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第四章:階段の壁


 進級という響きは、普通なら成長を祝う晴れやかなもののはずだ。

 けれど、二年生になった私にとって、それは残酷な宣告でもあった。

 一九七四年の四月。貼り出されたクラス名簿を確認するよりも先に、私は校舎の構造を思い浮かべて、絶望に近い溜息を吐いた。

 

 二年生の教室は、全て二階にある。

 

「サッちゃん、大丈夫。私たちがついてるから、心配しないで」

 

 和子が私の不安を察したように、強く腕を組んでくれた。

 クラス替えがあっても、和子と同じクラスになれたことだけが唯一の救いだった。けれど、目の前にそびえ立つコンクリートの階段は、今の私には切り立った崖のように見えた。

 

 一歩、右足を上げる。

 手すりを掴む指に全神経を集中させ、左足を引きずるようにして一段上へ運ぶ。

 一段。

 たった十数センチの高さが、今の私にはエベレストの頂上を目指すほどに遠い。

 

 「後ろから支えるね。幸子ちゃん、ゆっくりでいいよ」

 

 美智子も、私の腰のあたりを支えてくれる。

 一段上がるたびに、私の呼吸は荒くなり、太腿の筋肉は悲鳴を上げる。

 追い越していく下級生たちの、好奇と、そして微かな「邪魔だ」という苛立ちを含んだ視線が、背中に突き刺さる。

 

 「……ごめん。和子、美智子ちゃん……ごめんね」

 

 謝ることしかできない自分が情けなくて、視界がじわりと滲んだ。

 二階の廊下にようやく辿り着いたとき、私の膝は笑い、立っていることさえやっとの状態だった。

 


 教室の自分の席に辿り着くなり、私は倒れ込むように机に突っ伏した。

 肺が焼けるように熱く、喉の奥に鉄の味がする。ただ階段を一段上がっただけなのに、私の全身はマラソンを終えた後のように激しく消耗していた。

 

 「サッちゃん、お水、飲む?」

 

 和子が心配そうに水筒を差し出してくれる。

 その時、廊下から聞き慣れた快活な足音が聞こえ、高木先生が教室に入ってきた。先生は、肩で息をする私と、それを見守る和子たちの姿を静かに見つめた後、教壇に立ってクラス全員を見渡した。

 

 「みんな、聞け。今年から二階での生活が始まるが、一ノ瀬の足の状態を考えて、いくつかクラスで協力してほしいことがある」

 

 先生の声に、ざわついていた教室内がしんと静まり返った。

 

 「移動教室の際、一ノ瀬はなるべく二階の教室に残って自習することを許可する。だが、どうしても参加が必要な授業や行事の時は、クラスで『サポート係』を回していこうと思う。誰か一人が負担になるのではなく、みんなで一ノ瀬の足になってやってほしいんだ」

 

 「サポート係」という言葉が、私の胸にちくりと刺さった。

 特別扱いは、ありがたいと同時に、自分を「みんなとは違う異物」だと再認識させる。

 私は顔を上げられず、机の木目を見つめていた。

 

 「先生、私、やります! 和子ちゃんと一緒に!」

 

 沈黙を破ったのは、美智子の明るい声だった。

 それをきっかけに、「俺もやるよ」「掃除のとき代わってやる」と、いくつかの声が続いた。

 

 「……ありがとう。みんな、すみません」

 

 私は絞り出すようにそう言った。

 高木先生は小さく頷き、私に向かって微かにウィンクをした。それは「一人で背負うな」という、先生なりのエールだった。

 


 クラスのみんなが交代で支えてくれる。その事実は、冬の終わりの陽光のように私を温めてくれたけれど、同時に私の心の奥には「誰にも見せられない疲労」がおりのように溜まっていった。

 みんなの善意に甘え続けることに、私の魂が悲鳴を上げていたのかもしれない。


 三時間目が終わった後の、慌ただしい移動時間だった。

 理科室へ向かう人波の中で、和子が「サッちゃん、先に行ってて。私、理科のノート忘れたから取ってくる!」と教室へ引き返していった。

 

 「一ノ瀬さん、大丈夫? 肩、貸そうか?」

 

 近くにいた男子生徒が親切に声をかけてくれたけれど、私は「大丈夫。ゆっくり行くから、先に行って」と、不自然なほど明るく断ってしまった。

 一人になりたかった。誰の手も借りず、たった一段だけでも、自分の意志でこの「壁」を越えてみたかった。

 

 私は手すりにしがみつくようにして、空っぽになった階段の踊り場に立った。

 震える右足を上げる。けれど、私の筋肉はすでに限界を迎えていたらしい。

 靴の裏が、滑らかなコンクリートを捉えきれず、虚空を蹴った。

 

 「あっ――」

 

 視界が激しく揺れ、身体の芯がふわりと浮き上がる。

 嫌な音を立てて、私は数段下の踊り場へと転げ落ちた。

 幸い、途中で手すりの支柱に身体が引っかかり、下まで真っ逆さまに落ちることは免れた。けれど、冷たい床に打ち付けた腰と膝の鈍い痛みが、私の残酷な現実を突きつけてくる。

 

 「……っ……うう……」

 

 静まり返った階段の隅で、私は這いつくばったまま、泥のように動かない足を見つめた。

 頭上の窓から見える空はあんなに高く、澄んでいるのに、私の体は薄暗い校舎の底へ、底へと沈んでいくようだった。

 

 「サッちゃん!」

 

