第三十三話 都からの使者
国親の身辺を探らせている糸平からの報告が途絶え七日が過ぎた。
これまで、二、三日おきに連絡があったことを思えば、始末されたと見るべきだろう。
家族のこともよく知っているだけに頭が痛い。
庭に出て、頭を冷やしていると、東廂をばたばたと音を立て、一目散に寝殿に向かう広成の姿が見えた。
「なにごとじゃ」
「ああ、これは、忠信様……それが、その……」
「落ち着け」
「……都からの使者が」
*
忠信は、使者である女官の言伝に、主人が一瞬とはいえ歓喜の表情をうかべたのを見逃さなかった。
自分は、宗我部兄弟の逆心以上に、このことを怖れていたのかもしれない。
こたびの話は、今上帝の母君でもあり主人の伯母君である東三条院様が左大臣の権勢を削ごうと働きかけたこともあろう。
だが、姫の名が高まるに連れ、この日が来ることは予測できた。
どれほど体裁をつくろったところで主人の答えは決まっていよう。断れるはずもない。
裳着を早めると言い出したことがなによりの証だ。
貴族の姫君の諱は両親や夫しか知らない。
名前を呼ばれると支配されると信じられているからだ。
ヨシが乳母をしていた時に姫の諱を偶然耳にしたことがある。
姫が不憫でならなかった。
わが名をつけた父がどのような答えをするか、姫にはわかるだろう。
名は、一番短い呪であるという。
姫は、この世に生を受け、名を与えられたそのときより、その呪に縛られたのだ。
*
イダテンは幹回り四間を超える楠木の枝の上に立ち、眼下に目をやった。
右腕のユガケの上には、あたりを窺う飛天の姿がある。
邸の庭には舞台が造られ、管弦の宴の準備が進んでいる。
篝火も用意されていた。
じきに日も暮れよう。
琴の音が聞こえてきた。
奏者としての才を継いだという、ささらが姫が弾いているのだろうか。
突然、飛天が羽根を拡げた。
イダテンが、人の気配に目をやると、羽ばたき、空に消えた。
見ると、民、百姓にしては髪の長すぎるおなごが息を切らせて東の径を登ってくる。
おなごは楠木の下の祠の前に来ると息を整え、満面の笑みを浮かべ、山吹色の衣の袖をつまんでくるりと回って見せる。
鈴の音のような心地よい声音が響いた。
「とても着心地が良いのです。たいそう軽いのです」
イダテンは姫が持読となった習いごとを受けた。
建築物や、それ以外の書物を読み解きたいと思ったからだ。
だが、受けいれた理由は、それだけではなかったかもしれない。
流れるような詠うような、ささらが姫の、この声を聞いていたかったのではないだろうか。
「ヨシに用意してもらいました」
訊きもせぬのにそう答えた。
「なんの用だ」
姫は、その問いには答えず、不満げに口にした。
「三郎たちに訊いて、何度も足を運んだのですよ。あなたは、よくここにいると」
よくも抜け出せたものだ。
そういえば、近頃はイダテンを見張っていた男の姿もない。
「このようなところに来てはまずかろう」
「良いではありませんか。何かあればあなたが守ってくれましょう……それより、そこへは、上げてくれないのですか?」
「落ちたらどうするのだ」
「あら、ミコは、上げてもらったと申しておりましたよ。とても面白かったとも」
おもわず顔をしかめた。
もっとも、普段からそのような顔をしているので気づかれなかったかもしれないが。
ミコと同じように抱き上げて登ってやるわけにはいくまい。
縄梯子を幹に沿って下ろしてやった。
これであきらめるだろう。
邸で暮らしているような者には、まず登れまい。
ところが、姫は、ためらうどころか楽しげに横木に手をかけた。
いつもは衣で隠れている白い腕が袖の下から覗く。
裾からは足首どころかふくらはぎまで覗かせ、足を掛けた。
万一に備えて、下で見守っていたが、以外にお転婆なようだ。
イダテンは、ひと跳びで枝の上に戻った。
少々時間はかかったが、頬を桃花色に染めた姫が登ってきた。
唇の色も常より赤く、薄紅色に濡れている。
息を切らしながらも、姫は満足そうに微笑んだ。
「待たせましたね。わたしにもあなたのような力があればよいのですが……」
近辺の木の幹よりも遥かに太い枝は、腰は掛けやすいものの苔にまみれている。
懐から端布を取り出し敷いてやった。
姫は、嬉しげに礼を言うと、幹に手を添え慎重に腰を下ろした。
イダテンに、あなたも座りませんかと声をかけ、袂から長さ七寸、厚み一寸ほどの薄い木箱を取り出すと、
「これを」
と、渡してきた。
驚いたことに、三郎でさえ怯んだ毛むくじゃらの手に、一瞬たりとも脅えも嫌悪感も見せなかった。
猫と戯れて慣れただけでもないだろう。
三郎たちも犬とじゃれ合っている。
が、その差し出した白く細い指は擦り傷だらけになっていた。
おそらく、膝もつま先も同様だろう。
手のひらと指先には木登りで傷めたとは思えない赤黒い痣がついていた。
イダテンの衣を繕うときに傷つけたのだろう。
厚手の衣に針を通すには力がいる。
指貫だけでは守りきれぬのだ。
おばばは、小さな窪みを入れた板を使っていたが他にやりようはないだろうか。
渡された箱を開けると、細工用と思われる小さな鑿が三本入っていた。
すべて形状が違い、切れ味もよさそうだった。
このようなものがあれば、ずいぶんと細かい細工ができよう。
