「視界に入るな」と仰っていた最推し公爵様が記憶喪失でデレましたが、解釈違いなので元に戻ってください! ~冷遇妻の私は壁になりたいのに、旦那様の隠し持っていた激重感情が暴走して離してくれません~
⏬後堂愛美の作品リストは本文下にあります。
「私の視界に入らないでくれ。気が散る」
朝の光が差し込むダイニングルーム。氷の魔術師の異名を持つ夫、テオドール・ヴァン・ハインリヒ公爵様は、絶対零度ボイスでそう言い放ちました。銀色の髪は窓から差し込む朝日を浴びて神々しく輝き、アイスブルーの瞳は私という存在を、まるで道端の石ころか埃のように冷徹に見据えています。
なんて……なんて、素晴らしいのでしょう!
私はスッと背筋を伸ばし、貴族令嬢として培った淑女の仮面を完璧に貼り付けたまま、優雅にお辞儀をしました。
「申し訳ございません、旦那様。すぐに退室いたします」
「……ああ。夜も待たなくていい」
「かしこまりました」
足音を立てずに部屋を出て、静かに重厚な扉を閉める。次の瞬間、私は淀みない所作で合掌して、深々と頭を下げました。
(神様仏様、そして公式様……ありがとうございます! 本日の供給も最高でした!!)
今の冷たい視線、聞きましたか?
あの蔑むような流し目、そして「視界に入るな」という拒絶の言葉。これぞ、原作小説『聖女と氷の公爵』におけるテオドール様の通常運転、至高のファンサービスです。生の声帯から繰り出される冷酷ボイスが、私の鼓膜を震わせ、脳髄を痺れさせる。ああ、今日も生きる活力が湧いてきました。
私、アリアンナ・フォン・ローゼンバーグは、前世でこの小説の熱狂的なファンでした。不慮の事故でこの世界に転生し、あろうことか「推し」であるテオドール様の政略結婚の相手――つまり、やがて聖女カミラと結ばれるまでの「当て馬」兼「飾り妻」のポジションに収まってしまったのです。
ですが、私にとってここは天国でした。最推しと同じ空気を吸い、同じ屋根の下で暮らし、毎日その冷たく美しいお顔を拝めるのですから。
夫婦生活?
あるわけがありません。あってはなりません。私たちは契約上の関係、いわゆる「白い結婚」です。私は彼にとって、屋敷の背景美術の一部。壁のシミ。あるいは観葉植物。それでいいのです。それがいいのです。
推しの視界を邪魔せず、彼が聖女と結ばれるその日まで、私は「物分かりの良い壁」として彼の平穏を守り抜く。そして「そのとき」が来たら、さっと身を引く。それが私の使命であり、至上の喜びなのですから。
(あの冷たい声音の響き……鼓膜から脳が浄化される……)
私は脳内で高速のオタク語りを繰り広げながら、誰にも気づかれないよう、優雅な足取りで自室へと戻りました。
◇ ◇ ◇
それから数日後。テオドール様が、北の森に出現した魔獣討伐の遠征から帰還される日がやってきました。
屋敷の玄関ホールには、執事やメイドたちが整列しています。私も公爵夫人として、最前列で彼を出迎える準備を整えていました。もちろん、余計な言葉は発しません。「おかえりなさいませ」の一言で速やかに去る。それがプロの壁としての流儀です。
「公爵閣下のご帰還だ!」
門衛の声と共に鉄門が開き、騎馬隊と共にテオドール様が姿を現しました。遠征の疲れも見せず、馬上でマントを翻す姿の凛々しさといったら!
