第二話
宿直にあたっていた太田は、救急患者の手術を終えて、コーヒーを口に含んだ。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
交通事故の被害者は、粉砕骨折だった。命に別状はなく、手術の難易度もそう高くはなかった。外科手術は専門外だったが、苦手ではなかった。
窓の外が白み始めていた。この時間になると、もう急患が運び込まれることもないだろう。
太田は、コーヒーで冴えた目を揉みしだき、手術の興奮を抑えようと努めた。だが、ひとたび目覚めてしまった意識は、なかなか安まらなかった。
「ふむ」
空になったカップをゴミ箱に入れ、太田は鼻を鳴らした。口元に笑みが浮かんだ。そこに優しさの欠けらはなかった。
太田はナースステーションに顔を出した。
「やあ、変わりないかい?」
「はい、先生」
「今日はもう静かですね」
彼は看護師たちに紅茶を差し入れた。
「わあ、ありがとうございます」
「まあ、肩の力を抜いてやってよ。じゃあね」
身体をゆすりながら去る医師に、看護師二人は和やかさを感じていた。
「太田先生って、かわいいよね」
「気が利くしね。彼氏は願い下げだけど、旦那にするならいいかも」
かぐわしい香りの紅茶に口を付け、二人は小声で笑った。
カップの中身が空になる頃、太田が再びナースステーションを覗き込むと、彼女たちは寝息を立てていた。
「少しだけ、休んでいなさい」
音を立てずに廊下を進み、暗がりを突き当たりまで行った。ドアノブをゆっくり回して、部屋に入り込む。広い部屋には、寝台がひとつだけだった。
太田は、目を閉じている青年を前にした。
「こんばんは、一条くん」
鼻が鳴った。荒い吐息が抑えられなくなる。
「身体の向きを変えてあげるよ」
上掛けが剥ぎ取られた。
暁の腰に、太い手が乗った。
「検温するわよ。ん?」
渚は顔をしかめた。
「なんか臭う」
テーブルの上のウェットティッシュを取っても、拭くべきところがわからなかった。
「昨日、何かあった?」
(渚)
暁に触れた矢先に、切羽詰まった声が伝わってきた。
「どうしたの」
(頼む、身体を拭いてくれないか)
彼の声が震えていた。身体も、心も震えているようだった。
いつもは嫌がることなのに、今日の彼はおかしかった。
上着を脱がせた。ズボンを下ろし、自力でトイレに行けない患者のためのオムツも外した。
「やだ、夢精してるじゃない」
臭いのもとはこれだった。
(汚いんだ。俺の身体、汚いんだよ。くそっ、気持ち悪い!)
「そんなにあわてなくても」
青年の動揺がおかしかった。若い男性にしてみれば、恥ずかしいことではある。
(違う、俺じゃない!)
「えっ?」
言葉にならない意識が流れ込んできた。不快さが怒りと混ざり合っていた。それらが包んでいる何かに触れた。ひとつの言葉が見つかった。
渚は、その手がかりを頼りに、暁の身体を横に向けた。下半身を後ろから見た。うっすらとした汚れがあった。
「血?」
触診すると、暁の痛みが伝わってきた。
「これって」
突拍子もない考えが、渚の頭に浮かんだ。女性向けの漫画で、同性同士がそのような行為をすると聞いたことはある。だが、そんなことが目の前で起きるはずはない。現実に、病院で、起こり得るとは思えない。
理解ができない。混乱が、時間を止めた。
(あの野郎が)
「あの野郎……?」
(俺が二度と目覚めないって言った医者だ)
「太田先生」
(あいつが、来たんだ)
血液の付着と、暁の言葉が、事実を突きつけた。ようやく理解が追いついてきた。
渚は口を押さえた。吐き気がした。
(なんなんだよ。もう嫌だ、嫌だ!)
悲痛な叫びが彼女に打ちつけられた。
「なんで、こんな、俺が」
守られてしかるべき患者が、病院で、病室で、非道なことに遭遇した。暁に責められている気がした。
血の気が失われた。冷や汗が出てきた。胃の中のものが、込み上げてくる。我慢できずに吐いた。
(こんな目にあうくらいなら、死んだほうがマシだ!)
