表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

第三話

「お疲れさまです」

渚は、休憩室でカップを傾けていた太田医師を見つけた。

「なんだ、君か。ふん、今日は蚊などいないぞ」

鼻を鳴らした太田に会釈した。カップの中身をぶちまけてやりたかったが、心を静めて堪えた。

「先日は申し訳ありませんでした」

「どういった風の吹き回しだ」

しおらしい態度を見て、太田は警戒心を露わにした。

「そんなことおっしゃらないでください。あの時は、私がおかしかったのです。虫が嫌いなものですので」

渚はすり寄り、太田の手に触れた。

「お詫びに、今度、ディナーでもいかがですか? 甘いスイーツもご用意しますわ」

笑い出したくなるような媚びを売った。自分に対しても、反吐が出るということを初めて知った。

「結構だ」

強く振り払われた。カップの中身が渚の顔にかかった。

「熱いですよ、先生」

舌で舐め取った。

苦い、味。

「先生のも、熱くて、苦いのかな」

渚の細い手が、太田の太股に伸びた。

「気色の悪いことはやめろ!」

太田は、ヒステリックにカップを置いた。

「いいか、私は君のような媚びた女が大嫌いなんだ。それ以上、僕に近づくな。そうすれば、今回のことは許してやる」

それだけ言うと、背を向けて去った。

「真性の同性愛者なのね」

渚は、太田の性行に怖気を震った。わざわざ太田の心の声を読み取ったのは、暁への行為が気の迷いなのか、そうでないのか確かめる必要があったからだ。本当は、触れることさえ疎ましい。

案の定、太田は暁を気に入っているようだった。そして、渚のことは、心底嫌っていた。お互い様だ。

暁の身が心配だった。襲われた時の勤務表を調べたところ、太田が宿直医になっていた。次に太田が当番になるのは来週の水曜日だ。頻繁に事を起こすとは思えなかったが、危険が去ったわけではない。

「説得……は無理よね」

暁に対する行為をやめるように頼んでも、聞き入れるわけがない。とぼけて無視され、嫌みを言われるのが目に見えた。

告発するのはどうか。付着していた体液を証拠とすれば、あるいは検査が可能かもしれない。

「捨てちゃったか」

あまりにも気持ちが悪くて、ゴミに出してしまった。今となってはもう見つけられない。

「やっぱり、あの方法しかない」

どうしても乗り気になれない手があった。それ以外の方法をずっと考えていたが、何も浮かんでこない。誰かに相談することも、時間もない。

渚は、重たい足を引きずって、ナースステーションに向かった。


「それ、本当なの?」

「噂を聞いただけだから、なんとも、なんだけど」

渚は語尾を小さくして、自信のない素振りをする。

「何、どうしたの」

「太田先生がね」

同僚が同僚に耳打ちするのを見て、渚は暗い気持ちになった。噂を広めるというのは、いかにも消極的で、釈然としなかった。だが、暁のことを考えれば、これも仕方がないと言い聞かせる。