銀髪が風になびき、鋭い眼光が周囲を射抜く。暗雲が空をおおうあいにくの天気でしたが、むしろその重苦しさこそ冷徹なる氷の公爵に相応しい。
まるで絵画から抜け出してきたような美しさに、私は今すぐその場にひれ伏して尊さを叫びたい衝動を、鉄の理性で抑え込みます。
その時でした。使用人の一人が、あっ、と声を上げたのは。
ぴかり、と暗い空が光りました。反応する間もなく、青白い落雷が彼を襲います。私の目の前で、光の爆発が起こりました。
「テオドール様!!」
私の悲鳴は、轟音にかき消されました。彼は馬から投げ出され、冷たい石畳の上に激しく叩きつけられます。私はドレスの裾が汚れるのも構わず、なりふり構わず駆け寄りました。彼に触れてはいけない、壁でなければいけない。そんなルールは吹き飛びました。
「テオドール様、しっかりしてください! 誰か、医者を手配して!! 治癒魔術師はどこですか!?」
血の気が引いた顔で倒れている彼を抱き起こし、私は必死に声をかけ続けました。推しが死ぬなんてありえない。物語はまだ始まってすらいないのに。
私の腕の中で、彼がうっすらと目を開けました。アイスブルーの瞳が、焦点を結ぼうと彷徨い、やがてぼんやりと私を映します。ああ、よかった。意識はある。私は震える声で呼びかけました。
「旦那様……? 私が分かりますか?」
きっとまた、「触るな」と冷たく突き放されるでしょう。汚いものを見るような目で睨まれるでしょう。それでもいい。彼が生きていてくれれば、どんな罵倒も賛美歌のように聞き入れてみせます。
しかし。テオドール様は、私の顔をじっと見つめると――ふわりと、花が咲くように微笑んだのです。
え?
「……ここは、天国か?」
甘い、砂糖菓子を煮詰めたような声でした。私の知っている、氷柱のように鋭いテオドール様の声ではありません。思考が停止する私の頬に、血の滲む彼の手が優しく添えられました。温かい。いや、熱い。
「君のような可愛い天使がいるなんて……俺は死んだのか?」
「は……?」
私が間抜けな声を漏らすと、彼は不思議そうに首を傾げ、それから周囲を見渡しました。そして、私を抱きしめている自分の状況を確認し、再び私を見て、パァァァッと効果音がつきそうなほどの満面の笑みを浮かべたのです。
「いや、生きてるな。痛みがある。ということは……君は、俺の妻か?」
私は硬直したまま、コクコクと頷くことしかできません。すると彼は、信じられない言葉を口にしました。
「やったあ! こんなに愛らしい人が俺の妻だなんて、俺はなんて果報者なんだ!」
その瞬間、私の脳内で何かが崩れ落ちる音がしました。
待って。ちょっと待ってください。
(誰ですか貴方は!?!?)
私の知っているテオドール様は、眉間に皺を寄せ、他者を拒絶し、孤高の冷気を纏っているはずです。こんな、尻尾を振る大型犬のように目をキラキラさせて、デレデレと笑うなんて……。
これは公式設定ではありません。原作のどこを探しても、こんなシーンはありませんでした。
「君の名前は? アリアンナ……女神のような名前だ」
彼は怪我人のくせに力強く私の手を握りしめ、あろうことか頬ずりをしてきます。周囲の使用人たちも、あまりの事態に石像のように固まっていました。
私の最推しが。冷徹無比な氷の公爵様が。あろうことか私なんかに、とろけるような笑顔を向けている。
(解釈違いです!!!!)
心の中で絶叫しながら、私はあまりの衝撃に、そのまま気を失いそうになりました。けれど、強く抱きしめられた腕の力が、それを許してくれそうになかったのです。
◇ ◇ ◇
数日後。私の平穏な推し活ライフ――もとい、冷遇妻ライフは音を立てて崩壊していました。
「アリアンナ、じっとしていてくれ。魔力切れだ」
その言葉と共に、背後からずっしりとした重みがかかりました。執務室で書類整理の手伝い(という名目で監禁)をさせられていた私の背中に、テオドール様が覆いかぶさってきたのです。彼の長い腕が私の腰に回され、首筋には銀髪がサラサラと触れます。
「だ、旦那様!? お仕事中ですよ!?」
「仕事なら片手でできる。それよりアリアンナ粒子の補給が先だ……スーッ、ハァー……よし、三割ほど回復」
私の匂いを深々と吸い込む変態的な公爵様。嘘でしょう。あの潔癖で冷酷なテオドール様が、人間の匂いを嗅ぐなんて。しかも「成分」って何ですか。私は栄養ドリンクか何かですか。
事故の影響で記憶喪失になったテオドール様は、私のことを「運命の女神」だと思い込んだまま、片時も離れようとしなくなりました。食事は「あーん」を要求(拒否したら捨てられた子犬のような顔をされたので泣く泣く実行)、移動は手を繋ぐか腰を抱く、夜は同じベッドで寝たがる(これは全力で阻止して別室へ逃亡中)。
「あの、離れてください。心臓に悪いです」
「嫌だ。離したら君がどこかへ行ってしまいそうで怖い」
耳元で囁かれる甘えた声。背中に感じる体温と、トクトクと伝わってくる彼の鼓動。正直に言いましょう。
(無理無理無理! 尊すぎて死ぬ!!)
