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第五章:共鳴の残響


 一九七四年の秋は、冷たい雨とともにやってきた。

 夏を越えるたびに、私の体からは何かが少しずつ、確実に削り取られていくような感覚がある。

 朝、布団から起き上がるだけで、全身の関節が錆びついた鉄格子のように重く、軋む。

 

 「サッちゃん、今日はお父さんが車で送っていくって」

 

 母さんの声に、私は黙って頷いた。

 父さんが昨夜、庭で自転車のベルトを外している音が聞こえていた。

 もう、私の足にはペダルを回す力さえ残っていないことを、家族の誰もが口に出さずに共有していた。

 

 けれど、その日の教室は、体の痛み以上に冷ややかな空気に満ちていた。

 一階の教室に移動してからの生活は快適だったはずなのに、何かが、目に見えない歯車が狂い始めている。

 

 「……ない」

 

 一時間目の授業が始まる前、私はカバンの中を何度も探った。

 昨日までそこにあったはずの、父さんが買ってくれたあのスケッチブックが見当たらないのだ。

 

 「どうしたの、サッちゃん」

 

 和子が心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

 「……スケッチブックが、ないの。昨日の帰り、確かにここに入れたのに」

 

 私は震える指先で、机の引き出しの奥まで手を入れた。

 けれど、手に触れるのは冷たい木肌だけだった。

 あの中には、屋上で見た空も、和子の笑顔も、私の拙いけれど懸命な「生」の証が全て詰まっているのに。

 

 ふと視線を感じて顔を上げると、教室の隅で数人の女子生徒がこちらを見て、ひそひそと笑いながら目を逸らした。

 窓の外では、秋の長雨が校庭の砂を黒く染め、私の心に

暗い影を落としていた。 




 放課後、人影のまばらになった廊下を、和子と二人で縋るようにして探して回った。

 和子は私の手を引きながら、一つひとつの教室の隅を覗き込み、本来なら私が一人で行くはずのない図書室への通路の裏まで、何度も足を運んでくれた。

 

 「サッちゃん、大丈夫。きっとどこかに置き忘れただけだよ。私が絶対に見つけてあげるから」

 

 彼女の励ますような囁きは、今の私にはあまりに眩しく、そして痛かった。

 和子の純粋な善意の裏側で、私はあざ笑うようなあの視線を思い出していた。

 一階へ教室が移ったことを、誰もが心から歓迎していたわけではないのだ。

 「特別扱い」に対する澱のような感情が、誰かの心に芽生えていたとしても不思議ではなかった。

 

 「……待って。和子、あそこ」

 

 中庭に面したゴミ集積所の横。雨上がりの湿った土の上に、見覚えのある白い塊が落ちていた。

 和子が駆け寄り、それを拾い上げる。

 

 「……そんな……ひどい」

 

 和子の手が小さく震えていた。

 差し出されたスケッチブックは、雨水を吸ってぶよぶよに膨らみ、表紙には泥靴で踏みつけられたような黒い跡が残っていた。

 私が何度も色を重ねた、あの碧い空のページは、無残にも破り取られ、周囲の泥に溶け出している。

 

 「……ごめんね、和子。こんなもの、探させて……ごめんね」

 

 私は、泥に汚れたスケッチブックを奪うようにして抱きしめた。

 冷たい水の感触が、制服を通して胸に染みてくる。

 身体を動かせないことよりも、もっと残酷なものがこの世にはある。

 私の「心」の居場所さえ、誰かにとってはゴミ同然に扱われるという現実。

 

 私は泣かなかった。ただ、抱きしめたスケッチブックの重みが、今の自分の命の重さと重なって、ひどく虚しく感じられた。

 



 翌朝、私はどうしても布団から起き上がることができなかった。

 泥を吸ったスケッチブックの重みが、そのまま私の心臓を押し潰しているようだった。

 

 「幸子、高木先生が来られたわよ」

 

 お昼過ぎ、母さんがそっと部屋のドアを開けた。

 入ってきたのは、いつもの快活さを少し潜めた高木先生だった。

 先生は私の枕元に椅子を引くと、使い古された鞄から、一冊の新しいスケッチブックを取り出した。

 

 「……一ノ瀬。和子から聞いたよ」

 

 先生の声は、静かに私の胸の奥へ染み込んできた。

 

 「悔しいだろう。だがな、君の描いたあの空を、泥で汚すことなんて誰にもできないんだ。それはもう、君の中に、そしてそれを見た俺たちの心の中に刻まれているからな」

 

 先生が差し出したのは、私が以前使っていたものよりも一回り大きく、手にしっくりと馴染む深い茶色の革張りのスケッチブックだった。

 

