婚約破棄されたので、契約通り王家にすべてお返しします
「エリナ。君との婚約を破棄する」
王立学院の卒業舞踏会。
大勢の貴族が見守る中、第一王子レオニード殿下は、私にそう告げた。
隣には、男爵令嬢のミレーヌがいる。
彼女は殿下の腕にしがみつき、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「私はミレーヌを愛している。彼女を妃に迎える」
会場がざわめく。
誰かが小さく息を呑んだ。
誰かが私を憐れんだ。
けれど私は、少しだけ首を傾げた。
「承知いたしました」
「……え?」
殿下が間の抜けた声を出した。
「ですから、婚約破棄を承知いたしました」
「いや……君は……」
「殿下がお決めになったことです。私に拒否する理由はありません」
私は一礼した。
そして、持っていた手帳を開く。
「では、契約書の第十四条に従い、明日の正午までに王家へ返還するものを整理いたします」
「…………何?」
会場が静まり返った。
「婚約に伴い、ヴァレンティア公爵家から王家へ提供していたものです」
一つ。
「王都南部の穀倉二棟」
二つ。
「王立学院の奨学金制度に対する公爵家の年間拠出金」
三つ。
「王宮の冬季暖房用として納入していた北部炭鉱の優先供給権」
四つ。
「王都と南部を結ぶ街道の補修費」
殿下の顔が引きつった。
「待て」
「はい?」
「それは……婚約とは関係ないだろう」
「関係ございます」
私は契約書をめくった。
「婚約成立時に交わされた付帯契約に、明記されています」
私は微笑んだ。
「『婚約が当事者の一方的な意思によって破棄された場合、婚姻を前提として提供された一切の便宜を終了する』と」
「…………」
誰も喋らなくなった。
私は続ける。
「もちろん、契約ですから」
そして、にっこり笑った。
「守らなければなりませんよね?」
◇
翌朝。
私は父の執務室で、返還一覧を確認していた。
「本当に全部返すのか?」
「はい」
「南部の穀倉は?」
「王家へ」
「街道補修費は?」
「停止します。今後は王家に」
「王立学院への拠出金は?」
「今年度分を最後に我々からは終了します」
父は頭を抱えた。
既に実務を私に任せている身だ。
今更身を引いた自分が執り仕切ることも難しいだろう。
「王都の人間が泣くぞ」
「契約ですから」
「……お前は昔から、そういうところだけ妙に真面目だな」
父がため息をついた。
私は少しだけ笑う。
私だって、好きでこんなことをしているわけではない。
ただ、決められたことは守る。
それだけだ。
婚約が成立したとき、私は父から言われた。
『公爵家と王家は、婚姻だけで結ばれているわけではない。互いに約束を守ることで国を支えている』
だから、私は約束を守ってきた。
王太子妃教育も。
王宮への出仕も。
王家への財政支援も。
全部。
けれど、向こうが約束を破棄するというのなら。
こちらも契約に従う。
ただ、それだけだった。
◇
昼になる前に、王宮から使者が来た。
「エリナ様。昨日の件について、殿下からお話がございます」
「お断りします」
「……え?」
「婚約者ではなくなった以上、私が王宮へ出向く理由はありません」
「しかし殿下が――」
「それと」
私は返還一覧を差し出した。
「こちらを陛下にお渡しください」
使者は紙を見て、顔を青くした。
「こ、これは……」
「婚約破棄に伴う契約履行の通知書です」
「…………」
「よろしくお願いいたします」
◇
その日の夕方。
王都では大混乱が起きていた。
南部の穀倉が閉鎖された。
学院への補助金が停止された。
王宮への炭の優先供給がなくなった。
街道補修も打ち切られた。
翌朝には、王都の市場で小麦の値段が跳ね上がった。
「どうしてこんなことに!」
王宮では財務官たちが走り回っていたらしい。
答えは簡単だった。
王家が、公爵家との約束を破ったからだ。
私はただ、その結果を受け入れただけ。
ところが三日後。
王宮から正式な書面と共に、緊急の呼び出しが来た。
さすがに今回は断れなかった。
私は父とともに、国王陛下の前へ通された。
「エリナ」
国王陛下は疲れ切った顔をしていた。
「なぜここまで徹底している?」
「契約に従っております」
「王都が混乱している」
「承知しております」
「民が困っている」
「はい」
「それでも返還を続けるのか?」
「はい」
私はまっすぐ陛下を見る。
そして言葉を紡ぐ。
「返還したそれぞれについて、既にマニュアルなどは用意しておりますし、金銭面も国庫からの余裕分で賄える量かと考えております」
これには陛下もぐっ、と呻き声をあげる。
では最後に一言。
「私が勝手に王家へ便宜を与えれば、それこそ契約違反になります」
陛下は黙り込んだ。
その横で、王太子殿下が口を開く。
「エリナ。もういい」
「何がでしょう?」
「婚約破棄を取り消す」
私は瞬きをした。
「……はい?」
「ミレーヌとの婚約も破棄する。だから、元に戻してくれ」
私はしばらく殿下を見つめた。
「お断りします」
「なっ……」
「一度破棄された婚約を、殿下の都合で元に戻すことはできません」
「国が困っているんだぞ!」
「では、なぜ最初に破棄されたのですか?」
「それは……」
殿下が言葉を失った。
私は手帳を閉じた。
「私は殿下の決定を尊重しています」
「……」
「ですから、殿下も私の決定を尊重してください」
沈黙が落ちる。
そのときだった。
「――もういい」
国王陛下が立ち上がった。
「エリナ嬢」
「はい」
「お前は何も知らないのだな」
「……何をでしょうか?」
陛下は殿下を見る。
「レオニード。もう話せ」
「父上……」
「このままでは、彼女まで巻き込むことになる」
殿下はしばらく俯いていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……婚約破棄は、私の本心ではない」
「?」
「三か月前、王宮内部で反乱計画が発覚した」
私は黙って聞いた。
「反乱を企てていたのは、王妃派の一部だ。狙いは王位継承争いだった」
「……」
「そして、その連中が最初に狙ったのが君だった」
私は息を呑んだ。
「公爵家は王家に近すぎる。君が王太子妃になれば、反乱派にとって邪魔になる」
「では……」
「君との婚約を維持すれば、君は王宮にいる。狙われやすくなる」
殿下は苦しそうに笑った。
「だから、婚約を破棄した」
「……私を守るために?」
「そうだ」
私は言葉を失った。
あの夜。
大勢の前で。
ミレーヌと腕を組みながら。
私を捨てた。
あれが、私を王宮から遠ざけるためだった?
