3.3 故障
エズラが町に戻ったのは、光の町が眠りの準備を始める時間帯だった。だから、町の活気は昼間に比べて鎮静しており、晩の幾刻前のゆったりとした雰囲気が、漂っていた。
石で出来た、住宅の窓。遥か先まで無数に並んだそれらから、中を灯しているオレンジ色の光が、帰路を歩むエズラに、些細なおすそ分けをしてくる。しかし、ノーヴの腕や脚から滴る白銀の液体は、彼らの周囲をほんのりと紫色に照らしていたので、エズラはありがたくも遠慮する。はっきり言って、彼女の存在が町の住人に――ひいては、トラキアの軍人に見つかったら大変では済まないのだから。
狩りの名人はと言えば、そんな彼の心配を察してくれたのだろう、「町の様子を見てくる」と言ったきり、先に駆けて行ってしまった。けれど、エズラは感謝している。多分彼女は、誰かに見つからないように、配慮してくれたに決まっているのだ。それほど、ノーヴの紫色は、夜になると良く目立つ。本当は、ズーの配慮に従って待っているべきだとも思ったのだが、ノーヴの怪我が気になるから、こうして町の中に入ってしまった。エズラの方は、肩に穿たれた穴をノーヴに治してもらったので、ここに来るまで楽ちんだった。けれど、ノーヴは違う。彼女は”本物”の神様なのだ。そんな彼女を治癒する事など、それこそトラキアの国が熱心に読む事を勧めている神話の中の、”張りぼて”にしか出来ない芸当だろう。だから、歩く事すら困難といった具合の、小さくて脆い彼女の体を、これ以上傷がついたら大変だと、とても大切に抱いて、長い長い道のりを歩いてきた。
それでもエズラが楽ちんだったのは、やはり、彼女への想いが一口では語れない程に大きいからだ。それに彼は、職人が手掛けた、内なる美のイメージを体現するような精巧で妖美な人形よりも、ずっとずっと、ノーヴを美しいと思っている。そういった要素もまた、彼の体を軽くしたのかも知れない。
それにしても、余りにも人気がない。こんな町をエズラは、見た事がない。不思議に思いつつ、周囲に気を配っていたら、ノーヴが腕の中でモゾリ、と動いた。
「ねえ、エズラ」
「どうしたの」
ノーヴを見たら、彼女の紫色の瞳と、目が合った。体から出る光と比べてずっと淡い色のそれは、町を穏やかに照らす橙色を蓄えて、チラッ、と輝く。ほんのちょっとだけ、心臓が強くなったけれど、あんまり静かに口を動かすものだから、エズラは不安に苛まれつつ、耳を傾ける。
「何だか、変」
静かな声が、エズラの内に潜んでいた不安を引っこ抜いて、その正体を露わにした。悪い予感が的中したから、焦ったのだ。彼の心臓が、今度は違った意味で、早くなる。そんな気持ちから、どうにかしようと頭を左右へと忙しなくさせて、隅っこに、高い石の塀を見つけた。
光の町の各所に設置してある、町専属の石職人が仕上げたベンチ。それが、塀に隠される形で、ちょこんと、その体の一部をエズラに見せつけてきたのだ。急ぎつつ、けれど慎重に、エズラは彼女を運んでいって、ベンチに座らせる。そして自分も、左隣にお尻を落とした。どうやらこのベンチは、本当に目立たないらしい。と言うのも、オレンジ色の光を受けつつ、死角が多いものだから、ノーヴの光に関しても、人目に関しても、気が楽だったのだ。
くすぐったい感じがしたから、エズラは自分の右手を何となしに見る。するとノーヴの白い衣が、風に揺れて、慎ましく触れていた。
「大丈夫?」
顔を覗き込むように、上半身をノーヴの前にやる。大人しく座っていた彼女の瞳を見たら、ちょっぴり濃い色になった気がした。
「変だけど、大丈夫みたい」
大丈夫と言った割には、彼女の動きは遅い。工房で一生懸命に動いていた時の彼女と比べて、余りにもぼーっとしているように見える。神様だから、エズラにはどうしようもないけれど、この場所で座り続けるのが良い選択だとは思えなくなってきた。
「工房にいって、休もう。ここじゃ――」
立ち上がったエズラは、見た。だから喉を詰まらせて、語尾に届かなかった。それは、間違いないし、錯覚でも”なかった”らしい。
ノーヴの瞳が、綺麗な紫色から、紅色に変わっていた。それは、工房の火とも違うし、太ったおばさんの店に並ぶ重い赤色のワインとも違う。もっとずっと危なくて、怖いイメージを抱くものだ。それこそ、まるで人間の血液のような、本能的な恐怖を煽る、そんな色。
目を見開いていたら、ノーヴはそれと正反対に、目を僅かばかり細くした。目に光が入らなくなって、かさついた質感になったものだから、余計にエズラの背中は寒くなる。けれど、このまま休んでいても、どうにもならない事は明らかだ。それにノーヴは、言葉を交わす云々といった感じではない。
霧の森で、ノーヴの涙を見た時に、もう二度とノーヴを泣かせないと強固に決心したエズラは、何も知らない少女から、奇しくも、大切な者の為に生きる事を、学んでいる。だから、絶対に何とかして見せようと、それこそ”神様”に誓いをたてる。
