第三十一話 進言
平伏した、その額から汗が噴き出す。
主人の機嫌が悪い。宗我部国親の名を出した途端にこのありさまだ。
御簾の向こうには、この地の国司、阿岐権守と妻である北の方がいる。
「ささらがが、鬼の子を助け、そなたの親族のもとで治療させておるとは聞いておったが……」
話題も国親の話からそれていく。
主人の怒りを察して、北の方が言葉を補う。
「近頃は、なにやら習い事をさせておるとか」
「はっ、郭内の湧き水を汲みあげる釣瓶に工夫を加えまして、皆が重宝しております。工芸、建築の才能は宮大工でさえ驚嘆するほど優れており、開花させるには、読み書き、算術をと……なにより、自ら持読をされることが張りになったのか、病がちであられた体調も、このところ――」
主人が、いら立ちを隠そうともせず遮った。
「鬼の子と呼ばれているからには、人ではないものであろう」
「見かけは奇なれど、一度たりとも民に力を揮うことなく……念のために、常に二、三人張りつけておりますれば」
主人が人の話の途中で扇を開いた。機嫌の悪い時の癖である。
北の方がやんわりと間に入る。
「以前は、そなたの孫の義久を気に入っておりましたね」
「その節は……」
「義久の悪童ぶりにも驚かされましたが、こたびは、それとは違いましょう」
これまでは幾度も忠信を支持してくれていた北の方であったが、風向きが違うようだ。
同席したのもこれが目的だったのだろう。
加勢を得た主人が、ここぞとばかりにたたみかける。
「どうやら、一癖あるものに興を惹かれるようだな。唐猫だけではものたりぬか」
「それは……」
いかに主人といえど、口にして良いことと悪いことがある。
確かに義久は悪童ではあったが、鷲尾の家を再興するに足る器だと思っていた。
兄、信継も、そう期待したからこそ、長年封印してきた「義」の文字を許したのだ。
「未だに、扇さえ使わぬことがあるというではないか。加えて雑仕女どころか鬼とも直接言葉を交わすなど言語道断……甘やかしすぎたかの、忠信」
これには返す言葉がない。
忠信にとっては、自慢の姫様でも、公家の姫君としては明らかに不適格な行為であろう。
それを許してきたのはほかならぬ忠信である。
「はっ」と、頭を下げて見せたが、北の方から追い打ちがかかる。
「鬼の子の性根がどうのというより、人の口に戸は立てられぬ……そうではありませんか」
主人が、話しはこれまで、とばかりに直衣の袖を振って腰を上げる。
「鬼とは退治すべきもの。それができぬというのであれば、山に戻すべきであろう――隆家が退治したがっておったぞ」
血の気の多い隆家様ではあるが、行動に移すことはないだろう。
人に害を与えぬモノを退治したのでは、男としての矜持が立たぬからだ。
加えて主人同様、流罪の身である。
朝廷の許可なく外出すれば罰せられよう。
「仰せのとおり、考えが足りませんでした」
このまま話を打ち切られては、何のための報告かわからない。
床に額をあて、続けた。
「――宗我部国親の動きがおかしゅうございます。ことを起こされれば、とても、この邸の侍だけでは抑えることはできませぬ……一刻も早く隆家様に援軍を求めるが肝要と存じます。その時に備え、馬より速く駆けることのできるイダテンを手元に置きとうございます。どうか、しばしの猶予をいただきたく」
傲慢不遜の国親ではあるが、貴族の前では慇懃に振る舞い、裏では手段を選ばぬ謀略と調略で怖ろしいほど急速に勢力を拡大してきた。
それは、武士が貴族をも上回る力を持つ時代が来るのではないかと夢を見させてくれるほどの勢いだった。
「宗我部が謀反のう。わが面前で、弓を引くは、帝に弓を引くも同然。あやつが、いかに欲深いとはいえ、そこまで愚かではあるまい」
以前にも、国親のこれまでの所業に加え、今後の謀反や謀殺の可能性について触れたが、一笑に付された。
臣従するふりを装いながら裏切る者はいくらもいる。
その性根を見抜くことが出来ないのだ。
ゆえに、このような鄙びた地に流されるのだ。
とはいえ、その主人を補佐し支えるのが臣下の役目でもある。
確証を取れずにいるが、近々ことを起こすだろう。
このままでは船越満仲様の二の舞である。
覚悟を決めて口にした。
「左大臣と繋ぎをとっているのではないかという者もございます」
「何が左大臣じゃ! あの男は策謀に長けておるだけではないか。わたしが呪詛を行ったなどと、ありもしない罪まで押し付けおって」
「あなたさま」
北の方がいさめる。
かつて、わが主人が、勅命がない限り行えない呪詛、大元帥法を行ったかどうかは知るよしもない。
北の方の父君が主導したという噂もあった。
だが、この地に赴任することになったそもそもの原因は弟の隆家様と謀り、法皇様を待ち伏せて矢を射かけたからである。
退位したとはいえ先の帝を襲ったのである。許されるはずがない。
主人には三か条の罪状により国司に貶める宣旨が下された。
つまりは流罪である。
「わかっておる。この地で往生するのも悪くはあるまいよ」
主人はことあるごとに、そう口にする。
「わたくしは、この地がとても気に入っておりますよ」
北の方が、主人の方に向き直ったのが、御簾越しに見えた。
「忠信は、よく働いてくれているではありませんか。ここは忠信の顔を立ててはいかがでしょう?」
と、不満げな主人に進言した。
「まずは邸より離れた場所に、鬼の子を移させましょう。様子見であれば……三月うちに山に返す、ということでよいですね。忠信」
はっ、と返し、平伏する。主人は、しぶしぶ、それを認めた。
北の方に救われた。
忠信は、冷や汗をかきながらも胸をなでおろした。
だが、北の方とて好意だけで言ってくれたわけではない。
流罪においては、正室、側室を同伴することは許されない。
身の回りの世話をする女房だけが許された。
流される直前に、主人の伯母君である東三条院様の機転で、高貴な家系ながら貧しい貴族の娘を女房としたのである。
それが今の北の方。実質上の側室……いや、正室あつかいである。
主人には、都に残した幾人ものおなごや子がおり、今でもかなりの反物が贈られている。
法皇との一件もおなごがらみである。
この地が気に入っているという言葉には、その意味も含まれているのだ。
*