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第一話

一部で生々しい表現があり、不快に思われるおそれがあります。

四話構成となります。

薄いカーテンを通して、木々の碧が透けていた。蝉時雨が自己主張を繰り返し、窓を通して室内に染みこんでくる。ほどよく冷やされた空気がゆっくりと漂っていた。

彼は、ただ、そこにいた。

窓際の寝台に横たわり、慎ましやかに目を閉じていた。白い頬と白い腕が、白いシーツに溶け込み、境界が曖昧になっている。

「入りますよ」

軽いノックの後に、看護師の女性が顔を見せた。さらりとしたショートの髪に、明るい色合いが加わっていた。彼女の華やかさが病室を明るくさせた。

早見渚は患者の返事を待たず、寝台を覆うカーテンを開けた。ナースウェアのポケットから体温計を出した。

「あら」

眠った青年の口元が少し汚れていた。唾液が乾いた痕のようだった。

彼女はハンカチで拭おうと考えたが、思い直してかがみ込んだ。前髪が青年の頬に触れ、舌先が唇を撫でた。

(何するんだよ)

「起きてたの?」

汚れを舐め取った後、彼の無精髭を逆撫でした。じょりじょりと音がする。

(起きているさ。さっき、まずい昼飯を食わされた)

流動食が彼のいつもの食事だ。口元の汚れは、拭き残しだろう。

「我慢しなさい。噛めないんだから、仕方がないじゃない」

(肉が食いたいな)

目を閉じたままの青年は、唇も閉じたままだった。耳に届くはずの声は、空気を震わせない。

「贅沢言わないの」

(いてっ。叩――なよ。暴力反対)

渚は彼の腕を叩いた。一瞬だけ、声が途切れた。

彼女は、肌を通して人の言葉が聞こえた。喋ることのできない人とも会話ができ、意識がないとされている、青年のような患者とも、意思の疎通が図れる。そのことは、二人だけの秘密だった。

(というか、舐めるなよ)

「舐めたんじゃなくて、あれはキス」

(キス……だと?)

ほんのりと赤くなった顔を見て、彼女は小さく笑った。

さとし、顔が赤いわね。熱があるのかしら」

体温計を口に差し込んだ。

「そろそろ、髭剃ろっか。シーツも替えないとね」

(お前は何を考えて……)

ぶつぶつ言う心の声が聞こえた。

「照れないでいいのに。お姉さんがもっといいこと、してあげようか?」

渚の手が腰の付近に伸びた。

(お姉さんとか言うな。いくつも違わないだろ。触るなって)

「いいじゃない。減るもんじゃないし」

(オッサンか!)

渚は体温計の目盛りを記録した。

「身体は健康ね」

脈を取り終え、異常がないことを確認した。さり気なく、下腹部に手を伸ばす。

(おい、いい加減にしろよ。動けるようになったら襲っちまうぞ)

「楽しみにしていて……いいのかな?」

ぴくりとも動かない青年に、渚は肩を落とした。彼が動けるようになるのなら、看護師として、非常に喜ばしいことだった。ただ、その見込みがどれくらいあるのか、わからなかった。

「じゃあ、またね」

渚は明るい声で病室を後にした。曇った顔が見られないですむのだけは、ほっとする。


「こら、走り回らないの」

渚の脇を子供が駆けていった。

「言っても聞きやしないよ。身体に教えないと」

三十路を過ぎた先輩看護師が、子供の行く手を遮って尻を叩いた。

「やりすぎじゃないんですか?」

「あんた、この子らを相手にするの初めてでしょう? 一緒にいてやれない親の代わりに、私たちが躾の手助けをするってこと。――ほら、前を見る!」

子供がリネンのかごにぶつかりそうになった。あわやというところで、急停止して衝突が避けられた。

「まったく、ここは保育所じゃないんだけど」

溜め息を吐きながらも、彼女の顔は笑っていた。子供が好きなのだろう。

「子供って、元気いいですね。あら、どうしたの?」

クマのぬいぐるみを抱えた女の子が、壁にもたれかかっていた。スリッパの先を真っ直ぐに見ていた。渚が話しかけても、顔を上げない。

「その子、ちょっと自閉気味でね」

渚は腰を屈めた。

「ね、みんなと遊ばないの?」

女の子は顔を背けた。スリッパが横を向いた。

「待って」

手を握ったら、振り払われた。

「マーくんは遊びたいみたいだよ」

女の子が振り向いた。丸い目が潤んでいた。

「クマのマーくんは、陽子ちゃんがみんなと仲良しになって欲しいって」

「……本当?」

女の子は腕の中のぬいぐるみに話しかけた。

「ミンナト、アソボウヨ!」

渚は甲高い声を出した。

「マーくんは、そんな声しないもん。もっと格好良くて優しいの」

「ごめんごめん」

女の子の考えは、意外にしっかりしていた。

「お姉ちゃん、何で知っているの? あたしとか、マーくんのこと」

「なんでかな。わかっちゃったのよ」

(変なの)

