第三話
「お疲れさまです」
渚は、休憩室でカップを傾けていた太田医師を見つけた。
「なんだ、君か。ふん、今日は蚊などいないぞ」
鼻を鳴らした太田に会釈した。カップの中身をぶちまけてやりたかったが、心を静めて堪えた。
「先日は申し訳ありませんでした」
「どういった風の吹き回しだ」
しおらしい態度を見て、太田は警戒心を露わにした。
「そんなことおっしゃらないでください。あの時は、私がおかしかったのです。虫が嫌いなものですので」
渚はすり寄り、太田の手に触れた。
「お詫びに、今度、ディナーでもいかがですか? 甘いスイーツもご用意しますわ」
笑い出したくなるような媚びを売った。自分に対しても、反吐が出るということを初めて知った。
「結構だ」
強く振り払われた。カップの中身が渚の顔にかかった。
「熱いですよ、先生」
舌で舐め取った。
苦い、味。
「先生のも、熱くて、苦いのかな」
渚の細い手が、太田の太股に伸びた。
「気色の悪いことはやめろ!」
太田は、ヒステリックにカップを置いた。
「いいか、私は君のような媚びた女が大嫌いなんだ。それ以上、僕に近づくな。そうすれば、今回のことは許してやる」
それだけ言うと、背を向けて去った。
「真性の同性愛者なのね」
渚は、太田の性行に怖気を震った。わざわざ太田の心の声を読み取ったのは、暁への行為が気の迷いなのか、そうでないのか確かめる必要があったからだ。本当は、触れることさえ疎ましい。
案の定、太田は暁を気に入っているようだった。そして、渚のことは、心底嫌っていた。お互い様だ。
暁の身が心配だった。襲われた時の勤務表を調べたところ、太田が宿直医になっていた。次に太田が当番になるのは来週の水曜日だ。頻繁に事を起こすとは思えなかったが、危険が去ったわけではない。
「説得……は無理よね」
暁に対する行為をやめるように頼んでも、聞き入れるわけがない。とぼけて無視され、嫌みを言われるのが目に見えた。
告発するのはどうか。付着していた体液を証拠とすれば、あるいは検査が可能かもしれない。
「捨てちゃったか」
あまりにも気持ちが悪くて、ゴミに出してしまった。今となってはもう見つけられない。
「やっぱり、あの方法しかない」
どうしても乗り気になれない手があった。それ以外の方法をずっと考えていたが、何も浮かんでこない。誰かに相談することも、時間もない。
渚は、重たい足を引きずって、ナースステーションに向かった。
「それ、本当なの?」
「噂を聞いただけだから、なんとも、なんだけど」
渚は語尾を小さくして、自信のない素振りをする。
「何、どうしたの」
「太田先生がね」
同僚が同僚に耳打ちするのを見て、渚は暗い気持ちになった。噂を広めるというのは、いかにも消極的で、釈然としなかった。だが、暁のことを考えれば、これも仕方がないと言い聞かせる。
「ゲイって、マジで!」
「声が大きいって」
声を落としても、女性の高い声は嫌でも耳に入った。彼女たちの会話が、順調に広まっていく気配を感じる。
「前の病院で、患者さんが襲われたらしいの。薬を盛られて、それで……」
同性愛が悪いわけではない。犯罪を犯した太田が悪いのだ。渚は、さじ加減を誤らないように、話の方向を調整した。
「うわあ」
「やだあ」
嫌な顔をしながらも、心の中はもやもやと想像しているのだろう。色艶の話は、彼女らの甘いオヤツだ。
「ねえ、やばいんじゃない?」
「何が?」
気づいてくれた。
「一条くん、寝たきりで意識がないから」
最後まで言わすなというように、彼女は渚に目配せした。
「ちょっと待ってよ。暁を犠牲者にしないで」
もう犠牲者だけれど。
暗くなる心とは裏腹に、渚は少しだけ笑った。冗談と受け取ったように見せかける。
「暁だって! もう、渚が襲ってんじゃないの?」
「恋のライバルね」
彼女らの妄想は止まらない。
「やめて!」
