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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第三十五話  家路

床下から多祁理宮の書庫に忍び込んだ。


これまでも書物見たさに、何度か忍び込んでいる。


簡単に入れるよう床に細工を施すほどに。


なかに唐の国の書物があるはずだ。


一年ほど前に、図面などから見当をつけて試したところ面白いことがおきた。


こたびは、もっと大がかりなものを作ろうと、あらためて書き写した。


さらに拝殿の下に潜り込み、乾いた砂をかき集め、用意してきた壺に詰め込んでいく。


温湯と混ぜた上澄みに草木灰を加え、煮詰めるのだ。


    *


まっすぐに伸びた矢竹を選び、長さを揃え、手斧を振るう。


場所を移動し、縄で束ねた丸太を担ぎ、斜面を登る。


顎を伝った汗が地面に落ちる。


額からこぼれ落ちる汗が目に入った。


月が幾重にも重なった。


藪を抜けた先には大量の材木が互い違いに積み上げてあった。


崖に囲まれているため昼間でもほとんど日が当たらない場所である。


半年ほど前、このあたりから三日に渡り、木を倒す音が聞こえてきた。


おそらくその時の物だ。


三郎が多祁理宮の拝殿が建て替えられると嬉しそうに話していた。


建立祝いには餅がまかれるはずじゃと。


国司の土地の管理をしている武士の館もそう遠くはない。


当然、ここの状況は承知しているだろう。


だが、百姓家ならともかく、神社の拝殿を建立するための木材の乾燥に半年は短すぎる――歪が生じるのだ、と書物にあった。量も多すぎる。


洞窟には、筵で覆った壺もあった。


こちらは新しく運び入れたに違いない。


イダテンは、担いできた負子から大きな箱を降ろし、よく似た壺と符だを取り出した。


瞬く間に時は過ぎる。


もうすぐ夜が明ける。寒さに震えながら家路を急ぐ。


家路――と浮かんだ言葉に困惑する。


自分にとっての家は父が建て、おばばと住んだ、あの家しかないはずなのに。


貧しい百姓家でさえ夜盗を恐れ、戸の内側から閂をかます。


だが、三郎の家では閂を使わなかった。


夜盗も国司の邸の門前で狼藉を働こうとは思わないのだろう。


おかげで、こうして夜中に出歩くことができる。


音をたてぬように静かに戸を開き、三郎たちが寒さを感じぬようにと、素早く身を滑り込ませる。


粗末な家だが、こうして帰るたび、なんとも暖かく感じられた。


だが、今日、そう感じたのには理由があった。


囲炉裏の炭が赤く焼けていたのである。


その上に吊るされた鍋からは、ほんのりと湯気があがっている。


隙間だらけの家とはいえ危うい行為だ。


寝ている間に炭の毒に冒されることがあると聞く。


手前の影がゆっくりと身を起こし、無言で囲炉裏の上の鍋に杓子をいれた。


炭のわずかな明かりが、その輪郭を照らし出す。表情までは読み取れない。


「寒かったでしょう」


と、言って、ヨシが箸とともに湯気の立った椀を差し出した。


昨夜の汁の残りだったが、芋がひとつ入っていた。


「遠慮はいりませんよ。朝餉に、一人ふたつずつのつもりでしたが、あなたはひとつだけにしておきますから」


気づいておったのか、という気持ちを読んだかのように、


「昨日の朝……ようやく」


と、口にした。


寝相の悪いミコたちの夜着を掛けなおすためヨシは幾度も目を覚ます。


怪しげな鬼の子が夜中に抜け出したのだ。


気になったに違いない。


だが、ヨシはそれを老臣らに知らせるどころか、イダテンにも理由を問わなかった。


「困ったことがあったら頼っていいのですよ」


続けて、


「わたしたちでも、力になれることがあるかもしれないのですから」


と、口にした。


不思議なことにヨシの気持ちを、そのまま受け止めることができた。


だが、人に頼ることはないだろう――おれは、父を母を、そして、おばばを人に殺された鬼の子なのだから。


     *


大飯殿に小さな黒い影がするりと入り込んだ。


ひげの先は緊張に震えているように見えた。


姫の飼っている黒い唐猫だ。


かまど近くにいて餌を探していた鼠が先に気づいて、あわてて台盤所の下の隙間に飛び込んだ。


   *


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