心の声が手を通して聞こえた。

「変だよね」

小さな手を握って笑った。

女の子もつられたように笑っていた。


「新しい先生が来るっていうから、期待してたんだけどさ。あれは、ハズレね」

ナースステーションに挨拶に来た医師が、廊下の先に見えなくなってからの第一声だった。

「結構、優秀って噂だけど」

看護師の一人がペンで頭を叩いた。

「馬鹿ね、見た目の話。三十代前半であのお腹はない。ぽよよんって感じでしょ」

「そっちか」

看護師仲間の話に、渚は笑い声を上げた。

彼女たちが言うように、紹介された医師は、胴回りも太く、顔もぽっちゃりしていた。だが、優しげな目元は、患者からの受けは良さそうに見える。

「渚はどうなのよ?」

「ないない」

即答した。

「そりゃそうよ。渚は、一条くんにぞっこんだものね」

「一条くん……寝たきりの彼よね?」

「眠れる部屋の王子」

同僚の含み笑いに、渚は言葉を失う。

「看護助手の仕事を取っちゃうくらい、べったりだもの」

「取ってない!」

髭を剃ったり、身体を拭いただけだ。今週と、先週と、先々週と。思い出せば、ずっと面倒をみていることに気づく。

「楽できるって、おばちゃん、言ってたけどね」

看護を少し控えたほうがいいのかもしれない。だが、彼の家族は、ほとんど見舞いに来ない。渚が自粛したら、彼は一人で寂しい思いをする。彼と会話ができるのは、渚だけなのだから。

「まあ、いいんじゃないの。渚も、好きでやっているんだからさ」

好き、というところを強調した同僚が、にやにや笑っていた。

「好きなら、ねえ」

引っかかりを感じる物言いだ。

渚は黙って聞き流した。突っかかったら、もっと冷やかされそうだ。冷やかされても、本当は悪い気はしなかった。だが、同僚以外の誰かに聞かれたら困る。病院の人間と、患者の恋愛は、禁じられていた。


渚と暁は、寝台の上で身体を密着させていた。うっすらとかいた汗の匂いが、鼻をくすぐった。

(重くないか?)

「大丈夫」

寝返りを打たせ、身体の位置をずらした。床ずれが起きないようにするためだ。自分で動けない患者を動かすのは、重労働だった。若く力のある者ならともかく、看護助手のおばちゃんでは一苦労だろう。

「お邪魔するよ」

「太田先生?」

ぽっちゃりとした腹が入ってきた。そう思ったのは一瞬だけで、渚は着任したばかりの医師に頭を下げた。

「彼が一条くんだね」

寝台に記載された名前を確認し、患者の顔色を窺った。

「一年、植物状態のままか」

「先生!」

渚が声を荒げた。

「どうしたんだい?」

「そういう言葉は、控えていただけませんか。患者さんの耳に入りますので」

渚は、太田を睨み付けた。背筋を伸ばすと、二人とも同じくらいの背丈だった。体重は倍くらい違うが、威圧感はどっこいどっこいだ。

「聞こえるわけないだろう」

「聞こえてます」

「ずいぶん、はっきり言うね。彼の考えていることがわかるみたいだ」

目を細めて笑われた。憎めない笑顔も、渚には嫌みに感じた。

「まあ、聞こえても関係ないよ。彼は、二度と目覚めないからね」

「やめてください!」

太田の頬が音を立てた。

「な、何をするんだ」

あまりに無神経な科白に腹が立った。渚はつい手を出してしまった。

「あ、ええと、ごめんなさい、蚊がいましたので」

「蚊なんて、いないだろう!」

「今、刺そうとしていたんですよ。気づきませんでした?」

白々しい言い訳に、太田は鼻を鳴らした。

「これは問題だ。覚えておくぞ」

「忘れろ!」

閉じたドアに暴言をぶつける。深呼吸をした。怒りを抑え、冷静になるように努めた。暁に向き直ったときは、平常心を取り戻していた。

「脈、計るね」

(なあ……)

手首に触れると、暁の声が聞こえた。

(俺、やっぱりダメなのかな)

渚の心拍数が上がった。脈拍を数え間違えた。

「そんなことない」

きっと目覚める。

そう言いたくても、口にはできなかった。医師の知識、経験は、看護師の比ではない。太田が何を根拠に、目覚めないと言ったのかはわからない。

叩いた時に触れたのは一瞬で、太田の思考を読み取るまではいかなかった。

(お前が言ってもな)

医師という肩書きは、患者の不安を煽るのに十分だった。暁は、太田の一言を信じ始めていた。

(死んだほうが、楽なのかもな)

「馬鹿」

暁の頬に触れた。剃ったばかり肌は、綺麗な白だった。

「そんなこと言わないでよ。私の、私たちのやってきたことは何なのよ」

(そうだけどさ。真っ暗闇って、結構きついんだぜ)

ことさら明るい調子だったが、伝わってきた声は震えていた。

目が見えない、話もできない。自分の身体という監獄に押し込められて、日々を送る辛さは、当人しか知らない。渚がいくら想像しても、体感はできない。

(お前がいなかったら、もたなかったかもな)

ただ、意思の疎通ができる相手がいた。渚と話すことによって、暗闇に一条の光が差し込んだ。彼女は、本当の看護師だった。暁にとって、身体と心のケアができる唯一の存在だ。

「ずっと一緒にいてあげるから、諦めないで」

(ありがとう……)

力ない返事に、渚は暗い気持ちになった。

「さあ、身体拭こう。脱がすよ」

吹っ切るように、胸元のボタンを外した。

(ちょっと待てよ。俺、まだ心の準備が)

「今更、何言ってるの。暁の身体は、隅々まで見ちゃってんだから、照れないでいいの」

(くそ……)

年の近い女性に見られるだけでなく、至るところを触られてしまう恥ずかしさは、いつまで経っても慣れない。

彼の男心は、無惨に砕かれていった。


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