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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第三話  ささらが姫

民とは、国から土地を貸し与えられ、その収穫を税として収める者をいう。


男であれば六歳になると与えられるが、鬼である父に与えられるはずもない。


焼畑に加わることも許されず、山の斜面の樹木や岩を取り除いたやせた地で隠れるように作物を育てた。


見捨てておるくせに、税だけはとろうとする。


荒地を耕してようやく収穫した、粟、きび、ひえでさえも持っていく。


おばばは大工の家に育ち、母は巫女となった。


鬼の家族に百姓の知識を与えてやろうという者はいなかった。


父に狩りの腕がなければ生きていくことなど出来なかっただろう。


母が、おばばを呼びよせ、一緒に暮らそうとした理由も今となってはわかる。


おばばも人として扱われなくなったのだ。


ところが、鬼の婿は身に覚えのない罪で命を奪われ、娘は産後の肥立ちが悪く病床についた。


赤子を抱えたおばばは、たちまち食うに困った。


常に餓死と隣り合わせで生きてきた。


そのくびきから解放されたのは、イダテンに体力がつき、狩りと、山野での採取の腕の上がった、ここ二年ほどのことだ。


ちょうどその頃、おばばが大怪我を負った。


山賊に襲われ、崖から落ちたのだ。


それ以来、寝たきりとなった。


それでもこうして生きていられるのは仏の加護があったからだと、おばばは手を合わせたものだ。


イダテンには理解できなかった。


虫けらのように扱われてきたわれらが、一体、何に感謝し、何に祈るというのだ。


われらが前世でどれほどの悪事を働いてきたというのだ。


たとえ来世とやらがあったところで、今より良いという保証がどこにあろう。


器用だった父は、見よう見まねで山から切り出した木を使って家を作った。


素人が作ったとは思えない出来栄えだったというが、父母の死後、丸太で突き崩された。


修繕はしたものの、いまや見る影もない。


火付けにも二度あっている。二度目は寝入っている刻限だった。


崖から岩が落ちてくることも矢が降ってくることもあった。


畑も繰り返し荒らされた。


宗我部の手のものであることはわかっている。


一度、捕らえて崖の上からつるしたらあっけなく吐いた。


それにしても宗我部兄弟がそろってこのような場所に出張ってくるとは何事だろう。


いかに武士としての腕が優れていようが、イダテンの住処を襲うにしては数が少なすぎる。


それを示唆する言動もなかった。


この先は険しい山があるだけだ。


それを超えたところで兄弟の住む海田から遠く離れた馬木という地である。


そこには国司の親族がいると聞く。


宗我部兄弟の目的は気になったが、イダテンはその理由を探すのをやめた。


考えるどころではなかったのだ。


それほどに川の水は冷たくなっていた。


    *


里の近くまで来ると川原に上がった。


谷に落ちた時にくじいた足がじきに腫れあがるだろう。


クチナシの実を砕いて粉にした湿布薬の元は油紙に包んでいるが、混ぜ合わせる材料までは持ち歩いていない。


春であれば鳥の巣から卵を失敬出来るのだが。


ずぶぬれの体に寒風が吹きつける。


それを避けるように近くの藪に入り、震えながら窪みに腰を下ろした。


体を温めようと火をおこしたが衣を乾かしている暇はない。


近くにあった落ち葉と枯草を体と衣の間に挟み、鹿をかつぎ直し、窪みを出た。


ぽっかりと空が開けた場所に出るとカラスたちが岩の上に群がっていた。


ついばんだ肉片を嘴に、近くの木の枝にとまっているものもいる。


イダテンが、足を引きずりながら近づくと、不満げな鳴き声をあげ、羽音を立てて一斉に飛びあがった。


すでに獣や鴉たちに多くを持っていかれたのだろう。


腐臭は思ったほどではない。


よくある光景だった。


身分の高い者か、よほどの分限者でなければ墓など持てない。


鳥や獣に遺体を施すことが功徳になると信じているのがせめてもの救いだ。


寿命を全うできるものなどそうはいない。


病か餓死か……そこにあるのは明日の自分の姿だった。


だが、この人間には泣いてくれる者がいるのだろう。


鴉たちが、未練がましくあとをつけてきた。


担いでいる鹿だけでなく、足を引きずっているイダテンも、あわよくばと狙っているのだ。


     *


言うことをきかぬ体に鞭打って、震えながら天神川沿いの冬枯れの土手を進む。


その様子を見守るように飛天が上空を舞っている。


鴉たちは、その飛天が追い払ってくれた。


イダテンの身が心配なのだろうが、未練がましくついてくるという点ではあまり変わらない。


指笛を吹いて帰るようにうながすと、ようやく山に向かった。


山から吹き降ろす風が砂塵を巻き起こし、北から黒い雲を呼び込む。