推しに抱きしめられる。これは全人類の夢です。
ですが、これは「私の知っているテオドール様」ではないのです。私の推しは、氷のように冷たく、孤独で、誰にも心を許さないからこそ美しい。こんなデレデレな甘えん坊は、解釈違いも甚だしいのです! 原作準拠でお願いします! 早く公式に戻って! でもその顔が良いから離れられない! 私の理性はもう限界よ!
そんな私の葛藤を知ってか知らずか、テオドール様は私の頬をつんとつつきました。
「君の顔が赤い。可愛いな」
「っ……黙ってください!」
私が真っ赤になって抗議したその時、執事が部屋に入ってきました。
「閣下、奥様。神殿より聖女カミラ様がお見舞いにお見えです」
カミラ!
その名を聞いた瞬間、私はバッとテオドール様から離れました。ついに来ました、原作ヒロイン。本来のルートなら、ここでお見舞いに来たカミラにテオドール様が心を開き、関係を深める重要イベントです。
そうよ、彼にはやはりカミラがお似合いなのです。私がこんなところにいてはいけない。
「通してちょうだい!」
私は執事に告げ、テオドール様に向き直りました。
「旦那様、カミラ様は素晴らしい聖女様です。きっと貴方の記憶を戻す手助けをしてくださいますわ」
「ふうん。興味ないな」
テオドール様はつまらなそうに書類に視線を落としました。やがて扉が開き、ピンクブロンドの髪をなびかせた可憐な少女、カミラが入室します。
「テオドール様! お怪我をされたと伺って、心配で居ても立っても居られず……!」
カミラは涙ぐみながら、まるで天使のように駆け寄ってきます。完璧です。これぞ正ヒロインのムーブ。さあテオドール様、その美しさに目を奪われ、運命を感じてください!
しかし。テオドール様は書類から顔も上げずに言い放ちました。
「誰だ、お前」
「えっ……?」
カミラの足がピタリと止まります。
「誰の許可を得て入室した。俺は今、妻との語らいを楽しんでいたんだ。邪魔だ、帰れ」
部屋の空気が凍りつきました。氷の魔術師の本領発揮です。ただし、向ける相手が間違っています。それは私に向けるべき塩対応で、ヒロインに向けるものではありません!
「て、テオドール様? 私です、カミラです! 聖女の……」
「知らん。聖女だろうが何だろうが、アリアンナより価値のある人間などこの世にいない。失せろ」
「ひっ……!」
テオドール様から放たれた鋭い殺気に、カミラは悲鳴を上げて逃げ出してしまいました。扉がバタンと閉まり、静寂が戻ります。
私は震える手で口元を押さえました。なんてこと。原作イベントが粉砕されました。しかも「妻より価値のある人間などいない」って……嬉しい。どうしようもなく嬉しいけれど、これは原作の崩壊を意味します。
「アリアンナ、悪い虫は追い払ったよ。さあ、続きをしよう」
「虫って言いました!? 聖女様ですよ!?」
「アリアンナは女神だろう? ならば恐るるに足らない」
ニコニコと手を広げるテオドール様を見て、私は頭を抱えました。このままではいけない。彼が記憶を取り戻した時、今の行動をどれほど後悔することか。私が彼の「黒歴史」製造装置になっているのです。
◇ ◇ ◇
その日の午後。テオドール様が公務で一瞬だけ席を外した隙に、私は彼の書斎に忍び込みました。彼が記憶喪失になる前の記録や日記があれば、そこに「本来の彼」――すなわち、私を冷徹に突き放してくれる彼に戻るための手がかりがあるかもしれないと思ったのです。元に戻す方法を探さなければ。そうでなければ、私の心臓が持ちません。
重厚な黒檀の机の引き出しをそっと開けると、革表紙の一冊のノートが入っていました。表紙には何も書かれていません。もしかして、高度な魔術の研究日誌でしょうか?
