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第十七章:受け継がれる碧


 二〇一〇年代。

 時代はさらに加速し、世界はより透明で、均質な光に満たされていた。

 私は、自身の右手が完全に筆を握ることを拒むようになる少し前に、都会のアトリエをたたみ、故郷に近い海辺の街へと居を移した。


 そこにある小さなケアセンターの一角で、私は週に一度、絵画教室を開いている。

 参加者の多くは、人生の黄昏時を静かに過ごす高齢者たちだったが、その中に一人だけ、異質な静寂を纏った少年がいた。


 彼の名は、陽介。

 十四歳になる彼は、電動車椅子に深く身を沈め、動かなくなった自らの両手を膝の上で重ねていた。

 進行性筋ジストロフィー。

 その病名を聞いた瞬間、私の視界は一九七〇年代のあの病室へと、時間を飛び越えて引き戻された。


 「……描いたって、どうせ消えちゃうのに」


 陽介は、机の上に置かれた真っ白な画用紙を、拒絶するように見つめていた。

 かつての幸子がそうであったように、彼もまた、失われていく自由と、迫りくる運命の影に、心を固く閉ざしている。

 その瞳の奥にあるのは、世界への怒りではなく、深い、底なしの諦念だった。


 「陽介くん。この色はね、消えるためにあるんじゃないのよ」


 私は、かつて幸子から受け継いできた、あの蒼い絵の具を彼の前に置いた。

 私の右手は、もう細かな線を描くことはできない。

 震える手でパレットを支えながら、私は彼と同じ目線になるように腰を下ろした。


 「この『碧』はね、誰かがここで生きて、何かに憧れたっていう、消えない傷跡のようなものなの。あなたが今、見つめているその空の色を、一滴だけ、この紙に落としてみない?」


 陽介は、不機嫌そうに唇を噛んだ。

 けれど、その視線は、私が差し出した古い、穂先のすり減った筆に吸い寄せられていた。

 それは、幸子が使い込み、私が何十年も手入れを続けてきた、あの魂の欠片だった。



 「ほら、やっぱり無理なんだ。僕の手はもう、壊れてるんだよ!」


 陽介君が叫ぶと同時に、パレットが床に滑り落ち、鮮やかな濃藍インディゴの絵の具が、リノリウムの床に無惨な飛沫を上げた。

 彼は震える両手を自分の膝に叩きつけ、悔しさに顔を歪ませた。

 その絶望の深さは、かつて幸子が病室で声を押し殺して泣いていたあの夜と同じ、重く冷たい色をしていた。


 私は、汚れも厭わずその場に跪き、床に広がった絵の具を見つめた。


 「無理なんかじゃないわ。……見て、陽介君。この散らばった絵の具、まるで夜空に散らばった銀河みたい。綺麗じゃない?」


 「……和子さん、そんなの慰めだよ」


 「いいえ、本気よ。かつて私の親友も、今のあなたと同じように、手が動かなくなる恐怖と戦っていたわ。彼女はある時、筆を持つのを諦めたの。でもね、表現することを諦めたわけじゃなかった」


 私は、自分の汚れた人差し指にインディゴを掬い取り、陽介君の目の前に広がる真っ白な画用紙に、一筋の線を引いた。


 「彼女は筆を捨て、指で描いたの。筆という道具を失った代わりに、彼女は自分の肉体そのものを筆に変えた。その瞬間に生まれた色はね、どんな高価な筆で描くよりも、熱くて、生々しい命の色をしていたわ」


 私は陽介君の、こわばった右手をそっと取った。


 「道具に頼らなくていい。指が動かなければ、手のひらを使えばいい。腕が重ければ、私の肩を支えにすればいい。……陽介君、あなたの手が世界に触れたその跡こそが、あなたがここに生きているっていう、誰にも否定できない証明になるの」


 陽介君は、私の絵の具まみれの指と、自分の動かない指を交互に見つめた。

 静寂の中で、一九七〇年代のあの暑い夏の日の美術室の風が、再び私たちの間を吹き抜けた気がした。



 陽介君は、躊躇いながらも、私の手に導かれるようにして右手を伸ばした。

 指先が、まだ湿り気を帯びたインディゴの絵の具に触れる。

 冷たく、粘り気のあるその感触に、彼は一瞬びくりと肩を揺らしたが、やがて覚悟を決めたように、指の腹を画用紙に押し当てた。

 

