最終話
渚は頭を抱えて起きあがった。
だるい。何があったのか、思い出せなかった。
「あれ」
下着の位置が不自然だった。位置を直して、暁の姿を探した。彼はいつもと同じように横たわっていた。
何を心配していたのだろう。
記憶が混乱していた。
「何かあったっけ?」
暁に聞こうとしたとき、病室のドアが開いた。
「渚、やっぱりここだった」
同僚に腕をつかまれた。
「何?」
「あんたの写真が」
「早見さん、院長室に来てください」
婦長の厳しい顔もあった。
「はい」
写真という単語に引っかかりを感じた。
「困るんだよ」
院長から渡されたプリント写真に、渚は言葉を失った。
渚のナースウェアがめくられ、下着が下ろされていた。剥き出しになった下半身と、はだけた胸がしっかりと収められていた。暁の股間に顔を埋めたものもあった。
「こんなものが外に漏れでもしたら、病院の名に傷がつくとわかっているのかね? 誰が撮ったかわからんが」
だんだん頭がはっきりしてきた。
睡眠導入剤だ。おそらくトリアゾラムだろう。あれのせいで、一過性の健忘状態に陥っていたようだ。通常使用よりも、多く処方された疑いがある。
太田が紙コップのお茶に溶かしていた。医師として、適正な量を知らないわけがない。わかっていながら、多めに入れたのだ。悪意を感じずにはいられなかった。
撮影は、渚が眠っている間にされていた。太田が首から提げていたのは、カメラだった。
薬の効き目から換算して、二時間ほど前になる。その後、院長室にでも写真が投げ込まれたのだろう。
「しばらく君には謹慎してもらうよ。日頃、よくやってくれているから、悪いようにするつもりはないが」
ねっとりとした老人の眼差しが、渚の胸や腰に絡みついていた。
「申し訳ありませんでした」
婦長が頭を下げ、渚も従った。
「あの」
「何かね」
「その写真は」
渚は、暁と写った写真を指さした。
「没収だ」
処分してくれるのか。それとも。
震える腕を震える手で握った。冷静になるように努める。
裸の写真など、取るに足りないことだと思い込んだ。見られて減るものじゃない。身体が傷つけられたわけでもない。
暁のことを思った。
これくらいのこと、何でもないはずだ。
我慢できる。
我慢してみせる。
事を荒立てない、と病院の方針が決まった。
一週間ほどで、渚は病院に復帰した。だが、写真の噂はナースや医師たちの間で広まっていた。
太田の噂は、いつの間にか消えていた。
渚は、暁の病室に出入り禁止になった。それ以外は、いつもどおりだ。いや、男性医師のアプローチが多くなった。尻の軽い女と思われている。
どうでもいいことだった。
静まり返った廊下に、点滴スタンドの転がる音がした。トイレに起きた患者が、寝ぼけ眼でナースステーションの前を通過した。
軽く頭を下げる中年男に、渚も会釈を返した。さすがに患者は何も知らないようだ。院長の差配は、そこだけはうまくいっていた。外には、確かに漏れていない。
男性が戻ってきたタイミングで、渚は同僚に見回りをしてくることを告げた。
「よろし……く」
渚が入れたお茶を飲んだ彼女は、とろんとした目をしていた。トリアゾラム錠を砕いた粉末を混ぜていた。太田がやった手法と同じだった。
薄暗い廊下に出て、靴を脱いだ。音を立てないように、廊下を早足で移動する。奥まった位置にある一人部屋に入る。寝台に横たわった青年は、廊下の静けさと同じだった。
渚は青年の細い腕に触れた。
(渚!)
あの後のことは、だいたい察しがついているのだろう。誰かが彼の部屋で話をしたのかもしれない。
「暁、会いたかった」
今までは、毎日のように顔を見せていた。たった一週間、離れていただけで、胸が締め付けられる思いを感じた。彼のことが好きなのだと、今更ながらわかった気がする。
(大丈夫か?)
「ええ」
患者から心配されるようでは、看護師としては失格だ。女としては、嬉しくて仕方がない。
「失敗しちゃった」
太田が同性愛者という噂を流したことは、暁には内緒だった。だから、何が失敗なのか、彼は知らない。
(仕事のこと?)