 「これは、僕からの『投資』だ。今の君には、もっと広い空が必要だと思ったからな」

 

 「先生……でも私、もう描くのが怖いです。また、あんな風にされたら……」

 

 「一ノ瀬、いいか。表現するということは、自分をさらすということだ。時には理解されないこともあるし、土足で踏みにじられることもある。だがな、そこで筆を置いたら、君を傷つけた人間の思い通りになってしまう」

 

 先生は、力強く私の手を握った。

 その手の温もりは、昨日感じた雨の冷たさを、少しずつ溶かしていくようだった。

 

 「立ち止まってもいい。だが、諦めるな。君には、君にしか見えない空を描き続ける義務があるんだ」

 

 私は、新しいスケッチブックの滑らかな革の表紙をなぞった。

 革の柔らかな感触が、生きている実感を指先に伝えてくる。

 私はこの真っさらな白を、もう一度、私の「碧」で染めてみようと思った。

 




 数日後、私は先生からもらった革張りのスケッチブックを抱えて、久しぶりに玄関に立った。

 けれど、そこにはいつも私を待っていた、あの父さんの細工が施された自転車の姿はなかった。

 代わりに置かれていたのは、鈍い銀色の光を放つ、冷たい鉄の椅子。

 

 車椅子、だった。

 

 「……幸子。お父さんとお母さんで話し合って、決めたの。もう、無理をして転ぶのは見ていられないわ」

 

 母さんの声は、私を傷つけないようにと細心の注意を払って選ばれたものだった。

 傍らで、父さんは黙って車椅子のタイヤの空気圧を確認している。

 その背中は、自転車を直していたあの夜よりも、ずっと小さく見えた。

 

 私は、その銀色の椅子に視線を落とした。

 これに乗るということは、もう二度と、自分の足で大地を蹴ることが

できないと認めることだ。

 私は「普通」という名の岸辺から、いよいよ切り離されて、深い孤独の海へと漕ぎ出そうとしている。

 

 「……これに乗ったら、もう私は、みんなと同じようには歩けないんだね」

 

 「……幸子。これは、お前の自由を奪うものじゃない。お前を、もっと遠くへ連れて行ってくれるためのものだ」

 

 父さんが、低く、けれど力強い声で言った。

 父さんの大きな手が私の肩に置かれる。

 その温もりは、冷たい鉄の椅子の温度を、少しだけ和らげてくれるようだった。

 

 私は、震える手で車椅子の肘掛けを掴んだ。

 ひんやりとした感触が手のひらに伝わる。

 私はゆっくりと、自分の運命を受け入れるように、その座面に身を預けた。

 


 父さんの運転する車の助手席から、私は校門の前に立つ和子の姿を見つけた。

 父さんが車を止め、トランクから車椅子を下ろす。

 ガチャン、という金属の乾いた音が、静かな朝の空気に響いた。

 

 「サッちゃん……!」

 

 和子が駆け寄ってくる。

 彼女の視線が、私の腰から下の銀色のフレームに一瞬だけ目が止まったのを、私は見逃さなかった。

 けれど、彼女はすぐにいつもの眩しい笑顔を作って、車椅子の背後に回った。

 

 「すごい、かっこいいね! これなら、私が押してあげればどこまででも行けるよ」

 

 「……和子。重くない?」

 

 「全然! サッちゃんは羽みたいに軽いんだから」

 

 和子の明るい声に救われながら、私は校庭へと進んだ。

 けれど、教室へ向かう廊下で、私は息が止まりそうになった。

 すれ違う生徒たちが、一様に足を止め、私の足元を見てからひそひそと顔を見合わせる。

 

 「見て、車椅子だよ……」


 「やっぱり、もう歩けないんだな」

 

 突き刺さるような好奇の視線。

 それは、泥を塗られたスケッチブックよりも冷たく私の心を抉った。

 私は反射的に、膝の上に置いた革張りのスケッチブックを強く抱きしめた。

 

 視界が、今までよりもずっと低くなっている。

 みんなの腰のあたりしか見えないこの高さから見上げると、校舎の天井は果てしなく高く、威圧的に感じられた。

 

 けれど、和子が押してくれる車椅子のタイヤが、廊下を転がるたびに伝わってくる微かな振動。

 それは、私の止まりかけていた時間が、新しい形で動き出した鼓動のようでもあった。

 

 教室の入り口で、私は一度だけ和子の手を止めてもらった。

 

 「……和子、ここでいい。ここからは、自分でいく」

 

 「サッちゃん?」

 