ちょっと声を大きくして、ナースステーションを飛び出た。怒ったように思うだろう。同僚を振り切って、トイレの個室に駆け込んだ。
噂はうまく流せた。これで一人歩きしてくれるだろう。
「あれ?」
ほっとして、涙が込み上げてきた。あとからあとから、零れてきた。ハンカチが見つけられず、服の袖で顔を押さえる。
「どうして」
感情がうまく抑えられない。いつもは、すぐに冷静になれるのに、何故か今日は難しかった。
涙が止まらない。鼻水も出てくる。顔の筋肉が引きつって、なかなか戻らなかった。
「おかしいな」
むせんでくる声は、無理矢理に押し殺した。
暁の部屋に飾っていたシャクヤクの花はしおれていた。渚は、一輪挿しの代わりに、朝顔の鉢を持ってきた。
鉢植えは、根付くという意味で、病院では嫌われている。それでも花言葉の「固い約束」という意味を込めて、飾りたいと思った。
約束は、暁と渚の間にある。
植物状態の暁は、ずっと暗闇の中で苦しんできた。その彼を、太田はさらに傷つけた。自分の欲望のために、抵抗できない彼を性の対象とした。尊厳を踏みにじられた彼は、死を望んだ。
本当は、死ぬなんて言って欲しくなかった。医療に携わる人間にしてみれば、もっとも悲しい選択だからだ。
渚は、太田を病院にいられなくしようと、悪い噂を流した。すべての元凶がいなくなれば、暁の気持ちが収まるかもしれない。死ぬと言ったことを撤回してくれることを願う。
渚は、彼のためならば、どんなことでもやる気だった。だが、強いストレスを感じずにはいられなかった。
「ふう」
このところ、いつも喉が渇いていた。緊張感が続いているからだろうか。
収納棚のところに、お茶の入った紙コップがあった。暁の飲みかけのようだ。渚は一息に飲み干した。ぬるい麦茶だった。
ほっと吐息を吐いて、暁の顔色を窺った。あいかわらず肌の色は白かった。腕の筋肉も落ちて、渚よりも細いくらいだ。女の子みたいだと思ってから、少し気分が悪くなった。
暁がこんな見た目だから、太田に襲われたのかもしれない。男らしく筋肉がついていれば、狙われなかった可能性もある。
「筋トレって、できるのかな」
渚は、ゆっくりと彼に触れた。
(お前、何か飲んだか? すぐに吐け!)
二の腕に手を置いた途端、思考が流れ込んできた。
「なあに」
(誰かが、コップに何か入れていた。そんな音がしたんだ)
コップ。何か。
どういうことかよくわからない。頭がうまく回らなかった。
(いいから、吐き出せ!)
「そんなこと、言われて……も」
目蓋が重く感じた。
「まずい、わ、これ」
油断していたのかもしれない。強い眠気と、身体のだるさ。睡眠導入剤の効果だと、思い至った。
「飲んだね」
太田医師がドアから入ってきた。
意識が徐々に薄れてくる。立っていられなくなった。
「本当に飲むとはね。彼の飲みかけだと思ったのか? 患者が紙コップで飲むわけないだろう。普通は水差しだ。洞察力が足りないね、君は」
床に座り込んだ渚に向かって、太田は足を振り下ろした。
痛みをどこか遠いところで感じた。
「変な噂を流したのは、お前だろ。いいや、お前しかいない。ずいぶんと彼にご執心のようだからな」
「あんたも……」
かすれた声が、舌を乗り越えられずに消えた。
「女は気持ち悪いが、我慢するか」
太田は首から何かを提げていた。
渚はぼんやりとする頭で、寝台に手を伸ばした。
暁を守らなければならない。太田が何をするかわからない。せめてナースコールを押せれば。
辺りが暗くなってきた。
渚は唇を噛んだ。眠気は強い。振り払えそうになかった。
暗闇に落ちていく。
身体の感覚が鈍くなっていく。
何かに包まれていた。薄い幕がいくつもまとわりついていた。自分と、自分の外との間に、幾重ものやわらかい殻が形作られていった。
押しても、その分だけ向こうに膨らみ、破れない囲いがある。
暁のいる世界は、これと同じなのかもしれないと、ふと思った。
まるで、監獄だ。