとおりだ。名乗りをあげての尋常な戦いに持ち込むつもりなどないのだ。


根絶やしにするつもりなのだ。


一族郎党、郭に住むおなごや童も一人残らず。


死んだ者から話を聞くことは出来ない。


都の役人たちも、かつて追捕使をつとめた国親らの言い分を受け入れるしかあるまい。


今となってようやくイダテンの言ったことが理解できた。


ミコや母者に、すぐに逃げだせと言わなかったことを後悔した。


武器を持て、篝火を焚け、という声が聞こえてきた。


邸の侍たちもようやく事態を把握したようだ。


砦のような作りとはいえ、守りは十分とは言えない。


国親が、この邸を造ったときには一の郭の外にも堀があった。


国司が住むにあたって、これではいかにも物々しいということで、外堀を埋め、内にあった櫓の骨組みと床だけを残したのだ。


二と三の郭の高い櫓にはすでに侍たちが登っているが、三郎の立つ東一の門にある低い櫓を目指す者はいなかった。


もはや三郎に、何が見える、と訊く者もいない。


土手や南二の門の櫓に立つ大人や侍たちの悲鳴や怒号、押し寄せる馬の蹄の音で尋常でない数の兵が押し寄せていることはわかる。


明るく染まった空と煙を見れば、街に火を放たれたということも。逢魔が時は目前だ。


「盾を運んできたぞ」


喜八郎たちが踏み台を重ね、荷車に乗せていた盾のひとつを無言で櫓に押しあげた。


三郎は見た目以上に重い盾を櫓の前に立て掛けながら、攻め寄せる軍勢に目をやった。


地響きが櫓を揺らし、三郎を揺らす。


いや、揺れているのは櫓だけではない。


自分の足が震え、体を揺らしているのだ。


振り返り、下を見ると仲間たちの情けない顔が並んでいる。


恐怖は伝染するという。


だが、三郎は怯えているのが自分一人ではないことに、むしろほっとした。


「三郎、われらの大将はおまえじゃ。早う指示を出せ」


声を上ずらせた喜八郎が、笑おうと試みていた。


九郎も、強張った顔でうなずいている。


仲間とまた、力を合わせることができる。


三郎は力強くうなずいて声を張り上げた。


「九郎、西一の門が閉まっているか見てきてくれ。南二の門もだ!」


「……おおっ、まかせろ。小次郎、おまえは南門へ走れ。おなごや童が逃げ込めるよう、侍どもの行動に目を光らせておけ」


「喜八郎、弓と矢をくれ」


喜八郎が、指示に従って弓と箙を差し出した。だが、血の気の引いた仲間たちは無言のままだ。


「九郎、皆に矛を!」


こんなときこそ、へそに力を入れ、大声をあげて味方を鼓舞しろと、教えてくれたのはおじじだったか。


「どうした! われらは武門に生まれ、主人のために死んで行く武士の血筋! 先祖の名を穢すでないぞ。わが名を後世に残す好機ぞ! われらが初陣ぞ!」


やけくそ気味ではあったが、声は十分に出た。


力強いとはいえないが、仲間たちの、


「おおっ!」


と、いう声も返ってきた。


相変わらず、足も腕も震えていたが、武者震いだ、と言い聞かせ、攻め寄せる敵に目をやった。


だが、後方で騒ぎが起こった。


     *



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