「ゲイって、マジで!」

「声が大きいって」

声を落としても、女性の高い声は嫌でも耳に入った。彼女たちの会話が、順調に広まっていく気配を感じる。

「前の病院で、患者さんが襲われたらしいの。薬を盛られて、それで……」

同性愛が悪いわけではない。犯罪を犯した太田が悪いのだ。渚は、さじ加減を誤らないように、話の方向を調整した。

「うわあ」

「やだあ」

嫌な顔をしながらも、心の中はもやもやと想像しているのだろう。色艶の話は、彼女らの甘いオヤツだ。

「ねえ、やばいんじゃない?」

「何が?」

気づいてくれた。

「一条くん、寝たきりで意識がないから」

最後まで言わすなというように、彼女は渚に目配せした。

「ちょっと待ってよ。暁を犠牲者にしないで」

もう犠牲者だけれど。

暗くなる心とは裏腹に、渚は少しだけ笑った。冗談と受け取ったように見せかける。

「暁だって! もう、渚が襲ってんじゃないの?」

「恋のライバルね」

彼女らの妄想は止まらない。

「やめて!」

ちょっと声を大きくして、ナースステーションを飛び出た。怒ったように思うだろう。同僚を振り切って、トイレの個室に駆け込んだ。

噂はうまく流せた。これで一人歩きしてくれるだろう。

「あれ?」

ほっとして、涙が込み上げてきた。あとからあとから、零れてきた。ハンカチが見つけられず、服の袖で顔を押さえる。

「どうして」

感情がうまく抑えられない。いつもは、すぐに冷静になれるのに、何故か今日は難しかった。

涙が止まらない。鼻水も出てくる。顔の筋肉が引きつって、なかなか戻らなかった。

「おかしいな」

むせんでくる声は、無理矢理に押し殺した。


暁の部屋に飾っていたシャクヤクの花はしおれていた。渚は、一輪挿しの代わりに、朝顔の鉢を持ってきた。

鉢植えは、根付くという意味で、病院では嫌われている。それでも花言葉の「固い約束」という意味を込めて、飾りたいと思った。

約束は、暁と渚の間にある。

植物状態の暁は、ずっと暗闇の中で苦しんできた。その彼を、太田はさらに傷つけた。自分の欲望のために、抵抗できない彼を性の対象とした。尊厳を踏みにじられた彼は、死を望んだ。

本当は、死ぬなんて言って欲しくなかった。医療に携わる人間にしてみれば、もっとも悲しい選択だからだ。

渚は、太田を病院にいられなくしようと、悪い噂を流した。すべての元凶がいなくなれば、暁の気持ちが収まるかもしれない。死ぬと言ったことを撤回してくれることを願う。

渚は、彼のためならば、どんなことでもやる気だった。だが、強いストレスを感じずにはいられなかった。

「ふう」

このところ、いつも喉が渇いていた。緊張感が続いているからだろうか。

収納棚のところに、お茶の入った紙コップがあった。暁の飲みかけのようだ。渚は一息に飲み干した。ぬるい麦茶だった。

ほっと吐息を吐いて、暁の顔色を窺った。あいかわらず肌の色は白かった。腕の筋肉も落ちて、渚よりも細いくらいだ。女の子みたいだと思ってから、少し気分が悪くなった。

暁がこんな見た目だから、太田に襲われたのかもしれない。男らしく筋肉がついていれば、狙われなかった可能性もある。

「筋トレって、できるのかな」

渚は、ゆっくりと彼に触れた。

(お前、何か飲んだか? すぐに吐け!)

二の腕に手を置いた途端、思考が流れ込んできた。

「なあに」

(誰かが、コップに何か入れていた。そんな音がしたんだ)

コップ。何か。

どういうことかよくわからない。頭がうまく回らなかった。

(いいから、吐き出せ!)

「そんなこと、言われて……も」

目蓋が重く感じた。

「まずい、わ、これ」

油断していたのかもしれない。強い眠気と、身体のだるさ。睡眠導入剤の効果だと、思い至った。

「飲んだね」

太田医師がドアから入ってきた。

意識が徐々に薄れてくる。立っていられなくなった。

「本当に飲むとはね。彼の飲みかけだと思ったのか? 患者が紙コップで飲むわけないだろう。普通は水差しだ。洞察力が足りないね、君は」

床に座り込んだ渚に向かって、太田は足を振り下ろした。

痛みをどこか遠いところで感じた。

「変な噂を流したのは、お前だろ。いいや、お前しかいない。ずいぶんと彼にご執心のようだからな」

「あんたも……」

かすれた声が、舌を乗り越えられずに消えた。

「女は気持ち悪いが、我慢するか」

太田は首から何かを提げていた。

渚はぼんやりとする頭で、寝台に手を伸ばした。

暁を守らなければならない。太田が何をするかわからない。せめてナースコールを押せれば。

辺りが暗くなってきた。

渚は唇を噛んだ。眠気は強い。振り払えそうになかった。

暗闇に落ちていく。

身体の感覚が鈍くなっていく。

何かに包まれていた。薄い幕がいくつもまとわりついていた。自分と、自分の外との間に、幾重ものやわらかい殻が形作られていった。

押しても、その分だけ向こうに膨らみ、破れない囲いがある。

暁のいる世界は、これと同じなのかもしれないと、ふと思った。

まるで、監獄だ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