空を飛んだ少年
飛べると思った。
まるでスーパーヒーローみたいに。正義の味方のように。
わるいヤツをやっつけるんだ。
空 を 飛 ん だ 少 年
「とべましたか?」
「うんっ!」
沈んだ空気。淡々と響き渡る読経の声。
すすり泣きのど真ん中、彼は自分の棺桶の上に座って足をぶらつかせていました。
「ばって手を広げたんだ。そしたらとべた! とってもきもちよかったんだよ!」
「そうでしたか。」
「ぼく、ヒーローみたい?」
親より先に死んでしまった子。その罪は、重いと聞きました。
確かにそれは、とてもとても悪いことだろうな、と思います。
だから、彼がヒーローであるかどうか、私には素直に首を縦には振れませんでした。
「とても、かっこいいですよ。ヒーローみたい。」
嘘をついてしまいました。とてつもない嘘を。
決して悪い嘘ではないと、思うのですが……。小さな子ども相手につく嘘は後味が大変悪いものです。
「ねえ、お姉ちゃん。どうしてみんな、泣いているの?」
彼はようやく目の前の黒ずくめの人々に気がついたようです。
きっと「葬式」というものを初めて体験したのでしょう。
そのハジメテがよもや、自分のものになってしまうとは……不憫で仕方がありません。
これこそ、最初で最期というものではないですか。
彼は覚えてなどいないのです。
マンションのベランダから飛び降り、地面に強く頭をぶつけて死んでしまったことを。
わかっては、いないのです。
「……あ! 悪いヤツがいるからですよ。」
ああ、また嘘をついてしまいました……。
「わるいヤツが、みんなをいじめているんだね!?」
「そ、そうです。ねえ、たくみくん? 一緒に倒しましょう。」
これはしかし大成功です。
これなら迷わず、面倒なことにもならず、
彼の魂を天にあげられるでしょう。
「わかった! おねえちゃん、わるいヤツ、倒しにいくよ!」
そう言うとたくみくんはサッと風のように……さながらスーパーヒーローの如く飛び出して行ってしまいました。
ここで見失っては大変です。
死後の魂をあまり長く下界に残してはいけません。
早く天国へ送り出さなければ、地縛霊として残り続けてしまうことだってあるのです。
追いかけましたが、やはり子どもの速度にはかないません。
ましてや重力なんて関係のない今の彼の体では。
……年だって、感じてしまいました。
「嗚呼……早く見つけないと……先輩に怒られてしまう……!」
小さな先輩。
普段から冷たいあの人のことです。今まで一度も怒られたことはありませんが、
それはもう恐ろしい形相になること間違いなしでしょう。
――これは……ピンチですっ!
私は飛び回りました。文字通り、飛び回りました。なにせ死神には生身の体はありませんから、まさしく縦横無尽に街中を飛び回ったのです。
路地裏にも、寂れた団地の下にぽつねんと在るだけの公園にも、果ては遊園地まで行きましたが、どこにもたくみくんの姿は見当たりませんでした。
「ああ……どうしよう……!」
とてつもなく嫌な予感がします。このまま、自分の死を理解していない彼を放っておけば、亡霊となってこの世を彷徨い続けてしまうでしょう。
そうならない為に、私達が、死神がいるというのに……。
途方に暮れて空に漂いながら冷や汗を拭ったそのときです。背後に突如現れた気配に、別の冷や汗が背中を脇を伝いました。
「逃がしたのね。」
冷たい声。刺々しい声音。
振り返るまでもありません。これは、私が死神となって最初に出会った死神――赤い浴衣を着た古風な少女の声です。
「あああ! せ、先輩じゃないですかあ! 奇遇ですねえ!」
「逃がしたのね。」
とても、怒っています……。
「火事泥棒は自分の燃やした現場に戻ってくるというらしいわね。」
「え……?」
「火事泥棒は自分の燃やした家を確認しに戻ってくるというらしいわね。」
小さな死神先輩の言葉に、ふと思い当たる節がありました。
おそらく其れは、「自分の死んだ場所に戻ってくる」ということで……。しかし、自分の死を自覚していない人間が――元、人間が――自分の死に場所へ向かうものでしょうか?
「見てきてごらんなさい。」
彼が飛んだ場所――それは、この街が誇る高層マンションの13階。彼の、家です。
「たくみくん。」
彼は、陽も沈みきった月明かりの中で、ベランダに腕をついて下界を眺めていました。
先程まで――彼の葬式の中では一切見せなかった、思いつめた表情をしているようでした。――それは背後からこっそり伺った結果読み取った、曖昧なものなのですが。――
「おねえちゃん。ぼくね、おもいだしたよ?」
「……なあに?」
「ぼくね、こわかったよ。やっと飛べて、うれしかったんだ。でもね、とてもこわかった。」
動かない体、全身に息もできないほど打ち付ける風、近づく地面。
彼は思い出していたのです。自分が、死を経験したその瞬間の記憶を。
「……たくみくん。お空に逝きましょう? それで、ヒーローに生まれ変わりましょう。」
「そしたら、みんな泣かなくていいの?」
「ええ。」
「もう泣かない?」
「泣きません。」
「おねえちゃんも?」
気がつけば、私の頬には静かに涙がこぼれ落ちていました。
だって私は今から、彼を、殺すんですもの。
それが既に死んだ人だからって、私にとってはどうでもいいことでした。
「たくみくんが、次に生まれてくれたら、きっと、会いに来てください。ヒーローになって。そしたら、もう、私、泣きません。」
子ども相手になんと情けない……。自分でもそう思いつつも、涙は止まりませんでした。
そっと、腰まわりに温もりを感じました。
たくみくんです。たくみくんが、うんと強い力で私を抱きしめてくれているのでした。
「わかった。ねえ、お空につれていってくれる?」
「……はい。」
精一杯の笑顔と共に、彼を送り出します。
彼は、私にとってのスーパーヒーローのようでした。
人は、空を飛べません。
でも、心は飛べるのです。どこまでも、どこまでも。