 階段の上から、和子の悲鳴のような声が降ってきた。

 乱れた足音とともに、彼女が私の元へ駆け寄ってくる。

 私は慌ててスカートを整え、手すりを掴んで無理やり上体を起こした。

 痛みが走るけれど、そんなことより、和子にこの無様な姿を見られることの方が耐えがたかった。

 

 「……和子、遅いよ。私、ちょっと座って休憩してただけだよ」

 

 精一杯の虚勢を張って、私は笑ってみせた。けれど、和子の瞳は誤魔化せなかった。彼女の視線は、私の制服の膝の部分に開いた小さな穴と、そこからじわりと滲み出した赤い血に釘付けになっていた。

 

 「休憩なんて嘘……。転んだんでしょ? どうして一人で行こうとしたの」

 

 和子の声が震えている。怒っているのか、悲しんでいるのか、そのどちらも混ざり合ったような、ひどく掠れた声だった。

 

 「だって、和子にばっかり迷惑かけられないよ。みんなにも、係まで作らせて……。私だけ、みんなの時間を奪ってるみたいで」

 

 「迷惑なんて、一度も思ったことない! サッちゃんが怪我する方が、私にはよっぽど辛いんだよ!」

 

 和子が私の肩を掴んで叫んだ。彼女の目から、大粒の涙が溢れ落ち、私の手の甲に熱く触れた。

 私は、言葉を失った。和子は、私の「足」を助けてくれているのではなく、私の「心」と一緒に歩こうとしてくれていたのだ。

 

 「ごめん……。ごめんね、和子」

 

 私は彼女の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

 踊り場の小さな窓から差し込む光が、私たちを静かに照らしていた。

 理科室へ向かうチャイムが遠くで鳴り響き、私たちの止まった時間を急かしているようだった。

 



 あの日、階段の踊り場で和子と泣き明かしたことは、二人だけの静かな秘密になった。

 けれど、膝の傷跡が癒えても、私の筋肉が元に戻ることはなかった。それどころか、季節が梅雨へと向かうにつれ、足の重みは日に日に増していった。

 

 翌週の放課後、和子に付き添われて、私は職員室の高木先生の元を訪ねた。

 

 「先生、相談があります」

 

 高木先生は、山積みになった答案用紙から顔を上げ、私たちの真剣な表情を見て、椅子を勧めてくれた。

 

 「階段のことだな。……一ノ瀬、正直に言ってくれ。今のままで、卒業まで続けられると思うか?」

 

 先生の問いは、私の胸の最も柔らかい場所を突いた。

 私は首を横に振った。和子の肩を借り、クラスのみんなに腰を支えてもらっても、二階への道のりはすでに限界を超えていた。

 

 「和子はどう思う?」

 

 先生が和子に視線を向けると、彼女は私の手をぎゅっと握りしめて答えた。

 

 「サッちゃんが、階段で怪我をするのが怖いです。でも、サッちゃんが教室に来られないのはもっと嫌です。……先生、何かいい方法はありませんか」

 

 高木先生はしばらく黙って、窓の外を眺めていた。それから、決心したように口を開いた。

 

 「学校側と交渉してみる。本当は学年ごとにフロアを分けるのが決まりだが、一ノ瀬のクラスだけ、一階の空き教室に移動できないか。あるいは、移動教室の授業を全て一階で行えるよう、時間割を調整してもらう」

 

 「そんなこと……できるんですか?」

 

 「簡単じゃない。だが、君たちがこうして自分たちの言葉で伝えに来てくれたんだ。教師として、その勇気に応えないわけにはいかないだろう」

 

 先生の言葉に、張り詰めていた心がふっと軽くなるのを感じた。

 帰り道、和子と並んで夕暮れの坂道を下りながら、私は何度も空を見上げた。

 



 一週間後、ホームルームの時間に高木先生が告げた決定は、私にとって奇跡のような知らせだった。

 

「来月から、我々二組は一階の旧多目的室へ移動する。一ノ瀬の足への負担を減らすためだ。学校側も、生徒の安全が第一だという判断を下してくれた」

 

 教室が一瞬、驚きの声に包まれた後、温かな拍手が沸き起こった。

 クラスメイトたちが私を見て、笑っている。


「やったな、サッちゃん!」


「一階なら休み時間もすぐに外に出られるね」

 

 誰一人として、自分たちが一階に下りることを「不便だ」とは言わなかった。

 特別扱いの重みに押し潰されそうになっていた私の心は、その純粋な優しさによって、ふわりと持ち上げられた。

 

 帰り道。父さんがベルトを付けてくれた自転車に跨り、和子の押しに合わせて校門を出る。

 一階へ移れる。それは、私がまだこの場所で、みんなと一緒に過ごしていいという許可証をもらったようなものだった。

 

 「和子、本当にありがとう。私、もう少し頑張れる気がするよ」

 

 「当たり前でしょ! 私たちは、ずっと一緒なんだから」

 

 和子の手が荷台を強く押すと、春から初夏へと移り変わる少し湿った風が、私の頬を力強く撫でていった。

 夕日に照らされた道は黄金色に輝き、遠くの家々からは夕餉ゆうげの支度の匂いが漂ってくる。

 

 自分の足がいつまで動くのか、それは誰にも分からない。

 けれど、こうして誰かの手を借りながらでも、進んでいける道がある。

 私は自転車のハンドルをしっかりと握り直し、流れる景色を瞳に焼き付けた。

 

 一九七四年の空は、昨日よりも少しだけ近く、そして優しく私を見守っているようだった。


この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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