 「……動かしてごらん。あなたの心のままに」

 

 私の言葉に背中を押され、彼の指がゆっくりと動き出す。

 それは、絵を「描く」というより、そこに溜まった感情を「這わせる」ような、重く、切実な軌跡だった。

 

 最初は怯えるように小さく震えていた指が、次第に熱を帯びていく。

 陽介君の瞳から、諦念という名の霧が晴れ、代わりに、かつての幸子が命の極限で見せていた、あの恐ろしいほど純粋な「意志」が宿り始めた。

 

 「あ……」

 

 彼が小さく声を漏らした。

 インディゴの中に、彼が自ら選び取った鮮やかなシアンと、一点のホワイトが混ざり合う。

 

 彼が描き出したのは、私が見慣れた「見上げる空」ではなかった。

 それは、深い海の底から光の射す水面を見上げたような、あるいは宇宙の深淵から新しい星が誕生する瞬間の光景のような――。

 

 形を超え、意味を超え、ただ「生きたい」という渇望だけが渦巻く、全く新しい「碧の渦」だった。

 

 「見て、和子さん。僕の指が……色になってる」

 

 陽介君の頬を、涙が伝い落ち、画用紙の上の碧に小さな染みを作った。

 その涙さえもが、絵の一部となって輝き始める。

 

 私は、震える右手を胸に当てた。

 私の役目は、幸子の代わりになることでも、過去を保存することでもなかったのだ。

 彼女が命を懸けて掴み取ったあの碧を、今、この少年の心に灯し、また新しい空へと解き放つこと。

 

 一九七〇年代の美術室から始まった長い長い旅が、今、この少年の指先で、一つの「奇跡」となって結実しようとしていた。

 


 陽介君の描いた『誕生』と名付けられた絵は、施設のロビーに飾られた。

 通りかかる人々が足を止め、そのうねるような碧の渦に見入っている。

 洗練された技術など何一つない。

 ただ、動かなくなる指を限界まで使い、魂を擦り付けるようにして残された色彩の塊が、見る者の胸を深く突き刺していた。

 

 「和子さん……僕、この病気になってから、ずっと地面ばっかり見てた」

 

 夕暮れのロビーで、陽介君は自分の絵を見上げながら、ぽつりと呟いた。

 

 「でも、指を動かして、あの碧を置いた時……一瞬だけ、身体が軽くなったんだ。車椅子も、重たい足も忘れて、あの色の向こう側へ突き抜けていけるような気がした。僕、もう一度だけ、空を飛びたい」

 

 彼の言葉には、死への恐怖を通り越した、表現者としての「覚悟」が滲んでいた。

 私は、彼の傍らに寄り添い、もう自由の利かない私の右手を彼の車椅子の手すりに重ねた。

 

 「陽介君、それが『描く』ということの魔法なのよ。肉体は閉じ込められても、心はどこへだって行ける。……幸子もね、最期までそう信じてた」

 

 私は、彼に贈る「最後の授業」として、一冊の古いスケッチブックを渡した。

 そこには、私が一九七〇年代から今日まで描き溜めてきた、ありとあらゆる空の記憶が詰まっている。

 

 「これからは、あなたがこの続きを描くのよ。私の見た空じゃなくて、あなたの身体の中で鳴っている、あなただけの碧を。……筆が持てなくなっても、指が動かなくなっても、あなたの瞳が光を捉えている限り、あなたは何度でも空を飛べる」

 

 陽介君は、震える手で重厚なスケッチブックを抱きしめた。

 それは、幸子から私へ、そして私から彼へと手渡される、終わりのない「命のバトン」だった。

 

 窓の外には、一九七〇年代に幸子が見上げたのと同じ、雄大な夕焼け空が広がっている。

 時代が移ろい、人々が入れ替わっても、空は常にそこにある。

 そして、その不変の碧に挑み続ける不自由な命たちの輝きもまた、永遠に受け継がれていくのだ。

 