私は罪悪感を覚えつつも、震える指でページをめくりました。
『×月×日。今日もアリアンナは朝食の席で完璧な淑女だった。だが、俺が視線を送ると、耳がわずかに赤くなっているのが見えた。可愛い』
……はい?
私は目を疑いました。見間違いでしょうか。ここには「可愛い」と書かれています。私は恐る恐る次のページをめくりました。
『×月△日。廊下ですれ違った際、彼女がつまずいた。支えてやりたかったが、俺の冷たい手が触れれば彼女を怖がらせてしまう。見守ることしかできない自分が歯がゆい。あの後、自室で壁を殴った』
『×月〇日。アリアンナが庭の薔薇を見て微笑んでいた。あの笑顔を俺に向けてくれたら、俺は全財産を投げ打ってもいい。だが、俺のような手の汚れた魔術師には、彼女の純白は眩しすぎる』
ノートのページをめくる手が止まりません。そこには、日付と共に、私の一挙手一投足が詳細に、それはもうストーカー紛いの細かさで綴られていました。しかも、その内容はすべて「俺の妻が尊い」「好きだ」「でも触れられない」という、重すぎる愛のポエム。
『アリアンナ観察日記その12』
最後のページには、震える文字でこう書かれていました。
『今日こそ「おはよう」と言おうとしたが、緊張のあまり「視界に入るな」と言ってしまった。俺はなんて愚かなんだ。死にたい。アリアンナ、すまない。愛している』
本が手から滑り落ち、ドサリと床に音を立てました。
嘘、でしょう……?
私の知っている「冷徹公爵」は、ただの「コミュ障こじらせ限界オタク」だったのですか!?
記憶喪失になった今の彼が「キャラ崩壊」しているのではなく、今の彼こそが「リミッターの外れた本性」だったというのですか?
原作にありませんでしたよ、こんな描写!?
「……アリアンナ? 何をしているんだ?」
背後から声がしました。ビクリと肩を震わせて振り返ると、そこには戻ってきたテオドール様が立っています。彼は床に落ちたノートを見て、次に真っ青な顔をしている私を見ました。
「それは……」
彼は不思議そうに首を傾げます。記憶がない彼には、それが何なのか分からないはずです。ですが、私には分かってしまいました。目の前のこの甘えん坊が、本来の彼が必死に隠してきた「本音」の塊なのだと。
私の心臓が、今までとは違うリズムで激しく打ち始めました。これは「推しへの興奮」ではありません。一人の男性の、あまりにも不器用で切実な想いに触れてしまった、動揺とときめきでした。
◇ ◇ ◇
翌日、テオドール様は朝から上機嫌でした。
あの「観察日記」を見てしまった衝撃を引きずっている私とは対照的に、彼は私の手を引いて屋敷の外へと連れ出します。変装用の伊達眼鏡をかけただけの彼ですが、隠しきれない高貴なオーラが周囲を圧倒しています。
今の彼は「氷の公爵」ではなく、ただの「愛妻家の青年」として振る舞っていました。
「クレープ? これが食べたいのか? 店主、全部くれ」
「い、いえ、一つで十分ですよ! 分かってくださいよ!!」
「そうか。では、二つ……いや、一つを半分こしよう。はい、アーン」
街の雑踏の中、彼があまりにも自然に私の口元へクレープを差し出してきます。周囲の視線が痛い。でも、甘い。クリームの甘さよりも、至近距離で見つめてくる彼のアイスブルーの瞳の方が、よほど甘くて溶けそうです。
(どうしよう……今のテオドール様を見るたびに、あの『観察日記』の言葉が蘇ってくる)
『アリアンナ粒子が足りない』
『愛している』
もし、記憶を失う前の彼も、ずっと私をそんな風に想ってくれていたとしたら?
私は今まで、彼を「推し」という聖域に閉じ込めて、彼自身の心を一度もしっかり見ていなかったのではないか?
