005話 生の代償
俺の名は黒烏カムイ。一七歳。高校二年生。
父親、俺、妹の三人で暮らしている。物心ついた時から、父親に「一人で何でもできるようになれ」と言われて育ってきた。
ウチは母親が早くに亡くなったから尚更だった。
小さい頃は泣き虫だった妹の面倒を見ながら、帰りの遅い父親の代わりに炊事や掃除など家の事は何でもやった。
辛いと思った事はない。それが普通だと思っていたからだ。
それに、俺には心を許せる友達がいた。
俺達はいつも一緒だった。
今でも自分の部屋の机の上に、あの頃の写真を飾っている。
その写真に笑顔で写るのは……俺、アスカ、つむぎ……そして――。
◇
目を開くと、つむぎとマコトが心配そうに俺を見つめていた。
「つむぎ、マコト……。無事か――?」
「カムイ……。よかった……!」
「カムイちゃん……。カムイちゃあああんんっっ!!」
つむぎが目から大粒の涙をこぼしながら抱きつく。
「俺は――どうなったんだ?」
「カムイちゃんの胸に大きな穴が開いて……カムイちゃんが動かなくなって……それで――」
知りたいのはその俺がどうして助かったのか、という事なんだが……。つむぎもまだ気が動転してるらしい。俺が倒れた時の事ばかり言ってボロボロ泣いている。
自分の胸を見てみれば、今は何ともない。胸や制服に穴など開いていないし、地面に広がっていたはずの血だまりもない。不思議だったが、とりあえず無事ならそれでいい。つむぎが泣く必要はない。俺はつむぎの頭をポンと叩く。
「つむぎ、お前異世界とかに興味あったのかよ?」
「えっと、私はそこまで……」身体を離して涙を拭いながら言う。
「じゃ、何で来たんだ?」
「マコト君に行こうって言われたから……」
誘われたから来たのか。相変わらず流されやすいヤツだ……。
「あの女神はどこへ行った?」
アイツ……今度会ったら――!
「呼びましたかー?」
いたのかよ。頭の上から女神が降りてきた。
「今、女神さんがカムイちゃんを治してくれたんだよ」
……何? 俺は女神の攻撃を受けて倒れた。その女神が俺を治したって?
「どういうつもりだ」と訊きたかったが、その前に――。
辺りを見回す。俺が来た時と同様、みんなはまだ呆然と立ち尽くしていた。時間はさほど経っていない。どうやら俺はすぐに目覚める事ができたようだ。
「つむぎ、お前はみんなと一緒にいろ。マコトはみんなを一か所に集めてくれ」
まずはこの女神から二人や他のみんなを遠ざけた方がいい。
「マコト君、私も手伝うよ」
「ありがとう、つむぎちゃん」
二人が立ち去ろうとしても、女神はここに留まっている。どうやらあの二人には興味がないようだ。
今の女神からは俺達に対する敵意は感じられない。もしつむぎやマコトに危害を加える気があったなら、とっくに二人はやられているはずだ。
だが、コイツが危険な存在である事に変わりはない。コイツは人の命を奪う事を何とも思っていない。命を軽く見すぎている。今、命があって良かったと思う反面、俺を助けたのが本当にコイツなら命を弄ばれているようで腹立たしい。
立ち上がろうとするとめまいがした。俺は座ったままで女神に言う。
「さて、お前にはいくつか質問があるぜ」
女神は笑みを崩さぬまま、ふうっと息を吐く。
まあ聞いてあげますよ、という風に俺には見えた。
まず……。
「俺を助けたのはなぜだ?」
「気が変わったので助けてあげましたー」
気が変わった――それが理由……? ふざけやがって。
「お前、本当に女神か? 俺には悪魔にしか思えねえ」
「女神を悪魔呼ばわりするなんて失礼な人ですねー。もっかいぶっ殺しますよー?」
だからそれが女神のセリフじゃねえんだよな……。
「ガラケー達は……本当に――?」
「しつこいですねー」
しつこいも何も、信じられない。いや、信じたくない。それが真実というなら――。
「ガラケー達を生き返らせろ。そして俺達を元の世界に戻せ」