エズラは一旦身を引いて、高い塀から何気なく頭を出した。すると周囲には、びっくりする位に、人の姿が見えない。これ幸いと、素早く頭をひっこめて、しかし慎重にノーヴの細い体を持ち上げたら、壁伝いに、彼は工房へと向かった。
人目に気を付けながら歩いてきた結果、工房に着くなり、疲労がどっと溢れてきて、エズラを襲った。入り口に近づいて、敷居をまたいだ所で、奥の方から、ズーが転がり出てきた。
「おいエズラ! どうして待ってなかったんだ!」
グラグラと、目が揺れている。いつも沈着な彼女の姿とは程遠いけれど、怒られても仕方がないと思って、「ごめんなさい」と、素直に謝った。でも、それどころではない。
何か言いたげなズーのわきをすり抜けて、エズラは神様を丸太の上に座らせようとした。しかし、町の中を歩いている途中から、だんだん力が抜けてゆくようにダラリとしていたから、やはり、自分で腰かけられないらしい。ノーヴは丸太にも、白い体をくたりと寄りかけてしまう。
彼女の衣の袖口を染めた、白銀の液体。布の中で飽和してしまったのか、ジワリとにじみ出てきて、地面に滴り落ちた。
「何だ! こりゃぁどうした!?」
エズラがノーヴの様子を見ていると、今度はへファイスの怒号が飛んできた。普段だったら肩が震えていた筈だけれど、今のエズラでは、何の反応も見せられない。
事情を説明する為に、ゆっくりへファイスへ向く。
「霧の森でオオカミにやられて、それで……」
そこから先は、つっかえて出てこなかった。大口をポカンと開けて、目も同じようにしていたへファイスが、口を噤んだままにノーヴのもとへやって来たと思えば、今度は、鍛冶をやる時のように丁寧な動きで、彼女の腕を持ち上げたり、顔を覗き込んだりし出す。
「こいつぁ、どうしたもんか」へファイスが、ノーヴを抱き上げる。
エズラが目で追っていたら、彼は一等大きい机を、脚だけで引っ張ってきて、その上にノーヴを横たえた。そんなに苦しそうには見えなかったけれど、楽そうにも見えない。ノーヴは、全くの無反応で、不気味な赤い目だけを僅かに動かした。そんな所をズーも見ていたのだろうか、いつの間にかへファイスの横に立っていたから、エズラも机を囲むように、並んだ。
「やっぱり、傷が深かったのか」
ズーは、彼女のシンボルである緑の帽子を脱いで、なんと、脇へと投げ捨ててしまった。回転しながら地面に着陸した帽子が、サッと、細かい埃を持ち上げる。エズラが目をノーヴへ戻したら、へファイスが彼女の衣をまくって、腕の傷に見入っている。
「噛まれたのか」
「ああ」
ズーが軽く返す。へファイスは、ノーヴの腕を優しく手放して、今度は、ふくらはぎに穿たれた穴を覗き始める。エズラもまじまじと見てしまったのだが、余りに痛ましいから、とても長い事見れたものではなかった。目を逸らしたら、肩にそっと、何かが乗っかってきた。
「すまない、私のせいなんだ。ちゃんと見てなかった」
ズーの手だった。感触から、どうもしっくりこない。彼女は何だかんだ言いながら、ずっと後悔していたのだろう。肩に乗っかった手に、エズラも重ねる。
「そんな事ないですよ」
視線が、集まってきた。構わずに、エズラは継いだ。
「ズーさんが助けてくれなかったら、僕も……」
途中でノーヴを見たら、それ以上言葉を紡ぐなど、出来なかった。と、へファイスが目を細くして、じっとこちらを見てくる。エズラがまなざしを追いかけたら、どうやら自分の傷口に注がれていると気が付いた。
へファイスが、僅かに頭を持ち上げる。
「お前、良くみりゃ血がついてんな。見してみろ。噛まれたんだろ」
「あ、僕は大丈夫です。ノーヴに治してもらって」
言って、ズーの瞳を見たら、狩りの達人はいつも通りの沈着な感じで、小さく頷いた。へファイスが、今度はズーへと視線を注いでいる。
「治してって、どういうこった」
「これです」
沈着なズーが口を開いたら、聞きたくない謝罪が飛び出るのではと思って、エズラは即座にへファイスへ重ねた。そうして、ノーヴの袖口にたっぷりと付着している銀色を指さしたら、へファイスの眉毛がぐにゃりと曲がった。
「こりゃぁ、随分濃いからあれだったが、塔にある”ヤツ”じゃねぇか」
額に大きな手を置いたへファイス。その際、ピタン! と、心地よい音がした。
「まいったな、俺じゃどうにもできねぇ」
大きな手を広いおでこに乗っけたまま、へファイスがズーの顔を見た。けれど、ズーは首を左右に一回ずつ振って、しばらく黙り込む。彼女の目線がどこに向いているのか、エズラでは判断できなかった。
けれど、
「まあ」
と言って、ズーは続ける。
「神様だから簡単には死なないだろう。人だったら、これだけの傷がつけば、その場で死んでもおかしくない」
そう言って、ズーは傷ついたノーヴの全体を捉えるように、眺め始めた。エズラもつられて見てみれば、いよいよ彼女の瞳は黒っぽい赤に染まって、瞼も、殆ど閉じてしまっている。さっきまでゆっくりとした動きを見せていただけに、エズラには殊更、耐え難い光景だった。助けを求めるようにへファイスを見たけれど、彼にもどうしようもないらしく、腕を組んで仁王立ちしているだけだった。