第三十二話 反故
翌日には主人の気が変わった。
イダテンを、今すぐ追い出せと迫られた。
隆家様への急使とする件は反故にされたのである。
宗我部国親から大量の貢物が届いたのだ。
国司であり受領である者は、強大な権限を持ち、莫大な蓄財が可能となる。
だが、土着の武士の中には、私田の開発により国司を遥かに凌ぐほど豪勢な生活を送るものもある。
まさに宗我部国親がそれであった。
その使者から、姫君は、鬼の子をたいそう気に入られているそうですな、といわれたらしい。
かつて、国親はイダテンの父に煮え湯を飲まされている。
イダテンを遠ざけたいのだ。
謀反が近いからこそ余計に。
それは、もはや確信に変わった。
額を床にすりつけ、猶予を請う。
「まだ、申すか。僭越であろう」
烏帽子が床に当たってずれた。
「ほかの国では、郡司らが国衙や国司の邸の警護をするのが当然と聞いておる――にもかかわらず、そなたの進言を入れて国親を外し、自前の兵に当たらせてきたのだ」
国親にこれ以上、力をつけさせたくなかったのだ。
警護のための費用は任命された武士が持たねばならないが、それを断る者はいない。
国衙や国司の邸の警護は地頭としての根拠となるからだ。
しかも、国衙には兵器庫も、国中の良馬を集めた御厩もある。
「国親ほど、しっかりと年貢を徴収できる郡司は、なかなかおらぬと聞くぞ」
主人の怒りは収まらない。
「国親より、薬王寺の紅葉の宴に誘われた。以前より開墾の相談に乗ってもらえぬかと打診があった。その話もあるのだろう」
「お待ちください。万一、その宴のことが朝廷に伝わりましたら……」
思わず主人の話をさえぎった。
主人の機嫌などうかがってなどいられなかった。
流罪の身である主人は、朝廷の許可なく邸の外に出ることも、国衙の政に介入することも禁じられていた。
ゆえに役人に任せざるを得ないのだが、近頃は、その役人も国親の言いなりである。
この邸内の宴であれば言い訳もできよう。
開墾の相談に乗ったと釈明したところで、邸の外に出たという事実に変わりはない。
左大臣の腹ひとつだ。
主人とて、それは重々承知のはずだ。
「あの男が難癖をつけたところで、帝がお許しになるものか」
下衆ごときが意見をするなとばかりに続けた。
「そなたのように、あれこれと疑っていては相手に伝わろう。今後は、国親に国衙の警護をまかせることにする……そなたは、宴には同席せずとも良い」
進物や、かかる費用のことばかりではないのだろう。
都に帰れるのであれば。有力な武士を自分の影響下に置くことは、有益だ。
主人がそう考えている――そうとでも考えねば、仕えている自分がみじめだった。
だが、主人の変心の理由は、ほかにあった。
「新たに荘園献上の申し出があった。国親が官位を得られるよう働きかけてやらねばなるまい」
その言葉に戦慄した。
やつに官位など与えれば、その地盤はいよいよ盤石なものになってしまう。
もはや諫言など伝わらぬことが分かった。
*
目の前で老臣が頭を下げている。
だが、老臣が謝罪することではあるまい。
少し考えればわかることだ。
貴族のなかでも殿上人と呼ばれる公家の高貴な姫君が、臣下に手習いを教えるなど、あり得ないということが。
鬼の子であればなおさらである。
自分が、少々、舞いあがっていたのだ。
ここにいれば、思う存分、建築のことが学べるのではないかと。
老臣は、あらためて住む場所を用意すると言っているが、そのような施しを受けるつもりはない。
早々にここを出よう。
胸や手足に痛みは残るが、木の実を集める程度のことはできる――にもかかわらず、まだ、野山を駆け回って狩ができるほどではない。あと十日ばかり、ゆっくりできればと考えてしまう自分がいる。
今年は寒い、と皆が口を揃えるが、イダテンにしてみれば、ここは春の陽だまりのように暖かい――だからこそ、これ以上、長居をしてはならないのだ。
三郎が、「わしのことは三郎と呼べ」という。
だが、名前を呼び合って何になろう。
ましてや、姫や老臣と親しくなって何になろう。
今、手掛けているものが出来上がったら、それを土産にここを離れよう。
イダテンが描いた図面を三郎が鍛冶師に持ち込んで三日が経つ。
あと、二、三日もあれば届くであろう。月も霜月へと変わる。
イダテンは陽のあたる庭を見つめた。
華やかに色づいた紅葉や楓が錦繍の賑わいを見せる。 次の住処は庭にも工夫を凝らそう。
それほど手間をかける必要はない。周りの自然を取り込んだ借景としよう。
「――三日後に」と、答えた。
*