 陽介君が入院したという知らせを受けたのは、木々が秋の気配を帯び始めた頃だった。

 病状の進行は無慈悲で、彼はもはや、あの大きな画用紙に指を走らせることさえ難しくなっていた。

 白い天井だけを見つめる日々。

 かつての幸子がそうであったように、彼の世界は再び、数メートル四方の無機質な空間へと収束しようとしていた。


 (このまま、彼の空を終わらせたくない)


 私は、美大生になったあの「車椅子の少女」――今では立派な映像作家となった彼女に連絡を取った。

 そして、かつての私の教え子たちや、天井画を描いた卒業生たちにも。

 二〇二〇年代の今だからこそできる、時空を超えた「空の贈り物」を届けるために。


 「……和子さん、これ、なに?」


 病室のベッドの上で、陽介君が微かに目を開けた。

 私は彼の枕元に、大型のモニターを設置した。そこには、リアルタイムで映し出される「今」の故郷の空があった。


 「陽介君、見て。これは、私がサッちゃんと過ごした、あの美術室の窓から見える空よ」


 かつての教え子が飛ばしたドローンのカメラが、ゆっくりと高度を上げていく。

 画面には、かつて私たちが駆け抜けた校庭、天井画を描いた体育館の屋根、そして幸子が最期まで憧れ続けた、あのどこまでも続く碧い水平線が映し出された。

 

 「……あぁ、広い……。世界って、こんなに広かったんだ」


 陽介君の瞳に、モニターから溢れる碧い光が反射する。

 一九七〇年代には、病室の窓という「額縁」に切り取られた空しかなかった。

 けれど今は、技術という翼が、彼の視線を雲の上へと、そして遥か彼方の未来へと連れていってくれる。


 「サッちゃんが見たかった景色よ、陽介君。……そして、あなたがこれから描き足していく空の続き」


 ドローンの映像は、沈みゆく夕陽を捉えた。

 黄金色に縁取られた雲の断層。

 それは、幸子が描き、私が守り、そして今、陽介君の魂を揺さぶっている、永遠に色褪せない「命のコンポジション」だった。



 モニターの中で、黄金色の残照がゆっくりと深い群青へと溶け込んでいく。

 陽介君は、瞬きも惜しむようにその光の移ろいを見つめていた。

 その横顔には、死と対峙する者の悲壮感ではなく、未知の旅路を前にした冒険者のような、静かな昂揚が漂っていた。


 「……和子さん、手が。僕の手を、貸して」


 かすれた、けれど確かな意志のこもった声。

 私は、絵の具のシミが染み付き、強張ってしまった右手を、彼の力ない掌の上にそっと重ねた。

 陽介君は、もう筆を持つことも、指を大きく動かすこともできない。

 けれど、彼は最後の力を振り絞るようにして、自分の人差し指を私の掌の上で滑らせた。


 それは、目に見える色ではない。けれど、私の肌を通じて、一筋の真っ直ぐな、天へと突き抜けるような「見えない線」が刻まれた。


 (あぁ……これは、幸子の……)


 かつて幸子が、言葉を失った病室で、視線だけで私に託したあの「命の叫び」。

 それが今、数十年という時を越え、陽介君の指先を通じて私の掌に還ってきたのだ。

 幸子の碧は、私の絵の中で生き続け、そして今、この少年の魂を震わせ、再び空へと還ろうとしている。


 「ありがとう、和子さん。……僕、もう怖くないよ。この碧の中に、僕も混ざりに行けるんだね」


 陽介君は満足そうに微笑み、ゆっくりと瞳を閉じた。

 その表情は、一九七〇年代のあの卒業式の日に、家族に見守られながら旅立った幸子のそれと、驚くほど重なっていた。


 私は、掌に残る微かな熱を、愛おしむように握りしめた。

 幸子の物語は、悲劇として終わったのではなかった。

 私の人生もまた、彼女の身代わりではなかった。

 私たちは、この「不自由な肉体」というキャンバスを共有し、たった一つの、壮大な  「碧の叙事詩」を書き継いできたのだ。


 病室の窓の外、本物の夜空には、数えきれないほどの星々が瞬き始めていた。

 その一つひとつが、かつてこの地上で必死に筆を走らせ、空を夢見た命たちの輝きのように見えた。


この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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