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第六章:卒業の予感



 一九七五年の春、私は中学三年生になった。

 校庭の桜は例年通りに見事な花を咲かせていたけれど、それを見上げる私の視界は、冬を越える前よりもさらに低くなっていた。

 

 車椅子の背もたれに体を預けていないと、自分の上半身さえ支えきれない時がある。指先の感覚も、まるで薄い手袋をはめているかのように、少しずつ、けれど確実に遠のいていく。

 

 「サッちゃん、今日もお花見しながら帰ろうか。風が気持ちいいよ」

 

 和子の声は変わらず明るい。

 けれど、車椅子を押す彼女の手に、以前よりも力がこもっているのを私は感じていた。

 私の体が重くなっているのではない。

 重力に逆らう力を失いつつある私の体を、彼女は自らの体温で支えようとしてくれているのだ。

 

 「……和子。私、三学期までちゃんと学校に来られるかな」

 

 ふと漏らした言葉が、桜の舞う午後の空気に溶けていく。

 

 「何を言ってるの。卒業式には、私が車椅子をピカピカに磨いて、一番いい場所で出席するんだから。約束だよ」

 

 和子は無理に笑って、私の肩をポンと叩いた。

 けれど、その掌を通して伝わってきたのは、彼女の指先の微かな震えだった。

 

 放課後の教室に戻ると、高木先生が教壇で何やら難しい顔をして書類を見つめていた。私たちの姿を見つけると、先生はいつもの笑みを浮かべたけれど、その瞳の奥には、隠しきれない沈痛な影が揺らめいていた。




 教室の入り口で、私は自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。

 

 以前のように、和子の手を借りずに自力でハンドリムを回そうとしたけれど、右腕が鉛のように重くて上がらない。車輪に指を添えることさえ、今の私には途方もない重労働だった。

 

 「サッちゃん、無理しないで。今日は私が、特等席までエスコートする番なんだから」

 

 和子が明るく笑って、私の腕をそっと支える。

 彼女の細い指先が私の袖に触れるたび、私は自分が「動くもの」から「運ばれるもの」へと変わってしまったことを突きつけられるようだった。

 

 「……ごめんね、和子。私、もう自分の力じゃ一歩も進めないみたい」

 

 「そんなことないよ。サッちゃんの心は、誰よりも先に進んでるじゃない。……ほら、高木先生が待ってるよ」

 

 高木先生は、教壇から降りて私たちの元へ歩み寄ってきた。

 その顔には、いつもの冗談を飛ばすような余裕はなく、どこか覚悟を決めたような厳かさがあった。

 

 「一ノ瀬、少し話をしよう。ご両親とも昨夜、お電話で相談したんだが……」

 

 先生は、私の目線の高さに合わせて腰を落とした。

 

 「これからの通学だが、毎日、和子ちゃんに押してもらうのは距離的にも限界がある。学校としては、特例でバスの乗り入れを許可し、君の家の車を校舎のすぐ脇までつけられるよう調整した。……少しでも、君の体の『貯金』を減らさないための策だ」

 

 先生の言う「貯金」という言葉が、私の胸に冷たく響いた。

 私の中に残された、動けるためのエネルギー。

 それはもう、底が見え始めているのだ。

 




 放課後の病院は、消毒液の匂いと、どこからか聞こえる低い機械音に包まれていた。

 診察室の奥にある検査室で、私はベッドの上に横たわり、天井の白い蛍光灯をじっと見つめていた。

 

 「少しチクッとするよ。頑張れるかな、幸子ちゃん」

 

 先生の言葉と同時に、細い針が私の太ももの筋肉に深く差し込まれた。

 筋電図検査。

 筋肉が動こうとする時の微弱な電気を測るためのものだと説明されたけれど、その実態は、容赦のない鋭い痛みが神経を直撃する過酷なものだった。

 

 「……っ!」

 

 私は声を押し殺し、ベッドのシーツを強く握りしめた。

 針が筋肉の奥を探るたびに、体の中で火花が散るような衝撃が走る。

 けれど、何よりも痛かったのは、その機械が描き出す波形が、私の命の灯火が細くなっていることを冷酷に証明しているという事実だった。

 

 検査の後、母さんに付き添われてリハビリ室へ向かうと、そこには屈強な体つきの理学療法士の先生が待っていた。

 

 「幸子ちゃん、膝がだいぶ固まってきているね。このまま放っておくと、くの字に曲がったまま動かなくなってしまう。今日からは、少し厳しく伸ばしていこうか」

 

 先生の手が、私の膝の裏に添えられる。

 進行性筋ジストロフィーの恐ろしさは、ただ筋肉が衰えるだけでなく、使わない関節が「拘縮こうしゅく」といって固まってしまうことにある。

 

 先生は、私の細くなった足を両手で掴むと、容赦なく押し広げた。

 

 「あ、が……っ、痛い、先生、痛いです……!」

 

 固まった筋が無理やり引き剥がされるような、激痛。

 私は母さんの腕に縋り付き、涙で視界を滲ませながら耐えた。

 曲がろうとする体を、無理やり真っ直ぐに矯正される。

 それはまるで、枯れかけた木の枝を強引に矯正されているような、虚しさと痛みの混ざり合った時間だった。

 

 「よし、次はこれを使おう。幸子ちゃん、久しぶりに『空』に近づいてみるか」

 

 理学療法士の先生が運んできたのは、傾斜台と呼ばれる大きな板状の装置だった。

 私はされるがままにその上に寝かされ、胸と腰、そして膝のすぐ上を太いベルトで厳重に固定された。まるで、どこか遠い場所へ運ばれる荷物になったような気分だった。

 