 和子の戸惑う声を背に、私は車椅子の横にある大きな車輪――ハンドリムに両手を添えた。

 ひんやりとした金属の感触が、掌にぴたりと吸い付く。

 力を込めて押し出すと、車椅子は滑らかに、けれど確かな自重を伴って教室の床を転がり始めた。

 

 入り口付近にいたクラスメイトたちが、波が引くように道を空ける。

 

 「おはよう、一ノ瀬。新しい『足』の乗り心地はどうだ?」

 

 教壇に立っていた高木先生が、いつもと変わらない、拍子抜けするほど軽い調子で声をかけてくれた。

 

 「……少し、重いです。でも、視線が低くなった分、みんなの足元がよく見えます」

 

 私の言葉に、教室内がふっと和らいだ。

 高木先生は、手に持っていたチョークを置き、クラス全体を真っ直ぐに見渡した。

 

 「いいか、みんな。車椅子は、一ノ瀬の自由を奪うための箱じゃない。彼女がこれからも、この学び舎で、俺たちと一緒に過ごし続けるための『翼』なんだ。押してやる必要はない。だが、彼女が自分で車輪を回して進もうとするとき、その道を塞がないでやってくれ」

 

 先生の言葉は、私の心を縛っていた見えない鎖を、一つずつ解いていくようだった。

 

 私は自分の席まで、ゆっくりと車輪を回し続けた。

 腕には確かな疲労が溜まっていく。

 けれど、自分で進んでいるというその実感は、泥に汚れたあの日の絶望を、少しずつ過去のものへと押し流してくれた。

 

 膝の上には、革張りのスケッチブック。

 低くなったこの場所からだからこそ描ける、新しい空の色があるかもしれない。私はそう、自分に言い聞かせた。

 


 車椅子での生活は、思っていたよりもずっと腕の力を必要とした。

 一日の終わりには、肩から指先までが鉛のように重くなる。

 けれど、放課後の誰もいない教室で、私は不思議な高揚感の中にいた。

 

 新しい革張りのスケッチブックを開く。

 窓の外には、秋の深まりを告げる鰯雲が、高い空を鱗のように覆っていた。

 低くなった私の視線からは、校庭のポプラの木が以前よりもずっと逞しく、空を突き刺す巨人のように見える。

 

 私は、新しい構図で筆を走らせた。

 

 「……やっぱり、サッちゃんの描く空は、他の人とは違うね」

 

 背後から、和子の穏やかな声がした。

 彼女は私の肩越しに、描きかけのスケッチをじっと見つめている。

 

 「和子。驚かさないでよ」

 

 「ごめんね。あまりに綺麗だったから。……ねえ、サッちゃん。あの、泥で汚されちゃった前のスケッチブックのことなんだけど」

 

 和子が、少しだけ声を潜めて言った。

 私は筆を止めた。あの無残な姿を思い出すと、今でも胸の奥がちくりと痛む。

 

 「実はね、あの破り取られて泥だらけだったページ、私、全部拾って乾かしておいたんだ」

 

 「……えっ?」

 

 私は驚いて和子の顔を見た。

 

 「泥を落として、アイロンをかけて……。そりゃあ、元通りとはいかないけど。でも、あそこに描かれた色は、全然消えてなかったよ。サッちゃんが一生懸命描いた碧、泥を被っても、すごく光ってた」

 

 和子はカバンの中から、茶色の角封筒を取り出した。

 その中には、端がボロボロになり、土の跡が薄く残った、けれど確かに私の魂が宿っている「あの日の空」が収められていた。

 


 和子が差し出してくれた、かつての「碧」を、私は震える指先で受け取った。

 アイロンの熱で少し波打った紙面には、確かにあの屋上で見た空の色が、泥の染みに負けることなく静かに息づいていた。

 

 私はそれを、新しい革張りのスケッチブックの真っ白な最初のページに、そっと並べて置いてみた。

 

 過去の痛みと、未来への予感。

 二つの景色を交互に見つめているうちに、私の胸の奥で、静かな、けれど熱い火が灯るのを感じた。

 進行性筋ジストロフィー。

 私の体は、これからも少しずつ自由を奪われ、最後には動かなくなる。

 それはもう、避けられない運命なのかもしれない。

 

 けれど、この紙の上に落とした色は、私が死んでも、誰かが踏みつけても、消えることはない。和子が守ってくれたこの一枚が、その証明だった。

 

 「……和子。私、決めたよ」

 

 「何を?」

 

 「今年の文化祭の作品。私、今までで一番大きな空を描きたい。小さなスケッチブックの中だけじゃなくて、もっと、みんなを包み込むような大きな、大きな空」

 

