第三十話 鷲尾三郎義守
東対の孫廂に墨をする音が響く。
姫、肝いりの手習いが始まった。
几帳で仕切られ、炭壺がいくつも置かれ暖かい。
だが、そこにはイダテンと、三郎、そしてミコの姿しかない。
強制ではないとはいえ、参加する者がいかにも少なかった。
理由は様々だろう。
畏れ多い。失礼があってはならない。着ていく衣がない。
また、貧しい者ほど、幼いうちから親の仕事を手伝っている。
断れぬ立場のはずの喜三郎や九郎たちも、世話をしている幼き者たちが、イダテンを怖がるとの理由で姿を見せなかった。
確かにそれもあるのだろう。
だが、それとは別に、イダテンと親しくなった三郎を許せぬのだろう。
自分が原因だけに、どうしてやることもできなかった。
自分が、この地を離れたのちの和解を期待するしかない。
思いを振り切るように読み書きを学んだ。
自分でも驚くほどの吸収力だった。
一人で学べるよう、いくつかの書物も借りられることになった。
三郎は目を輝かせ、元服したときの名前の相談をしていた。
漢字にしたらどうなるのかと。
「ヨシノモリですか、ずいぶん古風な……ああ、皇子様の供をした先祖の名ですね。立派な名を継ぐのですね」
「名前負けといわれそうですが」
常とは違い、三郎があらたまった口調で答える。
「よい、励みとなりましょう」
姫は、照れる三郎の目を見て微笑んだ。
「そうですね。今であれば……」
筆をとり、いくつもの候補をあげた。
三郎は意味を問い、考え込んだ。
結局、「義守」が気に入ったようだ。
ミコの名は、正式には倫子らしい。
姫の書いた手本を真剣に写している。
それは諱と言うもので、特に男の人に教えてはならないと注意されていたが、
「イダテンにも?」
と、尋ね返し、姫の笑いを誘っていた。
『長恨歌』を書き写していると、姫が丁寧にたたまれた赤墨色の直垂を、イダテンの前に置いた。
なにごとかと顔を見ると、
「袖口がほつれていますよ」
と、微笑んだ。
確かに筆を握った右の袖口にほつれがある。
山に入った時に引っかけたのだろう。
「繕いましょう」
言っている意味がわからない。
「できるのか、という顔をしていますね。料理などはやらせてもらえませんが、衣の仕立ては妻の仕事。これだけは習わせてもらえるのですよ」
仕立てや針仕事が、できるのか、できないかではない。
鬼の子の衣のほつれを直そうという感覚がわからない。
気になると言うなら誰かに任せればよいだろう。
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