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第三章:秘密のスケッチブック


 中学の生活にも、少しずつ慣れという名の膜が張り始めていた。

 相変わらず移動教室や体育の時間は、和子の肩を借りたり、高木先生が用意してくれた図書室の椅子で一人留守番をしたりすることが多かったけれど。

 私は、その空いた時間を使って、誰にも見せない「秘密」を育てていた。

 

 一九七三年のノートの隅や、父さんが買ってくれた上質のスケッチブック。

 そこに描かれるのは、私の動かない足の代わりに、縦横無尽に世界を駆け巡る「空の物語」だった。

 

 「サッちゃん、また描いてるの?」

 

 放課後、部活動へ向かう生徒たちの喧騒が遠のいた教室で、和子が私の手元を覗き込んだ。

 

 「……うん。今日の空は、なんだか少しだけ泣きそうな色をしていたから」

 

 私が描いていたのは、夕立の前のような、重く湿った紫色の雲だった。

 けれどその雲の切れ間からは、強烈な一筋の光が、まるで天から降ろされた梯子はしごのように地上へ向かって伸びている。

 

 「サッちゃんの描く空は、いつも生きてるみたい」

 

 和子はそう言って、私の隣の席に腰を下ろした。

 彼女は最近、バレーボール部に入った。

 練習で少し日焼けした肌が、窓からの夕映えに透けて、健康的な輝きを放っている。

 

 「和子、バレーボール、楽しい?」

 

 「うん! でも、アタックを打つときに高く跳ぶとね、一瞬だけ自分が鳥になったみたいに感じるんだよ。……あ、ごめん」

 

 和子が慌てて口を塞ぐ。

 彼女の優しさは、時折こうして小さなとげとなって、私と彼女の間の、決して越えられない壁を浮き彫りにした。

 

 「いいんだよ、和子。その『一瞬』を、今度詳しく教えて」

 

 私は努めて明るく笑って、和子の背中を部活動へと送り出した。

 一人になった教室は、急に広くなったように感じられ、西日が机の列に長い影を落としている。

 私は再び鉛筆を握り、紙の上に和子が言った「鳥のような一瞬」を探そうとした。

 けれど、私の想像力は、重力に縛られた自分の足首からどうしても離れることができない。

 

 「……跳ぶ、か」

 

 ぽつりと零した言葉が、静かな教室に吸い込まれていった。

 その時、廊下から革靴の足音が近づいてきて、扉が静かに開いた。

 

 「まだ残っていたのか、一ノ瀬」

 

 高木先生だった。肩にかけたカバンから、採点を終えたらしい試験用紙が少しだけ顔を出している。

 先生は私の手元のスケッチブックに目を留めると、感心したように、けれどどこか真剣な面持ちで私を見つめた。

 

 「一ノ瀬、君に一つ、提案があるんだ」

 

 先生は教壇に腰を下ろし、私と同じ高さに視線を合わせた。

 

 「六月に行われる写生大会のことなんだが……。君は、学校の敷地内ではなく、もっと自由な場所で描いてみないか?」

 

 「自由な、場所……?」

 

 「ああ。校舎の屋上だよ。本当は生徒だけでは立ち入り禁止なんだが、僕が付き添うという条件で、校長先生に許可をもらってきた」

 

 屋上。その言葉を聞いた瞬間、私の鼓動が少しだけ速くなった。

 遮るもののない、本当の空に一番近い場所。

 

 「君の描く空には、まだ何かが足りない。それはきっと、『高さ』の感覚だ。一度、上から世界を見下ろしてみるといい。君の翼は、そこにあるかもしれないぞ」

 


 写生大会の当日は、雲一つない快晴だった。

 校庭では同級生たちが思い思いの場所に画板を広げ、校舎や花壇を描き始めている。

 私は高木先生の後ろに付いて、普段は固く閉ざされている屋上への重い鉄の扉の前に立っていた。

 

 「さあ、着いたぞ。一ノ瀬、足元に気をつけて」

 

 先生が鍵を開け、扉を押し広げた瞬間、強い風が私の頬を叩いた。

 一歩、屋上へ踏み出す。

 そこには、これまで窓枠に切り取られた形でしか見てこなかった、本当の「世界」が広がっていた。

 

 「……すごい」

 

 思わず、小さな溜息が漏れた。

 視界を遮るものは何もない。コンクリートの平らな地面の向こうには、どこまでも続く住宅街の屋根の並びと、遠くで陽炎に揺れる工場の煙突。

 そして何より、頭上には吸い込まれそうなほど深い碧色の空が、巨大な天蓋のように私たちを包み込んでいた。

 

 「どうだ、一ノ瀬。ここからなら、鳥の気持ちが少しは分かるか?」

 

 先生の言葉に頷きながら、私はフェンスの近くまでゆっくりと歩いた。

 下を見下ろすと、校庭にいるみんなが豆粒のように小さく見える。

 あんなに怖かったみんなの視線も、ここからなら、ちっぽけな砂粒のように思えてくるから不思議だった。

 

 私は画板を抱え直し、一番高い場所を見上げた。

 太陽の光を浴びて、私の痩せた影が足元に短く落ちている。

 

 「先生、私……この空の『深さ』を描きたいです。青いだけじゃない、吸い込まれてしまいそうな、本当の空を」

 

 私は鉛筆を握り、真っ白な紙に最初の一線を引き始めた。

 私の足は重力に縛られているけれど、私の瞳だけは、今、この瞬間に自由を手に入れていた。

 