 「いいかい、ゆっくり上げるよ。気分が悪くなったらすぐに言いなさい」

 

 ウィーンという重々しい機械音とともに、私の視界がゆっくりと回り始めた。

 水平だった世界が、少しずつ、垂直へと形を変えていく。

 自分の体重が、久しぶりに足の裏へと、じわりとかかってくるのを感じた。

 

 「……あ」

 

 台が直立に近い角度で止まったとき、私は息を呑んだ。

 車椅子の低さに慣れきっていた私の目に飛び込んできたのは、窓の外に広がる、遮るもののないオレンジ色の夕焼けだった。

 

 「立ってる……。お母さん、私、立ってるよ」

 

 ベルトに支えられているだけの、偽りの直立。

 けれど、自分の足の裏がしっかりと地面に触れ、みんなと同じ高さから世界を見渡せる。

 そのことが、たまらなく誇らしく、そして涙が出るほどに懐かしかった。

 

 「そうだね、幸子。立派に立ってるよ」

 

 傍らで私の手を握る母さんの瞳も、夕日に濡れて光っていた。

 膝の裏には、先ほどのリハビリの痛みが鈍く残っている。

 けれど、この視界を取り戻すためなら、どんな激痛にだって耐えられると思った。

 

 私は、高い位置にある窓硝子の向こう側を見つめた。

 今の私なら、あの雲に手が届くかもしれない。

 そんな根拠のない希望が、麻痺しかけた私の全身を、一瞬だけ熱く貫いた。

 



 病院での過酷なリハビリを終え、母さんの運転する車で家に戻ると、玄関先で和子が待っていた。

 彼女は私の顔を見るなり、膝の上に置かれた私の手に、自分の温かい手を重ねた。

 

 「サッちゃん、今日のリハビリも……大変だった?」

 

 和子の問いかけに、私は小さく頷いた。

 膝を無理やり伸ばされた痛みがまだ芯に残っていて、声を出そうとすると唇が震えてしまう。

 けれど、傾斜台の上で味わったあの視界の高さが、今も網膜に焼き付いて離れなかった。

 

 「和子……私、わがままかな。もう一度だけ、自分の足で歩きたいの」

 

 「サッちゃん?」

 

 「車椅子じゃなくて、自分の足で。学校のあの長い廊下を、和子と一緒に歩いて教室に入りたい。それができたら……私、もう何もいらないくらい」

 

 それは、進行していく病魔に抗う、無謀な、けれど切実な願いだった。

 今の私の足は、装具という重い鉄の支えがあっても、十歩と進めないかもしれない。

 それでも、誰かに運ばれるのではなく、自分の意志で一歩を踏み出したかった。

 

 和子はしばらく黙って、夕闇に沈みゆく私の指を強く握りしめた。

 彼女の瞳には、迷いよりも先に、深い決意の光が宿っていた。

 

 「わがままなんかじゃないよ。……やろう。サッちゃんが歩きたいなら、私が支える。倒れそうになったら、私が全部受け止めるから」

 

 「……ありがとう、和子」

 

 「その代わり、約束して。学校での練習、先生たちに内緒で私が一緒に付き添うから。絶対に、二人で歩こうね」

 

 和子の言葉は、冷えかけた私の心に灯をともした。

 その日から、放課後の誰もいない廊下で、和子と私の「秘密の練習」が始まった。

 


 放課後の校舎は、まるで時が止まったように静まり返っていた。

 オレンジ色の夕日が、長い廊下の端から端までを、滑らかな琥珀色の道のように照らし出している。

 

 私は車椅子から、ゆっくりと、震える身体を浮かせた。

 重い金属の装具がカチンと音を立て、私の膝を無理やり真っ直ぐに固定する。

 

 「……っ、ふぅ……」

 

 自分の体重が、リハビリで伸ばしたばかりの膝裏に、鋭い痛みとなって突き刺さる。

 けれど、右側には和子の確かな肩があった。彼女は私の腰をしっかりと支え、自分の一部であるかのように私を支え持っている。

 

 「大丈夫、サッちゃん。ゆっくりでいいよ。私がここにいるから」

 

 和子の鼓動が、重なった肩を通して伝わってくる。

 私は、左手で廊下の手すりを、右手で和子の肩を強く握りしめた。

 

 「……いち、に……」

 

 右足が、ゆっくりと宙に浮く。

 鉛を吊るしたような重みに耐えながら、私はそれを前へと踏み出した。

 続いて、左足。装具が廊下の板張りを叩く乾いた音が、静かな空間に響き渡る。

 

 一歩、また一歩。

 車椅子に乗っていた時には決して味わえなかった、自分の重心が前へ、前へと移動していく感覚。

 地面を「踏みしめる」という、生きている者だけに許された神聖なリズムが、私の身体を熱く満たしていく。

 

 「歩いてる……私、歩いてるよ、和子」

 

 「うん、歩いてる。すごいよ、サッちゃん!」

 

 和子の声が、歓喜に震えていた。

 たった数メートルの、教室のドアまでの道のり。

 健康な人なら数秒で通り過ぎるその距離を、私たちは永遠のような時間をかけて、共に進んだ。

 窓の外の夕日が、私たちの重なり合う長い影を、廊下の突き当たりまで伸ばしている。

 

 それは、失われていく命が放った、最後の一閃のような輝きだった。

 


この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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