第三十七話 武士の矜持
イダテンは、姫に問うた。
「国司はどこだ?」
唐猫のことで頭が回らないのだろう。姫は、それを咀嚼できなかった。
「宗我部国親様と紅葉をめでると……」
「居場所を聞いておる」
「あれに……」
震える指の先には行者山があった。
山腹には七つもの伽藍を持つ、鄙びた地には過ぎた寺がある。
関白であった姫の祖父の寄進によって再建されたという薬王寺だ。
直線で一里。道なりに行けば一里半近くあろう。
老臣は何をしていたのだ。
あれほど疑っていた宗我部国親のもとに主人を向かわせたというのか。
相手がその気なら、多少の警護を増やしたところで役には立つまい。
一人残らず討ちとって山賊に襲われたとでも届ければよい。
毒は、国司と姫が誘いに応じなかったときのために用意しておいたのだろう。
隠していた物を猫がなめた、と考えれば辻褄も合う。
「それは……」
信じたくないのだろう。
「薬王寺は、おれが覗いてこよう」
「ですが……」
「おれより早い馬はどこにもおるまい」
血の気の引いた姫の肩を支えたヨシを見て続けた。
「甕はもとより、誰ぞに命じて水汲み場の井桁も塞いでおけ。調べ終えるまで一切水は飲ませるな。食べ物もじゃ」
ヨシもようやく毒の持つ意味に気づいたようだ。
声を詰まらせる。
「そのようなところにも……」
「早よう戻れ!」
姫とヨシに喝を入れる。
ヨシが、ぐずるミコを。女房が足元の定まらぬ姫の手を引いて邸に戻るのを見て三郎に向き直った。
わかっている、とばかりに三郎は応じた。
「おう! 川魚を捕らえてくれば良いのじゃな?」
川魚を入れた桶に、甕や水汲み場の水を入れてみれば毒が入っているかどうかがわかる。
わしは頭が悪いと口にするが、決してそのようなことはない。
自分には別の仕事が与えられると察して、この場に残っていたのがその証だ。
三郎の言葉を聞きながら、イダテンは天神川に目をやった。
そして、思い出した――黒い煙の作り方を。
「それよりも先に戦支度じゃ」
「戦?」
「次に狙うは……この邸だ」
姫の首を獲らねば安心できまい――という言葉を飲み込んだ。
三郎の顔から血の気が引いた。
「すでに国司様が討たれたと言うか?」
「見ろ、あれを」
イダテンは、高く上がる煙を指差した。
「野焼きであろう」
「あれほど黒く、高く、まっすぐに上がる煙を見たことがあるか?」
三郎の目が見開かれる。
「狼煙だというのか?」
「書物にあった。狼の糞を燃やすと、良い狼煙になると」
煙は、薬王寺の左右からも上がり始めた。国親のことだ。この邸を襲う理由も用意しているだろう。
「いや、戦支度は侍どもにまかせ、姫を連れて逃げろ……もたもたしておると邸におるものは皆殺しにされるぞ」
三郎が声を張り上げる。
「馬鹿を言うな。われら武士は戦に加わらぬものを巻き添えにしたりはせぬ。戦とは……」
「邪魔者は、皆殺しにして口を封じるが一番早い」
「違う!」
三郎は血相を変えて詰め寄った。
「違うぞイダテン! 赤目が、宗我部国親が、いくら卑怯なやつでもおなごや童には手をださぬ……普段はともかく、戦場では正々堂々名乗りを上げ、兵としての誇りをかけて戦うのが武士というものじゃ」
「船越で、どのようなことがあったか聞いておらぬのか」
「違う! 取り囲まれた船越満仲様が、討たれるよりはと、郎党もろとも自害しただけじゃ……おまえは武士の矜持というものがわかっておらんのじゃ! おなごや童を殺して何の言い訳ができよう。いくらおまえでも、われらを侮辱することは許さんぞ」
わかっていないのは三郎のほうだ。
ありもせぬ武士の矜持とやらが大事と、誰も真実を教えてやらなんだのか。
おまえの父は、正々堂々、戦う機会など与えられなかったのだ。
談合に応じた武士や郎党、家族も含めば七十人はいたという。
急襲を受け、皆殺しにされたのだ。
そして、火をかけられたのだ。
前日の夜、館の使いで外出し、命拾いをした下人が、イダテンの母に話したのだと、おばばから聞いた。
取り囲まれた館の最後を向かいにある山から、その一部始終を見ていたのだと。
それを知られれば間違いなく始末されるだろう。
下人は母から紹介状と銭を受け取り、泣きながら隣国の神社に向かったという。
館には下人の家族もいたのだ。
髪を束ねていた黒い布を一気に引き抜き、布の下に挟み込んでいた呪符を投げ捨てた。
封印を解かれた真紅の髪が意思を持っているかのように広がった。
みるまに力が湧きあがる。
国司のことよりもミコたちのほうが心配だったが、姫に約束した手前、薬王寺まで様子を見に行かなければならない。
「愚図愚図するな。おまえには守る者があるのであろう!」
不満げな三郎に言い捨て、走り出す。
身を軽くするために、ヨシが持たせてくれた塩と銭は袋ごと投げすてた。
*
イダテンの言い分には反発したが、武士の本分を口にしたにすぎない。
父は正々堂々戦う機会など与えられなかっただろう。
聞かされなくとも見当はつく。認めたくなかっただけだ。
イダテンの言うとおり、武士であるなら主人を守らねばならない。
まずは、おじじ……忠信様に戦支度を進言せねばなるまい。
美夜殿の毒殺騒ぎで侍所に詰めているだろう。
邸に向かおうと南二の門に目をやると、おかあと一緒にいるはずのミコがでてきた。
三郎の姿を見つけると、堰を切ったように泣きながら抱きついてくる。
どうした、と尋ねても泣くばかりだ。
泣いておってもわからぬぞ、と言おうとして息を飲んだ。
姫様が可愛がっていた唐猫が毒殺されたと言っていたではないか。
毒は飲み食いするものに入れられる。
顔から血の気が引いていくのがわかった。
ようやくのことで口にした。
「おかあが、疑われておるのだな?」
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