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【短編小説】『個室の神様』

作者: 越路 秋葉
掲載日:2026/04/23

とあるバラエティ声優(笑)が地上波番組の冠番組で話していたエピソードを元に短編小説化してみた。

 その日、人気女性声優・香坂かなえは、人生最大級の緊張に包まれていた。

 子役時代から芸歴20年。

 泣き芝居で視聴者を泣かせ、

 バラエティ番組では芸人を転がし、

 冠ラジオでは22時台の深くもあさくもない夜中にリスナーのメールを読む。

 トーク力よし。

 度胸よし。

 知名度よし。

 現場対応力、異常によし。

 そんな彼女が――震えていた。

「む、むり…むりだよぉ…」

 楽屋で台本を持つ手が、小鹿どころか生まれたてのアルパカのように震えている。

「私なんかが……なんでよりによって関守さんと二人芝居……」

 相手は、舞台も国民的アニメも吹き替えも司会もこなす、業界の生ける伝説――関守一郎。

 30年以上業界の一線を走るトップランナー。

 声優界のラスボス。

 マイク前の暴君。

 アドリブで台本を書き換える男。

 しかも今日は二人芝居。

 逃げ場なし。

 ごまかし不可。

 助け船ゼロ。

「バラエティならいけるのに……! こういう時だけMC呼んで……!」

 スタッフの声が飛ぶ。

「開演15分前でーす!」

「寿命も15分減った……」

 かなえは立ち上がった。

「だめだ。一回落ち着こう。私、酸素吸ってくる」

 劇場裏の女子トイレ。

 個室に入り、鍵を閉める。

「吸って……吐いて……」

 深呼吸。

「かなえ、落ち着いて。

 あなたは子役から修羅場をくぐってきた女。

服のセンスが壊滅的に酷いとイジられて、ブチ切れた女。

 生放送で司会者に名前間違えられても笑って返した女。

 地方ロケで牛に追いかけられてもコメントを残した女……!」

 そのとき。

「おい」

 声がした。

 かなえは止まった。

「……え?」

「おい、お嬢ちゃん」

 視線を落とす。

 そこにいた。

 誰かが流し忘れていった、圧倒的な存在感を放つ茶色い一本が。

 便器中央に堂々と鎮座。

 妙な貫禄がある。

「いやあああああ!」

「うるせぇな。あぁ…ラジオでもそんなテンションだったな…」

「しゃべった!?」

「毎週聴いてるぞ、日曜日22時30分」

「ヘビーリスナー!?」

 低く渋い声だった。

「お、おおおお化け!?」

「違う。常連だ」

「何の!?」

「……緊張してんだろ」

「え?」

「声が上ずってる。お前、バラエティ収録で芸人百人いても平気な顔するくせに、本職になると弱いな」

「分析が的確すぎる!」

「いいか。相手が伝説だからって縮こまるな」

「でも関守さんですよ!?」

「知ってる。俺もファンだ」

「お前もか!」

「だが、お前も積み上げてきた」

 かなえは黙る。

「泣きの芝居で売れた。

 トークで生き残った。

 ラジオで変なメール職人を育てた。

 それ全部、お前の力だ」

「……」

「比べるな。出し切れ」

「……」

「俺なんか見ろ。今朝、全力で出し切った結果がこれだ」

「説得力が最低ライン突破してる!」

「途中で逃げなかった。最後までやり切った」

「置いて帰ったけどな!」

 かなえは思わず吹き出した。

 肩の力が抜ける。

「笑えたなら大丈夫だ」

「……あなた、何者なの」

「名もなき投稿職人さ」

「ラジオネームありそう!」

「ラジオネーム、一本残し太郎」

「最低!」

 外からスタッフの声。

「香坂さん! 本番3分前です!」

 かなえは立ち上がる。

「……ありがとう」

「礼はいらん」

「うん」

「ついでに流してくれ」

「最後まで人任せ!」

 レバーを押す。

 ゴォォォォ――!

「がんばれよ〜!アディオス セニョリータァァァ!」

「スペイン語で話しながら消えるな!」

 舞台袖。

 関守一郎が腕を組んで待っていた。

「お、顔つき変わったな」

「……はい」

「何かあった?」

 かなえは真顔で答えた。

「個室で、古参リスナーに励まされました」

「は?」

「行けます」

「…意味がわからんが…まぁいいや」

 開演ベル。

 二人は舞台へ出た。

 その夜、芝居は大成功だった。

 終演後、関守がぽつりと言った。

「……そういや、女子トイレに入っちゃいけないって、スタッフにめちゃくちゃ怒られた」

「え?」

「開演20分前に腹痛くて、慌てて間違えてさ」

 かなえは遠い目をした。

「……なるほど」

「何が?」

「伝説って、方向音痴でもなれるんですね」

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