哲学の強み
例えば、りんごを食べた事がない人でも「りんご博士」になる事はできる。「りんご」についてあれこれと細かく説明する事はできる。
りんごを食べた事がなくても、りんごに関する知識を無限に増やして、「あの人はりんごに詳しい」「りんごについてならあの人に聞け」と人に言われるようになる事は現実に可能だ。
しかしその人はりんごを食べた事がない。だから、我々が「りんごを食べる」という言葉から連想するあの感触は、りんご博士にはわからない。
それでもりんご博士は、りんごを食べた時の感触や甘みについていくらでも語る事ができる。ただ、彼の中に欠けているのはりんごを食べた時の実感なのだが、それについては他人は知る事はできない。いわば、りんごの食感は「語り得ないもの」なのだ。
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わかりやすくする為にりんごを例に持ち出したが、これは色々な事に当てはまるのではないかと思う。私が一つ思うのは「哲学」だ。
哲学について詳しく解説する人はいる。概念として説明するのがうまい人がいる。しかし、哲学を学んでいる際に訪れる(ああ、そうか、そうなのか)という、いわば「りんごの食感」に似た感覚が欠けている人は結構いるのではないかと思う。
ただ、これはりんごの場合と同様に、それを知る事はできない。他人の内面は言葉のような間接的なものを通じてしか想起できない。
要するに、哲学を学んでいて「わかった!」という感動がないままに、学んだ知識だけで「哲学の専門家」のような顔をしている人がそれなりにいるのではないか。私はそういう疑問を持っている。
これは読者の側でも事情は変わらない。「哲学とはこんなもんだ」と、哲学に深く入り込んで味わう感動を通り越して早いところ「哲学」という未知なものをカテゴライズして安心したい人達もいる。こうした人達に、わかりやすい見取り図を与えて、安心させようとする専門家もいるのではないか。
こうして書いていると、「それでは哲学とは「わかった!」という感動なのか? そういう感動がないと駄目なのか?」という声が聞こえてきそうだ。
私自身の経験で言えばそれがなければ駄目だと思う。もっとも、再三書いているようにこの事は他人に証明する事ができない。他人に証明する事ができない、という理由で、それは「存在しない」と言いたがる人もいるが、語り得ないという事と、それが存在しないという事とは違う。
そして感動とは結局、別の感動によって計られるしかない。他人の知的感動を理解する為には自分の側に類似の経験がなければ無理だろう。
ただこれは語り得ないものとして作用する。こうして、哲学のような深い知識は、ある種の人々にとっては永遠にわかりにくい謎のままに残るし、また別のある人々にはあまりに感動的で、開けた、わかりやすい、感覚的な知の平原という事になる。両者の溝は深い。
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私自身の経験を書いておくなら、私は長らくベルクソンという哲学者の言っている事がわからなかった。何度読んでもわからなかった。(ここでは処女作の「時間と自由」の哲学を取り扱う)
しかしある時に(ああ、そうか)と思う経験があった。
それはベルクソンがどこかで「私が言葉による解決を投げ捨てた日」と言っており、その言葉に触れたからだ。
それで私は「ああ、言葉じゃないのか」と思い、その時にベルクソンがわかったように感じた。
仏教に「指月の例え」という話がある。月は真理であり、指は言葉である。
言葉は真理を指し示す。しかし多くの人は言葉、つまり指の方を真理だと勘違いする。それによって何が真理なのかわからなくなる。
言葉はただの記号でしかない。記号の先にあるものが真理なのだが、最初は言葉そのもの、言葉の意味が真理だと考えてしまう。
ベルクソンの哲学も、私には彼の言葉、その文体もよくわからなかった。文体が格別優れているとか、そういう事もわからなかった。
ただ「言葉による解決を投げ捨てた日」という言葉に出会った時、ベルクソンの言葉が何を指しているのかわかったような気がした。
ベルクソンの言わんとした真理とは、「私」、あるいは「私の中にあるこれ」の事だったのだと気づいた。灯台下暗しのような感覚だ。
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さて、これまで書いてきた文章はどのような意味を持っているだろうか。それは、一つには哲学はその本質に「語り得ないもの」を持っているという事だ。
語り得ないものをどうやって語るのか、どうやって読み取るのか、と人は訝るかもしれない。語り得ないものを理解するのは、おそらく「あなた自身」であろう。読者の積極的な知的活動が求められる。
どんな優れた師も、指の先の月をそのまま見せる事はできない。師ができるのは指を見せる事だけだ。そこから先は、本人の力が試される。
このような「語り得ないもの」が真理として内包されている哲学というものは、私は、今、世間で言われているようなものとは全く逆の強みを持つと考えている。
それは「哲学の強みとは客観的ではなく主観的」という事だ。
よく、「客観的なものは正しいけれど主観的なものは曖昧」という人がいる。しかし哲学に含まれる主観的な真理は、主体の感動を伴っている。この感動はその人の奥深くに大きな痕跡を残す事だろう。他人からは見えなくても。
客観的なものは良いが主観的なものは駄目、という人は多いが、哲学や文学のようなものはそれぞれの主観によって内的に確かめられるという形で客観性を帯びていく。
文学のようなものはそれぞれの人間の感動というものでその価値が計られるが、この感動は他人は語り得ないものだ。語り得たとしても、感動そのものを客観化する事はできない。
だが、こうした主観的体験の客観化という過程で、感動を伴うある知的体験というのは、ただその人の外部にある客観的な知識よりもより大きな影響力を持つだろう。それというのは、そうした経験はその人の本質そのものに働きかけるからだ。そうした経験はその人の本質を形作る。
だから哲学の強みはむしろ「主観的である事」にあるように思う。そしてこの事は哲学というものを、わかりやすい概念で区別して得られるそのようなものではない。そこには深い感動がある。その人の本質と結びついた感動がある。
また、そういうものが欠けた単なる知的衣装としての哲学、哲学書、哲学解説書はそれがどれだけ多数の人々の表面的な知的興味を刺激したとしても、感動を伴う知的経験の拡散に比べれば速やかに時間の中で消え去っていく事だろう。