この女神ならできるはずだ。だが――。
「『質問』じゃなかったんですかー?」
俺の「質問がある」という言葉の揚げ足を取られた。
「テメェ……!」
もう立ち上がっても、めまいはしなかった。
女神めがけて拳を突き出す。それをヒラリとかわす女神。
「人間には女神に触れる事はできませーん」
「触れられないなら避ける必要ねーだろ!」
しかし拳を突き出す度、女神はヒラリヒラリとかわす。俺が動きを止めると――女神も動かなくなる。
試しにそっと手を伸ばして女神に触れようとしてみる。女神は動かない。手はそのまま女神の身体を突き抜けた。やはり光を掴む事ができないのと同じで、女神の身体に触れる事はできないようだ。
光を殴る事はできない。もう諦めた――と、見せかけて拳を振り上げる。
「おっと」
また避ける女神。
「じゃあ避けんな!」
「当たったらなんとなく悔しいから嫌でーす」
だから当たらねーんだろ! 人間には女神に触れる事はできないのに、自分の身体に拳が突き抜けると「当たった感じがして嫌」らしい。マジでいい性格してるなコイツ。
その時、俺の制服の上着のポケットからスマホがすべり落ちた。ちゃんと中に入れていたつもりが、引っかかって少し外に出ていたらしい。動いた弾みでポケットから飛び出してしまった。
「ちょうどいい。コレに入らせてもらいまーす」
そう言うと女神の体が光の帯のように変わり、スマホの画面の中に吸い込まれるように消えていった。そのまま地面に落下するものと思われたスマホは、淡い光に包まれて空中に浮いたまま留まっている。
「今から『女神アプリ』をインストールしまーす」
スマホの中から声が聞こえてきた。
……女神アプリ? 何だそれ。
「女神アプリをインストールすると、通常の電話機能や他のアプリは全て使用できなくなりまーす」
ウイルスみてーなアプリじゃねえか!
「おい、やめろ!」
「インストール完了でーす」
時すでに遅し。インストールは一瞬で終わり、すでに一切のキー入力を受け付けなくなっていた。
「コイツ……ッ!」
俺は空中に浮いていたスマホを片方の手で掴むと逆の手で拳を握った。
「スマホを叩いたって私へのダメージにはなりませーん。無駄でーす」
怒りに任せて自分のスマホを叩き壊すなんてバカらしい。だが、異世界に来てこのキー入力を受け付けないスマホが何の役に立つのか。それで多少気が晴れるなら叩き壊してもいい気がしてきた。
結局、女神アプリって……。
「私がこのスマホに入る為のものでーす。他の機能は邪魔だから消しましたー」
そんな事の為に俺のスマホは全機能を失ったのか。
しかし、俺のスマホの中に入って何をしようっていうんだ。まさかそのまま居座るつもりじゃないだろうな。スマホの画面の中で女神は「中々いい物件ですねー」などと呟いている。
その女神を見て、俺はある変化に気づいた。今まで女神の身体を形作っていた光が消え去っていたのだ。今は普通の人間と同じような姿で、顔までハッキリ見える。
そして、その顔は――。
「意外と童顔だな」
「なんですって」
初めてハッキリ見えた女神は思ったより幼い顔立ちで身体も小さく、俺達とあまり変わらない歳か、それより下ぐらいに見える。
「お前、いくつ? それが本来の姿って事か?」
「私は何千年も前からこの世界に存在していまーす。本来の姿はさっきまでの姿の方で、こっちがむしろ仮の姿でーす」
なるほど。確かに光の集合体のような姿の方が、いかにも人知を超えた存在らしく思える。今の姿は人間に寄せた姿って事か。なぜ人間のような形態をとったのか、俺のスマホに入って何をしようというのか、それを訊こうとした所で女神が先に口を開いた。
「それより……あなた、さっきから随分と元気がいいみたいですけど、もしかして『自分の身体が全部元通りに戻った』――とか、そんな風に思ってますー?」
……なんだと?
