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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第三十四話  老臣の願い

吹晴山の蛇岩の上に立って彼方の海と島を眺める。


岩の下からはこんこんと水が湧き、小さな沢に注いでいる。


隣には、老臣の姿があった。


朝早くに呼び出されたのだ。


雲のかげんか、空は菖蒲色に染まり、陽は牡丹色に輝いていた。


「美しい眺めじゃのう。いかに帝といえど、この景色を見ることは叶うまい。贅沢なことじゃ」


三郎であれば、腹はふくれぬが、と付け足すところだろう。


小島の浮かぶ海から昇る朝日は確かに美しい。


とはいえ、あまりに大仰な言いまわしだ。


確かに、帝がこの景色を見ることはないだろう。


だが、それは単に鄙びた地に用がないからだ。


「わしの望みは、姫様のお子を、この手に抱くことであった」


二人が立つ一丈ほど下の潅木の根元を縫うように、山案山子がするすると横切った。


「帝から、姫様を女御にと望まれた」


あごを上げ、老臣に目をやった。


老臣は、うつろな目で前方を見やっていた。


「姫様の評判が、内裏に届いていても不思議ではない。むろん、今上帝の生母であり主人の伯母君からの推挙もあろうがな」


国司が、この地に流された理由の一つが、先の帝に矢を射かけたことだと訊いている。


今生帝は、そのような男の姫をそばに置こうというのか。


人の考えることが理解できなかった。


それを察したように老臣が続けた。


「権勢をほしいままにする左大臣を牽制する意味もあるのだろう。とはいえ、大変な名誉だ……若すぎると思うやも知れぬが、十や十二での入内も珍しいことではない」


言葉とは裏腹に老臣は沈痛な表情を浮かべていた。


イダテンの視線に気がつくと、老臣は、ああ、とつぶやいた。


言葉の意味が分からないと思ったのだろう。


「われらでいうところの妻だと思えば良い……しかし、帝には、すでに后がおいでになる」

そんなことが訊きたいのではない。


「断ることもできようが……そのようなことをしたらどのようなことになるか……大臣の位にない者の姫君を女御とするのは異例のことだ。帝の御不興はいうまでもなく、左大臣が、それを利用して、さらに追い討ちをかけてこよう」


それを俺に話してどうなるというのだ。


「……主人を追い落とした左大臣にも姫君がある。当然、入内させるつもりであろう」


だが、老臣はイダテンの気持ちに気づく様子もない。


「たしかに、姫様が子をなし、その子が皇子で、やがて帝に即位しようものなら、主人を失脚させた左大臣を……あの男を追い落とせよう――主人は、この話に舞いあがっている。これで都に帰ることができようと。が、ことはそのように単純ではない……左大臣の権勢には、今や、帝といえども逆らえぬ。何よりも……」


老臣の顔がゆがんだ。


「姫様が入内しようものなら……万が一にも、子をなさぬようにと、あらゆる手を打ってくるだろう」


毒を盛られると言うのだろう。


イダテンとおばばも、それで殺されかけたことがある。


左大臣とやらが命じなくても、その意を酌んで動く者もいるにちがいない。


老臣のこめかみの血の管が膨れ上がった。


「国親の動きも活発になってきた。近隣の郷司、保司に頻繁に人をやり、贈り物などを届けておるようだ。その折に、繋ぎをつけておるに違いない」


ありもせぬ謀反を収めたとして、うまい汁を吸った男だ。


二度目があっても不思議ではない。だが、繰り返せば疑われるのではないか。


老臣は、わかっているとでもいうようにうなずいた。


「国親の郎党どもが、領地も荘園も増えたというのに、われらの実入りが増える様子もない、と、愚痴をこぼしておる……戦の支度じゃ。馬や鎧に銭をかけておるに違いない」


老臣が何を言いたいかは予測がつく。が、あえて問うた。


「国司が都に帰るとなれば、考え直すのではないか」


イダテンの言葉に老臣は首を振った。


「左大臣は帰したくないのじゃ。国親は、それを承知で動いておるのだ。左大臣とつなぎをとっているとみて間違いあるまい……」


そもそも左大臣は、姫の父をこの地にとどめるつもりなどなかったのだ――船越の郷司一党を葬った国親を焚きつければ、すぐに片がつくと思っていたに違いない。


しかし、国親は動けなかった。


イダテンの母の呪詛に倒れたからだ。


愚痴を聞かせるために呼び出したのではあるまい。


にもかかわらず、老臣は、東に見える御山荘山の稜線に目をやったまま黙り込んだ。


しばらくして、誰に聞かせるふうでもなく呟いた。


「姫様は、この世に生を受け、名を与えられたそのときより、その呪力に縛られたのだ」


そして、向き直った。


挑むような、その目は血走っていた。


「姫様を守ってくれ。頼む」


と、鬼に向かって深々と頭を下げた。


その肩が小さく震えている。


頼むとは、どういう意味だ――問うまでもなかった。


相手が不意をついて襲ってくるのがわかっていて、なんの策もなくそれを待ち続けるのは愚か者のすることだ。


武士であれば、それぐらいのことは心得ていよう。


書物によれば、圧倒的に力の差がある時。弱者にはふたつの道がある。


ひとつは奇襲。もうひとつは暗殺だ。


むろん、国司の側から、証も無しに攻め寄せることなど出来ようはずもない。


だが、イダテンの腕なら国親の寝首をかくことはできよう。


――おれに、その意を酌んで動けと言うことか。


胸の奥が黒く重いもので満たされた。


愕然とした。


老臣の言ったことにではない。


老臣の指し示す言葉に自分が「落胆」していることにだ。


鬼である自分を助け、完治するまで世話をしているのは、宗我部兄弟の寝首をかかせるためだと考えていたにもかかわらず――その疑いを、杞憂であればと願っていたことに気がついたからだ。


「恩を返せと言うか」


老臣が去った後で、一人つぶやいた。


     *


後悔した。


姫様を隠す場所を用意するゆえ、準備が整い次第、連れて逃げよ、と言うつもりだった。


だが、言えなかった。


言えなかったのは主人の逆鱗に触れるからだろうか。


それとも、イダテンが、多祁理宮の巫女を助け、妻にした鬼の子だからだろうか。


     *


誰もいなくなった大飯殿の戸が外からそっと引き開けられ、明かりが差し込んだ。


汚れた足が敷居をまたぎ入ってくる。


様子を窺うように、ゆっくりと土間を横切る。


懐から口を油紙で塞ぎ紐でくくった小さな壺を取り出すと、土間に片膝をついて台盤所の床下に押し込んだ。


    *


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