021話 アスカ、異世界へ
「カムイ? おい、カムイ!?」
カムイは意識を失ってしまったようだ。
「カムイ! 大丈夫か!?」
いくら呼びかけても答えない。
「眠ってるだけでーす」
そうなのか? 確かに、そのまま見ていると静かな寝息が聞こえてきた。
「寝て起きたら回復してるはずでーす」
「そうか、それは良かった……って女神!? 僕のスマホに移ってきたのか!?」
安心したらある違和感に気づいた。カムイのスマホの中にいるはずの女神が、いつの間にか僕のスマホに移ってきていた。
「寝てる人の携帯に入ってても退屈なだけでーす」
それはそうかもしれないが……。女神は一日の大半寝てるんだから、一緒に寝ててもいいんじゃないか? いや、それより。
「カムイから聞いているぞ。携帯の機能を全部消されたって。まさか、僕のスマホも!?」
「あなたは基本、向こうの世界の人なのでそれは勘弁してあげまーす。しかし、そのせいで中が狭くってしょうがないでーす」
スマホの中ってそんなものなのか? まあ、いいか。この世界について疑問があればすぐに訊けるし。スマホの機能に影響がなくて何よりだ。僕は胸を撫でおろした。そして改めて――。
「じゃあ、よろしく。女神」
これから共に行動するから、と挨拶をする。しかし、女神は――。
「あなたなんかとよろしくしたくありませーん」
おや、嫌われてるのかな。まあ、これがこの女神なりの挨拶なのかもしれない。
と、こんな事をしている場合じゃない。ユウキを探さないと。僕はシャツの胸ポケットにスマホを入れる。ここなら女神も視界を得る事ができる。左手に持つのは木刀。部屋の中、ベッドから手の届く所に護身用として置いていた木刀を持ってきていた。
一度深呼吸する。やはり、僕達の世界とは空気が違う。魔煌があるからかもしれない。魔煌は身体能力を上げるというが――。
僕は走り出す。最初、強い向かい風が吹いたのかと思った。しかし違った。それは僕自身が凄まじいスピードで動いた為に生じた風圧だった。
「ち、ちょっと速すぎませんかー?」
女神はあまりの速度に驚く。僕は森の中を風のように駆けた。木々の間を縫うように疾走する。まるでジェットコースターにでも乗っているかのようなスピードだ。これが僕自身の力だなんて。
しばらく走った後、立ち止まると――。
「うええ……酔いましたー……」
女神は気持ち悪そうに言った。いや、酔ったりとかするものなのか? この女神は本気で言ってるのか冗談なのかよく分からないな。
それはともかく――僕が立ち止まったのは、目の前に落ち葉を巻き上げたような痕跡を見つけたからだ。こっちの方にユウキは行ったから、これがユウキの通った跡かもしれない。
辺りを見回してみる。その時、何かが僕の視界の端に映った気がした。それは森の中ではなく、周辺の背の高い樹よりも上――ずっと遠くに塔のようなものが見えた。
あれは――!?
樹の枝葉に隠れて塔の先端しか見えないが、あの高さは王城だろうか。驚いたのはその塔の上に人影が見えた事だ。それも淵ギリギリの所に立っている。あれほどの高さだ。一歩踏み外せば命はない。一体、あんな場所で何をやっているのか。
次の瞬間――驚くべき事に、その人影は塔から飛び降りた。
身投げかと思ったが違った。人影はまるで鳥のように風を捉え、空を切り裂くように滑空していく。その人影をよく見れば、脇や脚の間にムササビのような被膜のある特殊なスーツを着ているようだった。僕達の世界にもあるウイングスーツによく似ている。
そして人影はこの森に向かって一直線に滑り降り、吸い込まれるように木々の間に入っていった。
落ち葉を巻き上げたような痕跡はこの先に続いていて、人影もここを進んだ先に降りた。ユウキを探す事が最優先だが、その人影も気になる。注意深く周りを見ながら歩みを進める。
おそらく人影が降りたのはこの辺りだ。そこは不気味なほど静けさに包まれていた。
その時、少し離れた場所で何かが動いた気がした。ほんの一瞬だが、奥の樹の陰に黒いローブをまとった男――いや、男とは限らないか。フードを目深にかぶり、性別は分からなかった。その黒い人影がこちらを見ていた。
それがさっきの空を飛んでいた人影だろうか。僕は警戒しながら慎重に進む。向こうから姿を現すような気配はない。確かに黒いローブの人物はこちらを伺っていた。僕の存在に気づきながら、隠れている? 隠れているのだとしたらなぜ?