「うん」
(誰にでも失敗はあるよ)
慰めの言葉に心が震えた。その失敗で、暁が望んだ死を食い止められなかった。渚には重たすぎる痛手だった。
(お前の手って、あたたかいよな)
動かない唇が、動いた気がした。耳に聞こえていると錯覚した。
彼の声を耳で聞いたことはない。どんな声をしていたのだろう。一度でいい、聞いてみたいと思った。
「ありがとう。暁もあったかいよ」
鉢の朝顔は萎れていた。だが、まだ生きていた。
「約束を果たさないとね」
暁を殺す。そして、苦しみから解き放つ。それが、二人の約束だ。
(ああ、気は変わってない)
渚がいない間、太田が再び体位を変えに来た。水曜日のことだ。暁は、口に出すのも汚らわしい行為を受けた。抗う術はなかった。牢に繋がれた虜囚には、逃げ場がない。
性虐待のことを、渚には伝えない。もうこれ以上、辱められることもなくなるのだ。
「わかった。準備するね」
渚は、点滴スタンドを寄せた。そこに生理食塩水のパッケージを下げる。
「少し痛むよ」
アルコールで腕を拭き、注射針を刺した。管と点滴のパックが繋がった。
(これで、終わる)
長かった暗闇の生活は、苦しみに満ちていた。
暁は、遠く隔たった分岐の先を夢想した。
植物状態にならなかったら、今頃、大学に通っていたかもしれない。社会人になっていたかもしれない。いろいろな世界を見て、楽しく過ごしていたはずだ。
だが、渚と出会うこともなかっただろう。
現実は、白い壁に囲まれて、彼女と触れ合えた。
「もうすぐ、終わるよ」
渚は注射器を取りだした。点滴の容器に注入すれば、あとは永遠の眠りが待っている。
(待って)
これで自分は死ぬことができる。だが、渚はどうなる。調査が行われれば、渚が彼を殺した犯人だとすぐにわかるだろう。
「安楽死させたことが、問題になると思っている? 気にしないでいいのよ」
渚は、暁の頬に、頬を寄せた。髭がちくりとした。
「いつだったか、言わなかった? ずっと一緒にいてあげるって」
(え?)
「鈍いわね」
渚は二つ目の点滴を用意した。自分の腕にも針を刺し、準備を整えた。透明な管が螺旋状に絡まり、二人の身体に繋がれる。
「私も一緒に死ぬんだから」
患者を見守る看護師としてではなく、一人の人間として、彼と寄り添った。
(渚)
心の底で、暁は思い描いていた。彼女が来てくれることを願っていた。そうすれば、死んだ後も、いや、死ぬことで、一緒にいられると。二人の世界が重なりあうのだと。
暗い喜びが、彼の心に染みだしてきた。渚も同じだった。
二人の世界にノック音が割り込んだ。
「誰」
渚が青ざめた顔でドアを見つめた。太田の顔がよぎった。
「こんばんは」
(この声)
暁には、聞き覚えがある声だった。二度目になる。
「君は……柏木くん?」
渚には、見覚えがあった。去年の秋まで、入院していた女性を毎日のように見舞っていた高校生だ。彼女の最期は、彼だけが看取った。
「お久しぶりです。早見さん」
柏木秀樹は、友人の見舞いに初めて訪れたかのように、遠慮がちに会釈した。
(彼を知っているの?)