しかし、値も張るはずだ。
「大きな道具は三郎の家に届いているはずです」
「このようなものは受け取れぬ」
その答えを予想していたのだろう。
姫は気を悪くした様子もなく続けた。
「施しではないのです。あなたの持ってきた毛皮や角も高く売れたとか。肉は郭の皆で分けたのだと聞きました……それで、なんと言うのです? ああ、思い出しました。毛皮を売った利を自分のものにしていた家司から『巻き上げた』のです」
小さく眉間にしわを寄せたイダテンを見て、
「何がおかしなことを言いましたか? じいに聞いたのです。家司が『姫に巻き上げられた』と言っていたと。そういうわけで、これはあなたのものなのですよ。まだ、いくばくかは残っているそうです」
それに、と付け加えた。
「必要なものがあれば遠慮なく言うように、と……また、釣瓶車のようなものを作ってもらおうという下心あってのことですが」
姫はイダテンを見上げ、座りませんかと微笑んだ。
そして、さらに紙に包んだものを差し出した。魔を祓うという干し杏が八つ入っていた。
「いらぬ」と口にしたが、姫はひっこめようとしない。
根負けし、受け取ろうとして指先が触れた。
「あなたの作ったもので人の暮らしは楽になり、あなたの作った彫刻に人は驚き、癒されるのです。それほどの天賦の才を埋もれさせてはなりません。遠慮などせずに声をかけてくださいね。あなたは皆を幸せにできる才能を持って生まれてきたのですから」
この姫は、どのような育ち方をしたのだろう。
人の名には意味があるという。
親は、それに願いを込めるのだとも。
食うに困らず、贅沢な暮らしが一生続くであろう家に生まれた姫にどのような願いを込めるのだろう。
「おまえの名にも意味はあるのか」
姫は、不意を突かれたかのように瞬きをした。
「……『ささらが』とは、楽器の名です。笛が得意だった祖父がつけました」
楽器の名をつけるのか、と怪訝な表情のイダテンを見て、
「本当の名ではないのですよ」
と、眉を下げた。
「名がふたつあるということか?」
「名は一番短い呪であると……知られることは支配されることだと訊いています……特に、おなごはそうであると」
誰が、呪詛をかけるのだと聞くと、姫は困ったように、「誰にでしょう」と答えた。
「貴族とは、面倒なものだな」
「ええ、本当に……」
寂しげに微笑んで、次の言葉を飲み込んだ。
話を促すべきなのだろうか。
そのあたりの機微が、イダテンにわかろうはずもない。
姫が顔を上げた。
「あなたのことを詠ったようだと話したことを覚えていますか? 同じ方の歌にこのようなものがあるのです」
と、瞼を閉じた。
『名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』
相変わらず心地よい声だ。
だが、いつもより湿っているようにも聞こえた。
歌の内容に合わせたのだろうか。
「お父様が良い歌だと誉めたら、お母様の機嫌が悪くなりました」
そう話す、姫の機嫌も悪いように見える。
イダテンに和歌の知識はないが、都に未練を残した歌だろうということは見当がつく。
姫は、ぽつぽつと話し始めた。
イダテンに答えを期待している風ではない。
「わたしは阿岐国が……この地が大好きです」
もちろん、わたしは、この地しか知りませんが、と断って続けた。
「海と山に囲まれ、食べ物もおいしく、気候も穏やかで、何より人に恵まれています……三郎たちが貧しいと嘆くけれど、それでも、わたしには皆がとても幸せそうに見えるのです。そのように思う、わたしは、やはり世間知らずなのでしょうか?」
姫は、しばらく黙りこんだ。そして、小さくため息をついた。
「ミコは……添いとげる人を自分で決めるのでしょうね」
そう口にして、刻々と色を濃くしていく夕焼けを見つめた。
おばばから聞いたことがある。
貴族の男は何人もの妻をもち、自らの出世や権力を手に入れるために娘を縁組させるのだということを――娘や妻は、その決定に従うしかないということを。
姫が、座るようすを見せないイダテンを見あげて繰り返した。
「座りませんか」
近づきすぎぬようにと気を使ったつもりが、見下ろす形になっていた。
隣に腰を下ろすと、なんともよい匂いがした。
匂い袋だろうか。
香りを衣に焚き染めることもあると聞く。
近くで見ると、姫の目が赤く充血していた。
瞼も腫れているように見えた。
どうしたと、問おうとしてやめた。
答えはすまいし、知ったところで自分に何ができるわけでもない。
なんと美しいのでしょうと、姫がため息をつくように口にした。
その目は、あたりを金青に染めていく夕日に注がれていた。
姫の手には水晶の数珠がかかっている。
そこには珠の数と同じだけの空と地があった。
確かに美しい――だが、そのうちのひとつでよい。
違う空と地があれば――と願っている者たちがいる。
姫が懐から笛を取り出し、
「吹いても良いですか」
と、聞いてきた。
うなずくと、
「おなごがたしなむものでは無いと、叱られるのですが」
と、儚げな笑みを返してきた。
やがて、もの哀しげな笛の音が聞こえてきた。
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