第二十一話 わが名はイダテン
その鮮やかな緑色の瞳に魅入られそうになる。
まるで光り輝く珠玉のようだ。
加えて、その漆黒の艶やかでなめらかな毛並みにみとれてしまう。
周りから見れば、自分も、この獣のように珍しい存在なのだろうが。
その獣を抱いていた姫が「猫」です、と言った。
だが、同じものには見えなかった。
顔も全身もほっそりして、毛は短く尾がとびぬけて長い。目の色も違う。
その疑問に気付いたのだろう。老臣が補足する。
「唐から渡ってきた猫じゃ。宮中から出たのはこの猫が二匹目と聞いておる」
書物によると、すでに唐の国はなく、宋という国になっているようだが、この国では海の向こうの大国のことをいまだに唐と呼んでいる。
姫が、その唐猫に目をやった。
「子が生まれたというので、貰い受けられるよう、伯母が口添えしてくれたのです」
「そいつは、食えるのか」
人は犬も食う。
姫は、きょとんとした表情になった。
真顔で尋ねるイダテンの言葉の意味が咀嚼できなかったようだ。
老臣が面白そうに笑った。
「おまえは自分が飼っている鷹を食うまい。おなじことじゃ」
やはり自分を見張らせていたのはこの老臣だったようだ。
だが、飼っているつもりはない。飛天は自分で餌を獲る。
「名は、なんというのだ」
食わぬというなら、こいつにも名をつけたのだろう。
猫は、人の言葉を理解しているかのように、姫の顔を見上げる。
応えがないとわかると姫の胸から這い出して、とことこと几帳の向こうに消えていった。
姫が、ため息をついた。
「早く決めてやらねばと思いながら、決めかねているのです……これほど難しいものとは思いませんでした」
姫が話し終える前に猫が帰ってきた。
口に鼠を咥えている。それを、そっとイダテンの膝もとに置いた。
腰をおろすと、どうだとばかりにイダテンを見上げた。
こいつも餌を自分で獲れるようだ。
ならば、人に飼われているとは思っていないだろう。
「鼠を獲るので、重宝しておる」
老臣の言葉には自慢げな響きがあった。
イダテンは、猫に尋ねた。
「おれにくれるというか?」
「獲ってきたことを褒められたいのだ」
老臣が、答えた。
「気にせずとも良い。おまえが食え」
猫は、返事でもするかのように小さく鳴いて、その黒い頭と体をイダテンの膝に摺り寄せた。
「……気に入られたものよ。まだ、姫様以外には懐いておらぬというのに」
「イダテンには人を惹きつける力があるのでしょう」
姫が嬉しげに口もとをほころばせた。
「おれが獣に近いからであろう」
その言葉に姫は困惑した様子を見せたが、イダテンは取り合わなかった。
人の言葉には裏がある。獣のほうがよほど正直だ。
気がつくと、その艶やかな漆黒の体に思わず触れていた。
「なんとも美しい毛並だ。夜を思わせる」
「そのような名をつけたいのです」
名前といえば、と姫は続けた。
「あなたに聞きたいと思っていたのです。イダテンと言う名前の由来か、意味を聞いていますか」
問いの意図がわからない。
「意味などあるまい」
姫は、黙って文机に向かい、紙に「韋駄天」と書いた。
繊細で流れるように美しい字だった。
「このように書くのではありませんか?」
そのとおりだった。
否定しないイダテンを見て、姫は話を続けた。
「足の速い神様と同じ名前です」
ばかなことを――鬼の子に神の名などつけるはずがない。
「おそらく、お父様も足が速かったのでしょう」
姫が、ひたと見つめてきた。
「人を凌駕する力を持っている者は、古であれば『神』と呼ばれ、畏れ敬われていたでしょう」
何を言っているのだ。
煽てておいて思うままに操ろうというのか。
「わたしは、あなたの噂を耳にするたびに、この歌を思い出すのです」
白扇に書かれた歌を見せられた。
紙を折って作った籠に書かれていた文字だった。
読めぬと、断ったうえで訊いた。
「自分で作ったのか?」
「いいえ、在原業平という方の詠んだ歌です」
姫が、涼やかな声で詠んだ。
『ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くくるとは』
深い意味があるのだろうが、学のないイダテンには何のことかわからない。
「少しは読めるのでしょう?」
姫が微笑みながら問いかけてきた。