群れ竹がしなり、ひゅうひゅうと音を鳴らす。


足元で落ち葉が舞い、天辺近くに色づいた実を残した柿の大木がゆるやかに揺れる。


荷を積んだ馬が落とす糞の匂いにまじり、煮炊きする匂いが漂ってくる。


やがて道沿いに立ち並ぶ家が増え、職人たちが打つ槌の音や、飴売りのかん高く謡うような声が聞こえてきた。


往来に入ると、真っ紅な髪のイダテンの姿を目にした大人たちが逃げるように道を開けた。


おなごたちは遊んでいた幼い童を抱き上げ、家や路地に逃げ込んだ。


総社の一つ手前の道を曲がると、目指していた場所はすぐに見つかった。


軒先に目印の猪の毛皮がぶら下げられている。


向かい側の長屋の前で天秤棒をかついだ二十代の男が立っているのが目に入った。


戸口は開け放たれていたが、壁があるのはありがたかった。


少なくとも風を防いでくれる。足を引きずりながら踏み入れた。


土間の先の板の間で、三十がらみの二人の男が昼間から酒を飲んでいた。


だらしなく袖を捲り上げ、着くずした姿に手入れをしていない髭と髪。


どう見ても、まっとうな商いをやっているようには見えない。


右側の瓶子を手にした目の細い男には見覚えがあった。


半年ほど前に、紅葉谷の崖の上からイダテンに矢を射かけた男だ。


男は、下卑た笑いを浮かべ、踵を返そうとするイダテンに声をかけてきた。


「これは、これは、珍しいのう。なんと、鬼の子ではないか」


左側にいた小太りの男がゆっくりと腰を上げた。


「ここは、われら人の住む街じゃ、お前のような者が来るところではない。さっさといぬがよい……ただし、その獲物は置いてな」


細い目をした男は、手近にあった棒に手を伸ばす。


「われらが、鬼を退治するか」


「おおっ、それは良い。われらの名が津々浦々まで鳴り響こうというものだ」


イダテンが、人に逆らわないことは知れ渡っている。


それをよいことに、おのれの勇猛さを誇示しようとする者もいる。


前に来たときは童たちにからまれた。


そのときはイダテンも、おとなしく引き返している。


熊や猪を相手にしたことは幾度もある。


しかし、人と争ったことはない。


蹴散らすことはたやすいが、力が違いすぎて加減もわからない。


口先だけだろうと、たかをくくっていた。


数々の嫌がらせは受けてきたが、間近で挑んで来るものは絶えて久しかったからだ。


体調が悪く、勘も働かなかったことも災いした。


後頭部に衝撃が走り、気づいた時には膝をついていた。


鹿の重みで押しつぶされそうになる。


先ほど天秤棒を持って向かい側の長屋の前に立っていた若い男が戸口を塞いでいた。


手にはその天秤棒が握られている。


板の間から降りてきた男にも棒で殴られ、後方から頭を足蹴にされ、鹿をかついだまま顔から倒れ込んだ。


鬼といえど不死身ではない。


このままでは命にかかわる。


力を振り絞り、起きざまに、前にいた男の片足をすくい、相手がたたらを踏む隙をついて表に出た。


が、痛めていた足首がぐにゃりと曲がり、激痛が脳天を突き抜けた。


膝が落ち、足が止まると、追って来た男たちの足蹴が襲ってきた。


立ちあがろうとあがいたが、眼に血と砂が入り込み視界を塞いだ。


口の中に温かいものが広がった。


頭をかばうより先に、懐に手を入れ、首からさげた勾玉の紐を引きちぎり握りしめた。


これだけは、奪われるわけにはいかない。


だが、容赦なく頭を蹴られ、体を蹴られ、ぼろ布のように転がった。

 

     *


そこへ、牛車が通りかかった。


檳榔の屋根、蘇芳簾に赤裾濃。


貴族のなかでも殿上人と呼ばれる身分の者しか乗れぬ豪奢な牛車だ。


物見が上がると随身が近づき車中の主に何事かを伝えた。


空は、すっかり黒い雲で覆われ、今にも泣き出しそうだ。


牛車に気づいた男たちが手をとめた。


さらに、牛車の警護をしていた侍たちが太刀に手をかけ、近づいてくると、男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。


履物を用意され、牛車から出てきたのは、漆を掃いたような瞳に桃花色の唇をした、なんとも愛らしい姫君だった。


日に焼け、薄汚れたイダテンとは対照的に、色白のきめ細かい肌と漆黒の流れるような髪を持っていた。


歳はイダテンと同じぐらいだろう。


(べに)紅葉(もみじ)色の衣袴を身にまとった姫君の胸には奇妙な獣が抱かれていた。


唐から渡って来て間もない、宮中以外では見られないという唐猫だった。


色は黒く、まだ幼い。その黒が、姫君の白い肌を一層ひきたてていた。


空から大粒の雨が、ぽつりぽつりと落ちてくる。


御山荘山と岩嶽山が連なる東の山の向こうで雷光が起こると風も強くなった。


笠持ちがあわてて姫君に駆け寄り、笠をかざすのを待っていたかのように、叩きつけるような雨が落ちてきた。


     *



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