女神は、何も知らない俺を哀れむような、嘲るような笑みを浮かべていた。
「ハッキリ言ってあなた、あの時確かに死んでましたー。それが、何の代償もなく生き返る事ができた――本当にそう思ってるんですかー?」
女神の不穏な言葉に、俺は自分の動悸が早くなるのを感じ……。
え――? 胸をおさえてみる。
心臓の鼓動が――感じられない。
俺はすぐさま自分の手首を掴み、脈をとる。すると……。
脈がない。いや、血管を強く押すと、かすかにサーッという血の流れを感じる事ができた。しかし、普通ならばドクンドクンという脈拍を感じるはずだ。
どういう事だ……? 血は通っている。だが、心臓の拍動がないのは――。
「簡単な事でーす。あなたには今、心臓がありませーん」
心臓がない……だと……!?
信じられない。
俺は今、生きている。それは確かだ。だが、この女神の言うように本当に心臓がないとしたら――俺は一体どうやって生きているというんだ。
「『そこ』がどうなってるか、見たいですかー?」
『そこ』とは胸の中、心臓にあたる部分だ。すると、空中に浮いたスマホが胸の前で静止した。画面を見ると、カメラの映像のように自分の胸が映っている。
「じゃ、見せてあげまーす」
女神がそう言うと、次第に服が透け、肉が透け、骨が見えるようになった。スマホの画面に俺の胸の中が映し出された。
しかし、これは本当に俺の胸の中なのか――?
スマホと胸の間に手を入れると、手の骨が透けて見えた。拳を握ったり開いたりしてみると、そのまま画面の骨も動く。
今、俺の身体を透かして見ている――それは間違いないようだ。
「さあ、間もなく『そこ』ですよー」
ついに胸の骨までが透け、その中の臓器まで見えるようになった。
そして、心臓にあたる部分――。
そこにあったのは――。
「なんだ……これ……」
人間の体の中の臓器とは全く異質な、青白い光の球が俺の胸内に収まっていた。
淡い光の中に赤い血が流れているのが見える。
「これは魔力の塊でーす」
「俺の心臓は――?」
「消えてなくなりましたー。あなたの胸に開いた穴を治す時、骨や肉と違って心臓はつくりが複雑で治せなかったので、代わりに魔力の塊で埋めましたー」
俺は、まさかと思いながら何度も否定した、否定したかったその事実を突きつけられた。俺の心臓は消失していた。
「心臓がポンプのように血を循環させるのと違って、魔力が血に溶け込み、その魔力が静かな流れのように、血を体の中に巡らせていまーす」
もはや循環の仕組みがどうとかいう話は頭に入ってこなかった。
だが、重要な事は女神の次の言葉にあった。
「血を循環させる魔力を生み出しているのがこの塊でーす。この魔力の塊がなくなったら――あなたはその瞬間、死にまーす」
心臓が欠けた穴に代わりのように収まっているのがこの塊だ。その塊がなくなれば――そこはただの『空』の空間になる。
女神が生み出したこの魔力の塊がなくなったら俺は死ぬ。
つまり俺は、コイツの力でギリギリ生かされてるって事かよ……。
「あと、あなたは生意気だったので罰も課していまーす」
心臓を失った上に、まだ何かあるってのか。
俺はこのスマホをここに置いていきたいと思った。そしてクルリと背を向ける。
「罰の説明がまだでーす」
だがスマホは顔の横に回り込んでくる。
鏡を見れば顔面蒼白になってる事だろう。気分が悪くてめまいがする。でもそれを見透かされたくなくて、今できる限りの皮肉を言ってやる。
「んなモン心臓に悪いから聞きたくねーよ……」
「……? 悪いも何も、心臓がないんだから大丈夫ですよー?」
「うるせえ! そういう皮肉なんだよ、理解しろバカ女神!」