思わず眉を寄せる。
文字が読めなくても自分の名前の判別ができる者は多いだろう。
イダテンの目の動きを追って見当をつけたのであればよい。
だが、三郎たちと交わり、感情が表に出るようになったとしたら厄介だ。
「わずかばかりじゃ」
早々に切り上げたかったが、老臣は、身を乗り出してきた。
「いつ、学んだのだ。おばば様は、文字は読めぬはずじゃ……おまえの母者は、おまえが生まれてすぐ、亡くなったと聞いておるが」
鬼の子に教えるような物好きはいない。
「母が、札をたくさん残しておった」
「札を?」
姫も興味を示した。
「絵と文字を一枚ごとに札にしてあった」
なかなか達者な絵だった。
「桃」であれば絵と文字が並べて書いてあった。
数も、絵と文字を並べて一目でわかるように工夫がされていた。
木になっている桃の実の数が示してあり、猿が親子で桃を分け合ったり、食べてなくなった絵に説明が加えてあった。
おばばは無学だった。
だが、娘である母から多少のことは学んでおり、そこに書かれた絵や文字を説明するぐらいのことはできた。
さらに、読み書きの手本帳が残されていた。
紙は高価だと聞いていたので意外だったが、母に助けられた者たちから贈られた物だという。
家にも多少の書物があった。
それでは飽き足らず、かつて母のいたという多祁理宮や寺に忍び込み、そこにあった巻物や書物を読みあさった――むろん、これは、口には出さなかった。
誰に習ったわけでもない。聞く相手もいない。
意味のわからないものの方が多かった。
それでも、なお興味を失わなかった。
絵や図のついたものはなおさらだった。
人間たちに壊された家を修理したことがきっかけで、建築物や細工物には特に興味を持った。
しかし、専門の道具もなければ知識もない。
山の木も勝手に切ればなにを言われるかわからない。
目立つことはできなかった。手慰みに小さな細工や身近な獣や鳥を彫った。
「愛されていたのですね」
姫は目を伏せて、うらやましげにつぶやいた。
が、すぐに顔をあげ、イダテンに微笑みかけた。
「実は、あなたと出会った日、観音菩薩……いえ、天女のように美しい方が、夢枕に立たれたのです」
老臣は黙って聞いている。
「気がつくと私は庭に立っておりました。柔らかな風が私を包み込み、体を空にふんわりと押し上げたのです……体は軽く、まるで鳥になったようでした。地面は遥か下にありました。不思議と怖くはありませんでした……鳥のように手を広げると、さらに高く舞い上がり、風に乗った鳶のように先に進みました。街を、田を、畑を、野や山を眼下に眺め、導かれるように多祁理宮の上空まで運ばれたのです」
言い終えると瞼を伏せて息を継いだ。
「そこで目が覚めました。なにか意味があるのだと思い、じいに無理を言って、すぐに多祁理宮へ参拝に向かいました」
老臣が頷いた。
「その帰り道で、あなたに出会ったのです……思えば、あの方は、あなたの母上だったのではないでしょうか」
出かけるにしても何日も前に先触れを出し、約束をとりつけるのが貴族の礼儀だと三郎が言っていた。
占いでその方角が縁起が悪いと出れば、別の方角の邸に一泊してから目的地に向かうとも――確かに無理をしたのだろう。
その気まぐれで、助けられたのも事実だ。
だが、そのような話をするために呼び出したわけではあるまい。
「母の顔は知らぬでな」
そっけない答えに、老臣が、わずかに眉をひそめた。
さすがに姫も、イダテンが痺れを切らし、用はなにかと催促していることに気づいたようだ。
静かな口調で話しかけてきた。
「じいが、あなたの家族の弔いをあげさせてもらいたいと」
――この地を離れるのが遅れたのは、おばばの遺言があったからだ。
一周忌をと。坊主にやってほしかったのかもしれないが、自分ひとり手を合わせた。
老臣にうながされて、白砂が一面に敷き詰められている南の庭にでた。
夏であれば照り返しが、さぞかし眩しいに違いない。
一度、山の上から見たことがある。
この上に舞台を作り、宴が行われていた。
楽の音が美しい庭と舞を引き立て、異界に迷い込んだような錯覚におちいったものだ。
その庭にそぐわぬ話が待っていた。
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