ピアニストの追憶
有名ではなかったけれど、夢があった。
決して上手ではなかったけれど、弾きたかった。
いつまでも、音楽と共にいたかった。
多くはないけれど、私の腕を認めてくれる人もいた。
それなのに、
その腕はもう、ない。
ピ ア ニ ス ト の 追 憶
その人は、ピアノの前に座っていました。
昔、其処は巨大な音楽ホールだったといいます。
今は屋根が抜け落ち、瓦礫の山と化した観客席。
舞台上にぽつんと佇むホコリまみれのグランドピアノだけが、燦々と月夜に照らされていました。
「私は有名ではなかった。けれど、夢があった。」
女性は月明かりの下、静かに話し始めました。
「初めての公演日だった。もうすぐ私の番だった。とても緊張していたわ。
舞台袖で、前の番の演奏者のピアノをずっと見ていた。
とても綺麗な音色で、嫉妬しちゃうくらい。
もうすぐ曲が終わる。そうして彼女がお辞儀をして舞台から降りたら、次は私の名前が呼ばれるんだわ、って。
その時だった。大きな揺れだったのを覚えてる。とても怖かったから。
目の前に照明が落ちてきて、観客席の屋根が真っ先に落ちて。悲鳴が聞こえたわ。
たくさんの悲鳴……。カーテンにくるまってやり過ごそうとしたのだけど……。
遅かったのね。カーテンレールが落ちてきて、私の肩に……。」
ぽつぽつと思い出を語る彼女の右肩から下はなく、赤いドレスの袖だけが、だらんと垂れていました。
「私の弾く曲で、誰かひとりだけでも、感動してほしい。
ひとりだけでいい。誰でもいい。心動いてほしかった。 腕が飛んでいったのを見たわ。そして、その直後には、視界が真っ暗になった。
気がついたら瓦礫の山の上にいて、たくさんの救急車が来て……。
運ばれていったわ。私の右腕と、私の死体。」
「自分の死体を見るのは、どういう気持ちでしたか?」
「不思議だった。あれが、私? って、思った。」
「わかります。私も、一度経験しましたから。」
そうね、死神さんだって、昔は人だったのでしょうね。と、彼女は上品に笑いました。
彼女は左手で、ホコリをかぶった鍵盤を撫でていました。
その目は悔しさと悲しさとが織り交じった、寂しい目でした。
「香月麗華さん。その夢、叶えてみませんか?」
「え?」
死神は、奇跡だって起こせます。
驚いた彼女が顔をあげると、其処には観客席いっぱいの人が映ったことでしょう。
会場に溢れんばかりの拍手がこみ上げ、司会者がマイクを通して言うのです。
『次は、香月麗華さんによる、バダルゼフスカ作曲「乙女の祈り」です。』
その声に驚き、彼女はしばらく立ちすくんでいましたが、
はっと我にかえりぎこちなくも上品にお辞儀をひとつしました。
グランドピアノの前に座り、一息、つきます。
そして彼女の演奏が始まりました。
鍵盤の上を流れるように縦横無尽に滑る右手。
一定のリズムを刻む左手。
入れ替わり高低音を奏でる両手。
とても美しい音色でした。
素人の私には、上手下手などわかりませんが。
だけど、心がこもっていることはわかりました。
月夜の下、大喝采が夜空に響き渡りました。
拍手の渦に飲まれながら涙を流す彼女の姿は、もうありません。
後にはただ、瓦礫の山と、ほんの少し輝きを取り戻したグランドピアノだけが、
ひっそりと過去の大震災の傷跡をそこに刻んでいるのみでした。
「お疲れ様。初めての仕事ね。」
「あ、先輩。」
赤い浴衣の少女が、其処にいました。
肌寒いこの季節には多少ちぐはぐなその姿も、私たち死神には感覚がないので、衣装のようなものです。
「無事に成仏できたようです。麗華さん。」
「そう。よかったわ。で、アナタは?」
「……ご覧の有様です。彼女は、私と何も関係なかったようですね。」
私たちは、死神。
死んだ人を無事に送り届ける役目を担っています。
「じゃ、次の仕事にいくわよ。」
「はい!」
夢を叶えられる仕事。
悲しい涙を、幸せな涙に変えられる。
私たちなら。