 和子は目を見開いて、それから本当に嬉しそうに私の手をとった。

 

 「いいよ! サッちゃんが描くなら、私、どんなに大きなキャンバスだって運んでくるよ。絵の具だって、筆だって、私が全部用意する!」

 

 和子の手のぬくもりを感じながら、私は確信していた。

 車椅子という低い視線を手に入れたからこそ、私には、他の誰にも見えない「空の深さ」が描けるはずだ。

 

 私は、新しい革の表紙に指を添え、深く息を吸い込んだ。

 


 文化祭に向けた大作の準備は、高木先生の計らいで、放課後の一階教室の一角を借りて行われることになった。

 

 「一ノ瀬、これが君の戦場だ」

 

 先生が用意してくれたのは、何枚もの模造紙を繋ぎ合わせた、畳二畳分もある巨大なキャンバスだった。

 それを教室の壁に低く貼り、私の車椅子の高さでも筆が届くように調整してくれる。

 

 和子と美智子も、放課後の部活動を早めに切り上げて手伝いに来てくれた。

 

 「サッちゃん、水入れ持ってきたよ!」


 「一ノ瀬さん、絵の具のチューブ、私が全部開けておいたからね」

 

 二人は、私の「腕」となり「足」となって、教室中を立ち働いてくれる。

 私は、車椅子のブレーキを固定し、一呼吸置いてから大作に挑んだ。

 これほど大きな面積を塗るには、指先だけの力では足りない。

 肩を回し、背筋の僅かな余力を絞り出すようにして、私は刷毛を動かした。

 

 青、碧、群青――。

 いくつもの青が混ざり合い、模造紙の上に「奥行き」が生まれていく。

 腕がすぐに疲れ、額から大粒の汗が流れ落ちる。

 そのたびに和子がタオルで拭ってくれる。

 

 「……苦しいけど、楽しい。私、今、本当に生きている気がする」

 

 私が呟くと、美智子が少し目を潤ませながら微笑んだ。

 

 「一ノ瀬さんが描いている姿、なんだか本当に翼を広げているみたい。教室の壁が、どんどん消えていくみたいだよ」

 

 私は、高木先生から贈られたあの革張りのスケッチブックに描き溜めた習作を何度も見返しながら、巨大な空の中に、小さな「光の粒」を散りばめていった。

 かつて父が贈ってくれた最初のスケッチブックが私の「心の居場所」を作ってくれたのだとしたら、この革張りの一冊は、私を広い世界へと連れ出す「羅針盤」だった。

 それは、私の命が燃える音を、色に変えていく作業だった。

 


 文化祭の前日、最後の一筆を置いて、私はゆっくりと車輪を後ろへ回した。

 

 「……できた」

 

 壁一面に広がったのは、かつて屋上から見た、あの無限に続く碧い空だった。

 父さんから貰った最初のスケッチブック。

 あの日、泥にまみれ、引き裂かれたあのページに宿っていた情熱は、高木先生から贈られたこの革張りのスケッチブックの中で、より深く、より強固なものへと生まれ変わっていた。

 

 「サッちゃん……すごい。空が、本当にここにあるみたい」

 

 隣で立っていた和子が、祈るように両手を胸の前で合わせ、言葉を失っていた。

 窓から差し込む秋の夕日が、完成したばかりの絵を黄金色に染め上げていく。

 同時に、私の乗る車椅子の銀色のフレームも、鋭く、そして神々しく輝きを放った。

 

 かつては、この鉄の椅子が私の自由を奪う檻だと思っていた。

 けれど、今は違う。

 車椅子という低い視点に降り立ったからこそ、私は見上げることの尊さを知り、誰よりも切実に「空の深さ」を描くことができたのだ。

 

 私は、汚れを拭い去った表紙をそっと撫で、その下に大切に挟み込んだ「あの日の泥の残る碧いページ」の感触を確かめた。

 父がくれた優しさと、先生がくれた勇気。その両方が、今の私を支えている。

 

 「和子。私ね、病気になったことを『運命』だなんて、まだ完全には受け入れられないよ。……でも、この空を描けたことは、私が私であるための、たった一つの誇りなんだと思う」

 

 廊下からは準備を終えた生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。

 みんなの「普通」の青春の中に、私は私の「命」の色を、はっきりと刻み込んだ。

 

 「さあ、帰ろう、サッちゃん。明日はみんなに、この空を届けようね」

 

 和子が後ろから、慈しむように車椅子を押し出した。

 車輪が回るたびに、明日という新しい風が、私の頬を静かに撫でていった。

 

この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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