【短編小説】『個室の神様』
とあるバラエティ声優(笑)が地上波番組の冠番組で話していたエピソードを元に短編小説化してみた。
その日、人気女性声優・香坂かなえは、人生最大級の緊張に包まれていた。
子役時代から芸歴20年。
泣き芝居で視聴者を泣かせ、
バラエティ番組では芸人を転がし、
冠ラジオでは22時台の深くもあさくもない夜中にリスナーのメールを読む。
トーク力よし。
度胸よし。
知名度よし。
現場対応力、異常によし。
そんな彼女が――震えていた。
「む、むり…むりだよぉ…」
楽屋で台本を持つ手が、小鹿どころか生まれたてのアルパカのように震えている。
「私なんかが……なんでよりによって関守さんと二人芝居……」
相手は、舞台も国民的アニメも吹き替えも司会もこなす、業界の生ける伝説――関守一郎。
30年以上業界の一線を走るトップランナー。
声優界のラスボス。
マイク前の暴君。
アドリブで台本を書き換える男。
しかも今日は二人芝居。
逃げ場なし。
ごまかし不可。
助け船ゼロ。
「バラエティならいけるのに……! こういう時だけMC呼んで……!」
スタッフの声が飛ぶ。
「開演15分前でーす!」
「寿命も15分減った……」
かなえは立ち上がった。
「だめだ。一回落ち着こう。私、酸素吸ってくる」
劇場裏の女子トイレ。
個室に入り、鍵を閉める。
「吸って……吐いて……」
深呼吸。
「かなえ、落ち着いて。
あなたは子役から修羅場をくぐってきた女。
服のセンスが壊滅的に酷いとイジられて、ブチ切れた女。
生放送で司会者に名前間違えられても笑って返した女。
地方ロケで牛に追いかけられてもコメントを残した女……!」
そのとき。
「おい」
声がした。
かなえは止まった。
「……え?」
「おい、お嬢ちゃん」
視線を落とす。
そこにいた。
誰かが流し忘れていった、圧倒的な存在感を放つ茶色い一本が。
便器中央に堂々と鎮座。
妙な貫禄がある。
「いやあああああ!」
「うるせぇな。あぁ…ラジオでもそんなテンションだったな…」
「しゃべった!?」
「毎週聴いてるぞ、日曜日22時30分」
「ヘビーリスナー!?」
低く渋い声だった。
「お、おおおお化け!?」
「違う。常連だ」
「何の!?」
「……緊張してんだろ」
「え?」
「声が上ずってる。お前、バラエティ収録で芸人百人いても平気な顔するくせに、本職になると弱いな」
「分析が的確すぎる!」
「いいか。相手が伝説だからって縮こまるな」
「でも関守さんですよ!?」
「知ってる。俺もファンだ」
「お前もか!」
「だが、お前も積み上げてきた」
かなえは黙る。
「泣きの芝居で売れた。
トークで生き残った。
ラジオで変なメール職人を育てた。
それ全部、お前の力だ」
「……」
「比べるな。出し切れ」
「……」
「俺なんか見ろ。今朝、全力で出し切った結果がこれだ」
「説得力が最低ライン突破してる!」
「途中で逃げなかった。最後までやり切った」
「置いて帰ったけどな!」
かなえは思わず吹き出した。
肩の力が抜ける。
「笑えたなら大丈夫だ」
「……あなた、何者なの」
「名もなき投稿職人さ」
「ラジオネームありそう!」
「ラジオネーム、一本残し太郎」
「最低!」
外からスタッフの声。
「香坂さん! 本番3分前です!」
かなえは立ち上がる。
「……ありがとう」
「礼はいらん」
「うん」
「ついでに流してくれ」
「最後まで人任せ!」
レバーを押す。
ゴォォォォ――!
「がんばれよ〜!アディオス セニョリータァァァ!」
「スペイン語で話しながら消えるな!」
舞台袖。
関守一郎が腕を組んで待っていた。
「お、顔つき変わったな」
「……はい」
「何かあった?」
かなえは真顔で答えた。
「個室で、古参リスナーに励まされました」
「は?」
「行けます」
「…意味がわからんが…まぁいいや」
開演ベル。
二人は舞台へ出た。
その夜、芝居は大成功だった。
終演後、関守がぽつりと言った。
「……そういや、女子トイレに入っちゃいけないって、スタッフにめちゃくちゃ怒られた」
「え?」
「開演20分前に腹痛くて、慌てて間違えてさ」
かなえは遠い目をした。
「……なるほど」
「何が?」
「伝説って、方向音痴でもなれるんですね」