その時、どこからかガサガサという音が聞こえてきた。
どこだ? 僕は音の出所、その音を出しているものの正体を探った。
そして――。
真上だ! そう気づいて上を見上げた瞬間――。
「きゃっ!」
思いがけない声と共に上から落ちてきたものを、僕は思わず抱きかかえた。その少女は、僕の腕の中で輝いているように見えた。
日の光を受けてキラキラと艶めく髪、真っ白で透き通るような肌に桃色の瑞々しい唇。大きな瞳は吸い込まれそうなほど純粋な輝きに満ちている。歳は僕と同じぐらいだろうか、しかし今まで見た事のないほど美しかった。
「大丈夫?」
僕は抱きかかえていた彼女を降ろした。そしてこの世界の言葉で話しかける。カムイは僕が言葉が分からないと思っているようだが、カムイが単語帳を作っている時に、話し相手をしながらその様子をスマホを通して見ていた。
異世界の言語とはどんなものだろうと興味が湧いて、少し覚え始めたら気づけばテスト前の勉強のように没頭していた。どうせならカムイに負けるものかという意気込みで、しかしそれをカムイに気取られる事なく覚えた。結果、カムイは二日で覚えたが、僕は徹夜までして三日かかってしまった。
「は、はい……すみません……」
彼女は気まずそうに目を伏せた。しかしその様子は、何かを胸に秘めているかのようでもある。
「上から落ちてきたって事は……キミがさっき塔の上から飛び降りたのかい?」
それを訊くと表情が驚いたように変わる。
「み、見ていたのですか……?」
僕は頷く。頭上を見るとボロボロに切り裂かれた布が枝に引っかかっていた。
「これは?」
「パラシュートが……樹に引っかかってしまって……」
そう言う彼女の顔は少し恥ずかしそうだった。そうか、上から落ちてきたのは引っかかったパラシュートを身体から外したからか。
「どうか、この事は口外なさらないで下さいませんか……?」
何か秘めていそうだと思ったのは気のせいではなかったようだ。彼女は困ったように言う。知られてはマズい事が何かあるのだろう。しかし、あの澄んだ瞳を見れば彼女が悪い人間でない事は分かる。僕は素直に頷く。
「でも、どうしてここに来たのか訊いていい?」
代わりに尋ねた。
「それは……」
彼女は答えかけて、くるりと背を向けると木々の間を歩いていく。この先にその理由があるのか?
その方向を見ると――光が溢れ、この深い森にまで零れていた。これだけ光が差しているのは、すぐそこで森が終わっているのだろう。
光輝く木立の中を歩いていく彼女は、眩く消え入りそうに見えた。僕も後を追う。
そして、森を抜けた先には――。
眼下に見渡す限りの雲海が広がっていた。それは夕日に照らされ、真紅と黄金が混ざったように眩く輝いていた。空は朱に、地平は茜に。目の前に広がる全てが赤に色づいて、まるで夕日が世界の一切を自身の色に染め上げてしまったかのようだ。
彼女の口から今の言葉の続きは聞かれなかったが、この風景を見る為に来たのだという事を、夕日が何より雄弁に語っていた。
周りに目を向ければ、そこは森から一部が突き出したような平地だった。目の前は数歩で崖の際だ。だからか、そこには柵が設置してある。彼女は柵に手をかけて、この風景の中に佇んでいる。崖から左の方をよく見れば、崖伝いにずっと行った所、ここより高い位置に、岬のように突き出した地形がある。
岬以外に見える地形は何もない。カムイの話によると、この世界は浮遊大陸のようになっている。おそらくここは世界の端で、この雲海の遥か先には別の世界があるのかもしれない。そして彼女の視線は夕日というより、岬や雲海の先に向けられているような気がした。
不覚にもこの時、僕は夕日に照らされる彼女の美しい横顔に目を奪われていた。その表情は感傷、いや郷愁だろうか、どこか切ないような眼差しが僕を惹きつけたからだ。
「そうだ。キミ、名前は? 僕はアスカ」
「私は……フィルといいます」
するとそこに――。
「わあああぁぁっ!!」
不意に飛び込んできたその声で、何か大切なものを探していた事を思い出した。
「そうだ、ユウキ!」
だが、今の声には聞き覚えがあった。その声の主こそ、探していたユウキ本人だった。
見れば、奥からユウキが凄まじい速さでこちらに向かって走ってくる。獣に追いかけられているようだ。まさか、あれが魔獣か? 魔獣だとしたらヤバい。追いつかれたら命はない。
しかしユウキは――。
「ガチでヤベー! フッフゥー!」
いまいち緊張感がないな……。ユウキの方も僕を見つけたようだ。ユウキは僕の顔を見るなり――。
「えっと……?」
と呟いた。信じられない事に、久しぶりに見たユウキは「あれ? コイツ誰だっけ……?」という顔で僕を見た。
「アスカだ! キミとはもう十年ぐらいの付き合いになるぞ。名前ぐらいすぐに思い出せ」
「そうそう、アスカ! お前もこの世界に来てたんだな! フゥー!」
だが相変わらずで安心した。
「あれが魔獣か?」
獣は僕達を認識したのか、走りを緩めて近づいてくる。
「そうだぜ! フゥー!」
「おかしいでーす。もうこの辺りに魔獣は出ないはずでーす」
女神はあれが魔獣だと認めた上でおかしいと言った。このエリアの魔獣は死んだからもうここには出ないというのだ。
「アイツ、どんだけ逃げてもガチで追いかけてくるんだぜ! フゥー……」
ユウキは逃げ足だけなら僕より速い。魔煌で身体能力が上がっている事を考えるととてつもない速さだ。そのユウキが逃げきれないほど魔獣とは足が速いのか?