「ええ」
(何者なんだ。俺が死にたいって思ったことを、知っているようだったぞ)
「まさか」
誰にも話した記憶はない。暁との世は、誰にも干渉されたくなかった。
秀樹は、横たわった青年に目を向けた。
「ひびの入った文字盤。汚れて曲がった針」
(どういう意味だ)
「何なの、それ?」
「……外れかけた鎖」
秀樹は、渚の胸元を指し示した。
「外れかけ……?」
渚は胸のポケットに挟んでいたナースウォッチを見た。クリップ付きの懐中時計だ。患者を傷つけないようにするため、看護師は腕時計を着けない。渚は、代わりにナースウォッチを身につけていた。
「取れてないわよ」
しっかりとポケットに収まっていた。
「針が止まりそうです」
時計の針は、時間を刻む。
時間が止まれば、世界は終わる。
人の持つ時計は、命を計る。
秀樹には、渚と暁の時が見えていた。生きている人間の顔に時計は浮かび、時を刻む。針が動かなくなれば、死だ。針の遅れは、生の嫌悪、死の渇望だった。
「二人とも、死ぬんですね」
平凡な顔の高校生が、薄暗がりの中で、なお暗い眼の光を放っていた。鋭いわけではない。ただ暗い眼が、吸い込まれそうなほどに黒く浮かび上がっていた。
「そう、私たち、死ぬの。だから、邪魔しないで」
渚は顔を背けた。指の先が冷たくなっていた。暁に触れた手は、じっとりと汗が滲んでいた。
「邪魔はしません。ただ、忠告します」
「忠告?」
「早見さんは、この人を好きですか? 離れたくないですか? もしそうなら、殺してはいけません」
「生きろ、とでも言うつもり」
それがどれだけ辛いことか、何も知らない人間に口を出してほしくはなかった。
「人を殺して、自分も殺してしまったら、早見さんは地獄に堕ちるかもしれません。この人と別れることになってしまいます。死んだ後に、離ればなれです」
(何だって?)
「なんで、君にそんなことがわかるの」
暗い眼差しを見ていると、何故だか、彼ならわかっていそうな気がした。
「わかりません」
拍子抜けした。
「僕はまだ生きていますから、死後のことは、死んだ人に聞かないと、はっきりわかりません」
秀樹は目を泳がせた。彼が看取った女性の魂魄を探しているかのようだった。
「ですので、あとで教えてくれませんか。命が消えたらどうなるのか、殺された人間はどうなるのか」
「教えられたらね」
渚は思わず口走っていた。できるかどうかはわからないが、何かをしてあげたい気持ちが湧いた。
秀樹に、どこか危うさを感じる。患者に対するような、弱った人間を守ってあげたくなるような感情だ。クマのぬいぐるみを抱えた女の子を思い出した。
「ありがとうございます。お礼というわけではないのですが、お二人は僕が殺します」
あっという間の出来事だった。
秀樹は、渚の肩をつかむと、その唇に口づけをした。彼女は急に力を失い、死神の腕の中に頽れた。
暁の隣りに、渚を寝かせる。
暁にも唇を寄せた。彼の呼吸も霞と消えた。
秀樹は、目眩を覚えた。膝をついて、浅い呼吸を繰り返す。彼らの記憶が、どっと押し寄せて来る。
いくら呼びかけても、誰も応えてくれない苛立ちがあった。初めて声に気づいてくれた時の喜びはひとしおだった。辱められた悔しさは言葉にならない。同情には怒りだ。
弱った人たちへの慈しみは尽きなかった。元気になって家に帰っていく患者には、誇りを感じた。目の前で失われる命の喪失感は果てがない。未熟な自分に対するやるせなさを、心を殺してしのいだ。
そして、誰かがそばにいる安堵を分かち合った。
ひとひらの記憶、ひとひらの感情が、秀樹の心の隙間に刻み込まれていった。
泣きながら怒り、苦しみながら喜びを感じた。
しばらくの間、彼は微動だにできなかった。心の乱れが収まるまで、静けさに身を任せた。
「生かされることは、つらいのですね」
暁の苦しみが、心を削った。
「見守るしかできないことは、つらいですね」
渚の無力感が、心に気泡を作った。看護する者の気持ちは、秀樹にもよくわかった。
「つらいことは、忘れてください」
二人の手を重ね合わせた。
「おやすみなさい」
彼らはいつも触れあって、語り合っていた。今はもう、手が重ならなくても、心が重なっているだろう。
秀樹は、耳をそばだてた。
「聞こえない、か」
渚の声も、暁の声も、聞こえなかった。
「わからなかったのか。僕の耳に聞こえなかっただけなのか」
秀樹は暗がりの中で黙祷してから、病室を後にした。
朝顔が少しだけ花弁を開いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作はGrim Reaperシリーズ、初の長編でした。
説明不足の感は否めなかっと思いますが、
cryとあわせれば、多少は読めるようになるかもしれません。
お時間がある方は、よろしくお願いします。