そんな罪悪感と、胸の奥で燻り始めた小さな期待が、私の心拍数を乱します。
「アリアンナ、こっちの店も――」
彼が私の手を引いて振り返った、その瞬間でした。
「危ない!!」
誰かの叫び声と共に、制御を失った荷馬車が猛スピードで突っ込んできました。私の立ち位置は、馬車の進行方向の真ん中。逃げ場がない――そう思った時には、強い力で体が弾き飛ばされていました。
「ッ――!」
ドォォォン!! という凄まじい衝突音が響き渡ります。
私は石畳の上に転がりましたが、痛みはありませんでした。誰かに強く抱きしめられ、守られていたからです。恐る恐る顔を上げると、そこには苦痛に顔を歪めたテオドール様がいました。
「テオドール様!?」
彼の背中を、馬車の車輪が掠めたようでした。マントが裂け、血が滲んでいます。彼は自分の怪我など気にも留めず、真っ先に私の顔を覗き込みました。
「無事か、アリアンナ……! 怪我はないか!?」
「わ、私は平気です! でも貴方が……!」
「よかった……」
彼は安堵の息を吐き、私を抱きしめる腕に力を込めました。その震える腕から、彼がどれほどの恐怖を感じていたかが伝わってきます。
「記憶がなくても、自分が誰か分からなくても……君を失うことだけは、耐えられないと分かった」
「旦那、様……」
「君が傷つくくらいなら、俺の体など砕けてもいい……愛している、アリアンナ」
騒然とする街中で、世界から音が消えたようでした。その言葉は、甘えた子供のような台詞ではありません。一人の男性としての、魂からの叫びでした。
私の目から、涙が溢れ出しました。推しだから尊い、とか。解釈違いだ、とか。そんなオタクの戯言は、もう出てきません。
私は、この人を愛している。「氷の公爵」というキャラクターとしてではなく、不器用で、一途で、私のために命を懸けてくれるテオドール・ヴァン・ハインリヒという一人の男性を、心から愛してしまったのです。
「私も……私もお慕い申し上げております、テオドール様」
私は彼にしがみつき、公衆の面前であることも忘れて泣きじゃくりました。これが、私たちの本当の始まりになるはずでした。――その夜、彼が高熱を出して倒れるまでは。
屋敷に運び込まれたテオドール様は、魔力枯渇による高熱にうなされました。医師によると、事故の瞬間に無意識に高度な防御魔法を展開し、記憶喪失で不安定だった魔力に過負荷がかかったとのこと。私は一晩中、彼の手を握り続けました。神様、お願いです。彼を連れて行かないで。やっと、やっと心が通じ合ったのですから。
◇ ◇ ◇
そして翌朝。窓から差し込む白い光と共に、テオドール様が目を覚ましました。
「……ん」
「テオドール様! 気が付かれましたか?」
私は涙目で彼の顔を覗き込みました。彼のアイスブルーの瞳が、ゆっくりと私を捉えます。その瞬間。私は背筋が凍り付くのを感じました。
彼の瞳から、昨日のような温かい光――あの大型犬のような「甘え」が、完全に消え失せていたからです。そこにあったのは、以前と同じ、いや以前よりもさらに硬質で冷ややかな、絶対零度の「氷」でした。
「……アリアンナか」
声のトーンが低い。抑揚のない、事務的な響き。
「テオドール様……? 私が、分かりますか?」
「ああ。状況は理解した……どうやら私は、数日間、記憶が混濁していたようだな」
彼は痛む頭を押さえながら、私から視線を逸らしました。その仕草は明確な「拒絶」でした。
「不愉快な思いをさせたな。私の醜態を、忘れてくれ」
「え……?」
「君にベタベタと触れ、軟弱な言葉を吐いたと聞いた……すまなかった。もう二度と、あのようなことはしない」
心臓が早鐘を打ちます。待って。嘘でしょう?
昨日のあの熱い告白も、命懸けの守護も、すべて「記憶混濁による醜態」で片づけてしまうのですか?