 陽光が画板の上で乱反射し、視界が白く滲む。

 私は何度も目を細めながら、碧の濃淡を重ねていった。

 この場所から見上げる空は、地上で見ていたものよりもずっと高く、そしてどこか、私を拒絶せずに招き入れてくれているような気がした。

 

 ふと、フェンス越しに下を覗き込むと、校庭のあちこちに色とりどりの画板が散らばっていた。

 同級生たちが、桜の木の下や百葉箱の横で、思い思いの景色を描いている。

 その中に、一際熱心に、けれど時折落ち着かなそうに周囲を見渡しているおかっぱ頭を見つけた。

 和子だ。

 

 彼女は自分の画板に向かっていたが、ふとした拍子に校舎の屋上を見上げた。

 

 目が合った。

 

 和子は一瞬、驚いたように目を見開いたけれど、すぐに私の姿を見つけて、満面の笑みを浮かべた。

 それから、自分の持っている筆を高く掲げ、指揮者のように大きく振り始めた。


 「サッちゃーん、頑張って!」


 声は届かなくても、彼女の全身がそう叫んでいるのが分かった。

 

 「一ノ瀬、いい友達を持ったな。彼女、さっきから何度も屋上を気にしていたぞ」

 

 背後で腕を組んでいた高木先生が、穏やかに言った。

 私は和子に筆を振り返し、それからまた、自分の手元に視線を戻した。

 スケッチブックの上には、先ほどまでの「沈んだ紫」ではない、光を孕んだ純粋な碧色が生まれていた。

 

 「先生……。あんなに遠くにいても、和子が笑っているのが分かります。上から見ると、みんな同じように一生懸命、今日という日を描いているんですね」

 

 私は、画板の隅に、小さく一羽の鳥を描き加えた。

 それはかつて校庭で見た、意志を持って空へ昇っていく紙飛行機のような、白くて鋭い翼を持っていた。

 


 写生大会が終わり、放課後の教室には回収を待つ画板が並べられた。

 普段、私の足元を遠巻きに眺めていた同級生たちが、掲示板の前に集まってざわついている。その中心にあるのは、高木先生が「参考作品」として一番目立つ場所に貼り出した、私の絵だった。

 

 「……これ、本当に一ノ瀬さんが描いたの?」


 「すごい。なんだか、吸い込まれそう」

 

 小さな、けれど確かな驚嘆の声が波のように広がっていく。

 誰かが私の歩き方を真似して笑ったり、可哀想だと同情したりする声は、そこにはなかった。

 みんな、私の「足」ではなく、私が描き出した「空」を見ていた。

 

 「サッちゃん、やったね! 屋上で描いてるの見えたとき、私、自分のことみたいにワクワクしちゃった!」

 

 和子が駆け寄ってきて、私の肩をぎゅっと抱きしめた。

 彼女の手には、少しだけ絵の具がついている。彼女が一生懸命描いたのは、きっと、いつか二人で行こうと約束した海の景色だろう。

 

 「和子が、あんなに元気に手を振ってくれたからだよ。あのとき、私、本当に空の中にいるみたいだったんだ」

 

 私は、照れくさくて視線を落とした。

 机に置かれた自分の手を見つめる。少しずつ力が入りにくくなって、時々震えることもあるこの指が、誰かの心を動かすものを生み出すことができた。

 その事実は、私にとって、どんな慰めの言葉よりも深く魂を震わせるものだった。

 

 「一ノ瀬、いい顔になったな」

 

 高木先生が、出席簿を脇に抱えて歩み寄ってきた。

 先生の瞳は、まるで私の未来に吹く新しい風を、すでに見通しているかのように優しく、そして力強かった。

 


 その日の夕食は、いつになく穏やかな空気に包まれていた。

 母さんが作った肉じゃがの甘い匂いが広がる中、私は学校での出来事を一つずつ、大切に言葉にして伝えた。

 屋上から見た空の広さ、和子の笑顔、そして高木先生が私の絵を掲示板に貼ってくれたこと。

 

 「そう、そんなに褒めていただいたの……」

 

 母さんは、箸を止めて私の顔をじっと見つめた。

 いつもなら「治るためにこれを飲みなさい」と漢方を差し出す母さんの瞳が、今はただ、娘の喜びを共有しようとする一人の母親のものに戻っていた。

 父さんは黙って味噌汁を啜っていたけれど、私が「先生に空の深さを感じると言われた」と話したとき、ふっと口角を上げたのを私は見逃さなかった。

 

 「……幸子。あのスケッチブック、もう使い切ったか?」

 

 父さんが珍しく自分から問いかけてきた。

 

 「ううん、まだ半分くらい。でも、今日でもっと描きたくなったよ。お父さん、買ってくれてありがとう。あれ、私の宝物なんだ」

 

 父さんは「そうか」とだけ短く言って、照れ隠しのように茶碗を置いた。

 かつて、私の足が動かなくなったとき、父さんは自転車を直し、母さんは薬を探した。

 二人の愛は、私の「体」を守ることに必死だった。

 けれど今日、私が持ち帰ったのは、私の「心」が自由に羽ばたいたという証だった。

 

 夜、自分の部屋で一人、月明かりの下でスケッチブックを撫でた。

 一九七三年の春は、私から「普通に歩く」という自由を奪ったけれど、その代わりに、誰にも奪われない「心の翼」を教えてくれた。

 

 窓の外では、夜の風が木々を揺らしている。

 私は、まだ真っ白なページに指を這わせながら、次に来る季節の空を想像した。

 


この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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