僕は持っていた木刀を握りしめ、構える。魔獣は木刀を見た瞬間、ビクッと反応したように見えた。警戒しているのか、ゆっくりと間合いを取るように歩く。
「あーっ!」
ユウキが何かに気づいて魔獣の頭を指差す。
「アイツ……! この間の……!」
見ると魔獣の後頭部にコブが。そういえば、カムイは言っていた。
「魔獣の頭を後ろから木刀でブッ叩いて、一撃で仕留めてやったぜ!」と、得意気に。やっぱり仕留めきれていなかった。魔煌で身体能力が上がっていてもカムイはカムイだ。
「そういえば……魔獣は匂いを辿ると聞いた事があります」
フィルが口を開いた。なるほど。死んでいなくなったはずの魔獣が出たのは死んでいなかったからで、ここに来たのは覚えのある人間の匂いを辿っていたからか。そしてユウキを発見した。ユウキの逃げ足には追い付けなかったとしても、匂いで追跡できたんだ。
フィルが口を開いた事で、そこで初めてユウキはフィルを見た。
「ヤベー! ガチで超かわいいじゃん!! フゥー!」
ユウキはフィルに「勇者のパーティに加わるかい?」などと言っているが、ユウキの言葉をフィルは理解できない。日本語で喋ってるからだ。しかし、いい機会だ。
「なあ、女神。魔煌神術といったか? 女神の力でユウキがこの世界の言葉を理解できるようにしてくれないか。そして喋れるようにも。ユウキは勉強が苦手で、英語どころか日本語もおぼつかない。そんなユウキが自力でこの世界の言葉を覚えられるとは思えない」
「この人にそれをやるほどの価値がありますかー?」
「ある……と思う」
「ある!」とハッキリとは言えなかった。でも、いつでも誰より明るい。その明るさに僕達が助けられる事もある。
「仕方ないですねー」
女神はそう言ったものの、特に何かしたようには見えなかった。だが。
「あの……あなたは?」
「俺は勇者なんだぜ! フゥー!」
ちゃんと会話できるようになったようだ。
そこで、ずっと睨み合っていた魔獣がいよいよ距離を詰めてきた。
「勇者様は下がってろ」
僕は魔獣を引きつける。フィルとユウキの方へ魔獣が行かないように、誘い出すように二人から距離を離していく。
「あ、あの方は、大丈夫なんですか!?」
至近距離で魔獣と向かい合った僕を見て、心配そうな声を上げるフィル。その声が合図だったかのように、魔獣が跳躍した。僕は飛び掛かってきた魔獣の頭めがけて木刀を薙いだ。飛び掛かってきた以上の勢いで吹っ飛ぶ魔獣の巨躯。その身体は轟音と共に樹に叩きつけられて落ちた。樹が折れそうなほどの衝撃と舞い上がる土煙。
「アイツなら大丈夫なんだぜ! 学園で一番強い俺の次に強いヤツだぜ! フゥー!」
フィルの問いにユウキが答える。その内容には少し引っかかるところがあったが、それより僕は今、自分から発揮された力に驚いていた。
「これが――魔煌の力……」
「グルルル……」
魔獣が起き上がる。派手に吹っ飛んだ割にはあまり効いていないようだ。なるほど、タフだ。だが、今なら負ける気がしない。
僕は再び木刀を構えなおす。
「お前が、ガラケー達を……報いを受けさせてやる」