「ですが、貴方は私を愛していると……!」
「戯言だ」
彼は私の言葉を冷たく遮りました。
「記憶のない愚か者の妄言だ。気にするな」
「っ……」
「下がってくれ。一人になりたい」
彼は布団を頭まで被り、私に背を向けました。その背中は、以前の「冷徹公爵」そのもので。私たちが過ごした甘い数日間は、まるで悪い夢だったかのように、あっけなく否定されたのです。
私はふらふらと寝室を出ました。廊下を歩きながら、乾いた笑いが漏れます。
魔法は解けたのです。シンデレラの舞踏会は終わりました。彼は元の、完璧で冷酷な公爵様に戻った。あの「観察日記」に書かれていた激重な本音を知ってしまった私にとって、この結末はあまりにも残酷でした。
彼は思い出したのです。自分が「アリアンナを傷つけるかもしれない魔術師」であることを。だからこそ、理性が戻った今、再び心を閉ざし、私を遠ざけることを選んだのでしょう。それが彼の愛なのだとしたら。彼の望み通り、離れてあげるのが「推しを愛する者」の務めなのでしょうか。
(……いいえ。もう無理よ)
推しとして眺めるだけなら、耐えられました。けれど、一度あの温もりを知ってしまった今、以前のような「壁」に戻って生きていくことなど、私には到底できません。
私は自室に戻ると、鍵付きの引き出しから一枚の書類を取り出しました。結婚当初、もしもの時のために用意していた書類。『離縁状』です。
私は震える手でペンを取りました。インクが紙に滲みます。
これでいい。彼を愛しているからこそ、彼の「冷徹でありたい」という意志を尊重して、私は姿を消そう。
私は署名欄に、アリアンナ・フォン・ローゼンバーグの名を書き込みました。涙が一滴、紙の上に落ちて、黒いインクを灰色に滲ませました。
執務室の重厚な扉をノックすると、中から短く「入れ」という声が響きました。私は深呼吸をして、震える指先を隠すように両手を組み、部屋に入ります。一歩足を踏み入れると、そこは別世界のように空気が張り詰めていました。
テオドール様は執務机に向かい、山積みの書類を処理していました。その横顔は彫刻のように美しく、そして氷のように無機質です。昨日までの、私を見るだけで尻尾を振っていた愛らしい彼は、もうどこにもいません。
「……何用だ」
彼はペンを走らせたまま、顔も上げずに尋ねました。私は一歩前に進み、手にした封筒を机の上に置きました。
「テオドール様。契約終了の申請に参りました」
「……何?」
彼の手が止まりました。ゆっくりと顔を上げ、私を射抜くようなアイスブルーの瞳で見据えてきます。その瞳の冷たさに心が竦みそうになりますが、私は淑女の微笑みを仮面のように貼り付け、言葉を続けました。
私の役目は『壁』として、貴方様の平穏を守ること。ですが、昨今の騒動でその役割を果たせなくなりました。これ以上、貴方様の視界を汚すわけにはいきません――と。
淡々と、事前に練習した通りの台詞を紡ぎます。心臓が張り裂けそうでした。でも、これが彼の望みなら。彼が「冷徹公爵」であることを望むなら、私は身を引くのが正解なのです。あの『観察日記』に書かれていた「彼女の純白は眩しすぎる」という言葉が、私の背中を押します。私が離れることこそが、彼の呪縛を解く唯一の方法なのだと。
「この離縁状に署名を。そうすれば私は二度と、貴方の前に現れません」
私は机の上の封筒を、彼の方へ滑らせました。テオドール様は、その封筒をじっと凝視しました。まるで、それが触れれば爆発する危険物か何かであるかのように。やがて、彼は震える手で封筒を開け、中から書類を取り出しました。
そこに記された私の署名を見た瞬間――
部屋の温度が、氷点下に下がりました。窓ガラスがガタガタと音を立てて震え始めます。
「……誰が」
低い、地鳴りのような声。次の瞬間、ビリビリと紙を引き裂く音が響き渡りました。
「誰が、別れると言ったあああああっ!!!」
「きゃあっ!?」
テオドール様は乱暴かつ執拗に、離縁状を細かい紙片に千切りました。紙吹雪のように舞い散る白い紙片の中で、彼はバンッと机を叩きつけて立ち上がります。その瞳は、冷徹どころか、血走った激情に燃えていました。整えられた銀髪が乱れ、余裕など微塵もありません。
「な、何をなさるのですか! 貴方が私を拒絶したのではないですか! 『忘れてくれ』と、あんなにも冷たく……!」
「あれは……あれは、私の臆病な保身だ!!」