「ミレーヌ嬢も協力者だった」
「え?」
「彼女の家は王都の商会をいくつも持っている。婚約者の振りをすることで、反乱派の目をそちらへ向ける必要があった」
つまり。
あの婚約破棄は、偽物だった。
私を守るための。
王家を守るための。
そして――国を守るための。
「……殿下」
「ああ」
「それなら、最初にそう言ってください」
「言えるわけがないだろう。反乱派に情報が漏れる。我々には常に、彼らのマークがついていた」
「では、別の方法がありました」
「どんな?」
「私に相談することです」
殿下が固まった。
「サロンなどで皆の前で話すことはもちろん無理でしょう。……ですが、婚約者との睦言、という名目であれば簡単な会話なら出来るでしょう。下品な噂が立たないようにする必要はありますが、それもどうとでもできます」
そこで私は言葉を一度切る。
そして、
「私は、そこまで頼りない婚約者でしたか?」
殿下がうなだれる。
「……」
「三年間、王太子妃になるために勉強してきました」
私は少しだけ笑った。
「国と自分の身を守る話くらい、一緒に考えられます」
殿下は俯いた。
「……すまない」
「はい」
「怒っているか?」
「怒っています」
「……そうか」
「とても」
「……」
「ですが」
私は少し考えてから言った。
「私を守ろうとしてくださったことについては、感謝します」
殿下が顔を上げた。
「ただし」
「まだあるのか?」
「あります」
私は手帳を開いた。
「婚約破棄は成立しています」
「…………」
「一度捨てた婚約者を、国が困ったからといって戻すのは筋が通りません」
「エリナ……」
「私は、もう王太子妃になるつもりはありません」
殿下が息を呑んだ。
私は父を見る。
「公爵家の領地へ戻ります」
父が頷いた。
「それでいい」
私は踵を返した。
けれど、扉へ向かう直前。
「エリナ!」
殿下に呼び止められた。
「……君が王太子妃でなくても、私は――」
「殿下」
私は振り返った。
「それ以上は、今は言わないでください」
「……」
「私たちは婚約者ではありません」
「分かった」
殿下は苦笑した。
「では、いつか別の形で言わせてくれ」
「それは――」
私は少しだけ考えた。
「殿下ご自身の力で、国民に胸を張れる王になったら考えます」
「……分かった」
その返事だけを聞いて、私は王宮を出た。
◇
半年後。
私は領地の水路工事を指揮していた。
王家との契約がなくなったことで、これまで王都へ回していた資金を領地へ戻せるようになった。
結果として、農村の収穫量は増えた。
学院への補助金も、今度は公爵家が独自に奨学金として運用した。
街道も別の商会と契約した。
王家に頼らなくても、領地は回る。
むしろ以前より良くなった。
そんなある日のこと。
一通の手紙が届いた。
差出人は、元婚約者。
私は封を切る。
『エリナへ』
『私は今、王太子としてではなく、一人の人間として国を見ている』
『君がいなくなって初めて、君がどれだけ多くの仕事をしていたのか分かった』
『君が守っていたものを、今度は私自身が守れるようになりたい』
そこまで読んで、私は手紙を閉じた。
そして、少し笑った。
「遅いですよ、殿下」
机の上には、新しい契約書があった。
今度は王家とのものではない。
領民との約束。
今年の冬までに、新しい水路を完成させる。
私はペンを取った。
一行目に日付を書き。
最後に、自分の名前を記す。
契約とは。
誰かに縛られるためだけのものではない。
互いに守ると決めた未来を、形にするためのものだ。
だから私は、これからも約束を守る。
誰かに命じられたからではない。
――自分で選んだ約束だから。
窓の外で、工事の槌音が響いていた。
私は手帳を閉じる。
そして、最後のページに一言だけ書いた。
『婚約破棄――完了』
少し考えてから、その下に付け足す。
『人生――再契約』