「そんなこと言わないで! 言わないでよ……」
反射的に否定したが、彼の気持ちを考えると、力が失われる。
(本当は、目覚める見込みなんてないんだろ。俺は、このまま死ぬんだろ)
自暴自棄になっているのがわかった。渚は何も言えない。言うべき言葉が見つからない。
(いっそのこと、殺してくれ)
「やめて!」
渚の胸は、ずたずたに切り刻まれた。
患者から死を望まれる。それは、もっとも辛いことだった。看護師である自分が否定される。医療に携わる人間、病院という施設の存在が覆される言葉だ。
(もう、死なせてくれ)
渚は歯を食いしばった。強く、彼の手を握った。そうしていないと、自分が消されてしまいそうだった。
(惨めだな)
しばらくして、彼は呟いた。
渚は首を振った。惨めな思いをしているのは、彼女のほうだった。
(俺なんて、生きている価値がない。ゴミのような存在だ)
「違うよ。暁は、暁で、生きていて欲しい人だから」
渚は鼻を啜り、彼にすがった。彼を看護している自分に、気づいて欲しかった。渚は、暁の身体を拭き始めた。いつもより丁寧に、汚れを削り落とすように拭った。
(俺は、俺が、いらない)
静かな声だった。固い意思が感じられた。
「自分を嫌わないで。そんなの悲しいよ」
(こんな自分を嫌わないヤツなんかいないだろ! なんで、男に犯されなきゃならないだよ。動けたら、こんなことにならなかったんだぞ)
怒りが弾けた。
(お前だって、レイプされたら死にたくなるはずだ)
「そうかもしれないけど」
渚は唇を噛みしめた。血の味がする。必死に、感情的になった声を抑えた。
「そうかもしれないけど、死ぬっていうのは、そんなに簡単に決められない」
人の死は、数多く見てきた。ちょっとしたことで、たやすく失われてしまう命、苦しんだ末に潰える命にも触れてきた。
命の重さは、決して軽くはない。
病気や怪我で失われる命を救おうと、日々、多くの人たちが力を尽くしていた。渚はその一員だ。だから、自殺を否定したい。
(死のうと思えば、いつでも死ねるヤツはいいさ。俺は、死にたくても、自分で死ねないんだぞ)
手のひらに短く切りそろえた爪が食い込んだ。
暁の言うことは、正論だった。
死にたいと思ったら、彼女は首を吊れる。薬を飲むこともできる。だが、彼は手首を切ることも、飛び降りることもできないのだ。
自由がない。生きる自由も、死ぬ自由もない。誰もが持っているものを、彼だけは取り上げられていた。
「暁」
渚は彼を呼んだ。彼は黙っていた。心が背を向けていた。
「死ぬのは、悲しい。どうしようもなく、悲しいことだと思う」
心の背中を撫でる。
「小さな子供も、長生きしたお爺さんも、みんな同じ命を持っている。私も、暁も、同じ命を持っている。健康な人も、患者の人も、同じなのよ」
(あたりまえだろ)
「でも、みんな生きようとして、病院にいる。暁も、ここにいるのよ」
(俺が、いつ、生きたいなんて言った。誰も俺の言うことなんて、聞いてないじゃないか。聞かないじゃないかよ!)
「そう。そうよね。聞かなかったよね。ごめん」
(いや、お前のせいじゃない。悪い)
暁の背中が隠れた。
「ねえ……本当に、死にたい?」
渚は汚れたものを床に置き、上掛けで彼の身体を包んだ。彼女の手が、暁の手を包んだ。身体を通して聞こえる声を、ひとつも漏らさないようにする。
「よく考えて。どうしても死にたい?」
暁の心が何よりも大事だった。彼のように物言わぬ患者は、ないがしろにされやすい。誰かが気にかけていないと、いることさえ忘れられてしまう。そんなことをさせてはならない。
(ああ、終わりにしたい。もう、死んでしまいたい)
自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと暁は肯定した。
「わかったわ。何日かして、それでも気持ちが変わらなかったら」
渚は口を引き結んだ。心から込み上がってくる悲しみを抑えた。自分を殺して、抑え込んだ。
「殺してあげるね」
暁の決心は変わらなかった。ずっと続いてきた暗闇から、抜け出せる可能性が巡ってきたことで、期待が膨らんでさえいた。
死ぬのは、正直怖い。だが、長い監獄生活を終わらせることができるのは、甘い誘惑だ。
(だけど)
渚は、殺してあげると言った。それは、彼女が殺人犯になるということではないのか。それを思うと、心が重たく濁ってくる。
(自分勝手だな)
今まで、親身になって看護してくれた彼女が、犯罪者になってしまうのは避けたい。だが、殺して欲しい。身勝手なわがままだった。
ノックがして、ドアが開いた。
(渚?)
ゴミ箱を動かす音がした。彼女ではなかった。掃除をするのは、看護助手のおばさんだった。
カーテンが開き、少しだけ陽射しが入ってきた。
「おや」
おばさんが寝台の脇に立った。
「昨日と同じままかい。渚ちゃん、どうしたんだろうね」
病室の片隅の収納棚に、一輪挿しが飾られていた。花弁が寂しく垂れていた。
(花?)
そんなものがあるなんて知らなかった。おばさんの口調だと、毎日変えていたようだ。
「眠り王子には、目の保養にもならないのにね」
勝手につけられたあだ名は嫌いだった。好きで寝ているわけではない。他人の気持ちを考えない遊びに、ずっと嫌な気持ちを持っていた。渚だけが、あだ名を一言も発していなかった。
おばさんは、空のままのゴミ箱を戻して部屋を出て行った。
(花か)
どんな種類なのか、今度、渚に聞いてみようと思った。花言葉も知っているのだろうか。
(馬鹿だな)
もうすぐ死ぬというのに、花のことを気にする自分がおかしかった。
(ん)
人の気配を感じた。
(誰かいる?)
おばさんは出て行ったばかりだった。戻ってきた様子はない。
(渚?)
彼女なら必ず挨拶をする。
誰かが、じっと見ている気がした。
(まさか)
太田が現れたのか。あれからも、たまにやってきては、下半身に触れたりする。我慢がならなかったが、彼には抵抗ができなかった。
「壊れかけた文字盤」
静かな呟きが聞こえた。
「汚れた針」
(誰だ)
初めて聞いた男の声だ。高校生くらいだろうか。
「死にたいのですか」
(なに?)
突き刺さるような視線を感じた。心の中を盗み見られているような感覚がする。
「迷っているのですか」
冷たさが少し緩んだ。
「決めかねている、ようですね」
(おい!)
「また、来ます」
声を聞いたことが気のせいだったかのように、たちどころに気配が消え失せていた。
(なんだ、今のは)
暁は幽霊にでも遭遇した心持ちだった。