テオドール様は机を乗り越えんばかりの勢いで叫びました。いつも冷静沈着な彼が、髪を振り乱し、必死の形相で私を見ています。
「記憶が戻って、怖くなったんだ! 記憶を失っていた間の私が、あまりにも無防備に君を愛していたから! 理性のタガが外れて、君に溺れていた自分が恥ずかしかった! 何より、また私の魔力が君を傷つけるのが怖くて、距離を置こうと……かっこつけただけだ!!」
「え……?」
「だが、離縁だと!? ふざけるな! 記憶が戻ったからといって、君への愛が消えるわけがないだろう!!」
彼は大股で私に歩み寄ると、私の肩をガシリと掴みました。その手は熱く、微かに震えていました。至近距離で見つめる彼の瞳には、涙さえ浮かんでいるように見えます。
「むしろ逆だ……! あの数日間、君と過ごした甘い記憶が、私の脳裏に焼き付いて離れない! 君の笑顔も、体温も、私の名を呼ぶ声も! それを知ってしまった今、以前のような他人行儀な関係に戻れるはずがないだろう!」
彼の言葉は、もはや貴族の話し方ではありませんでした。ただの一人の男としての、剥き出しの本音。私は呆然として、彼を見上げました。
「で、では……昨日の冷たい態度は、演技だったのですか?」
「そうだ! 嫌われたくなくて、必死に『いつもの俺』を演じようとした! だが失敗だ! 君を失うくらいなら、プライドも理性もドブに捨ててやる!」
テオドール様は私の体を強く抱きしめました。骨が軋むほどの強さ。けれど、そこには痛いほどの愛おしさが込められていました。私の胸に顔を埋め、彼は懺悔するように呟きます。
「……ずっと、好きだったんだ。君と結婚したあの日から、一目惚れだった」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れ出しました。あの『観察日記』は、本物だったのです。彼は冷酷なのではなく、ただただ不器用で、私のことが好きすぎて拗らせていただけだったのです。私が勝手に彼を「冷徹公爵」というキャラクター枠に押し込め、彼自身の叫びを聞こうとしなかっただけだったのです。
「アリアンナ、行かないでくれ。君なしでは、私はもう息もできない」
「テオドール様……」
「これからは、もう我慢しない。君が引くほど愛させてくれ……愛している」
彼の顔が近づき、熱い唇が私の唇に重なりました。それは、契約のキスでも、記憶喪失のハプニングでもない。真実の愛の口づけでした。
私の脳内で、ファンファーレが鳴り響きます。待って。これ、原作崩壊どころの騒ぎではありません。「冷徹公爵」という設定は完全に消滅しました。代わりに爆誕したのは、「重度の愛妻家(ヤンデレ予備軍)」という新属性です。本来の推しの設定とは違います。明らかに違います。ですが――
(解釈違いです……でも、最高に幸せ!!)
私は彼の首に腕を回し、精一杯の愛を込めてキスを返しました。
「……覚悟してくださいね、あなた。私、一度捕まったら逃げませんから」
「望むところだ。一生、この腕の中に閉じ込めてやる」
彼は獰猛に笑いました。その笑顔は、かつての天使のような微笑みとも、冷徹な仮面とも違う、とびきり男らしくてセクシーなものでした。
◇ ◇ ◇
それから数ヶ月後。
「アリアンナ、あーん」
「……旦那様、使用人が見ております」
「見せつけているんだ。ほら、口を開けて」
ハインリヒ公爵邸の庭園では、今日も甘ったるい光景が繰り広げられていました。テオドール様は公務中以外、片時も私から離れようとしません。『観察日記』は堂々と『愛妻日記』にタイトルを変え、私の可愛さを日々更新し続けています。なんと「その30」まで冊数が増えました。
聖女カミラ? 彼女は隣国の王子と婚約したそうです。「あんな怖い旦那様より、優しい王子様の方がいいです」と置手紙が残されていたとか。どうぞお幸せに。私たちも幸せですので。
私はテオドール様に膝枕をされながら、澄み渡る青空を見上げました。原作とは何もかも違う結末。けれど、この温もりこそが、私たちが選び取った現実です。
「愛しているよ、私の女神」
「……はいはい。私も愛していますよ、私の最推し様」
解釈違い上等。原作崩壊なんのその。文句があるなら、かかってこい。これは前世に読んでいた小説じゃなくて、他ならぬ私自身の物語。
テオドール公爵とその夫人アリアンナの、これからの人生にご期待ください!




