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第十四章:消費される魂


 空虚な称賛の渦から逃れるように、私は画廊の最奥へと歩を進めた。

 そこには、今回の個展の核となる『共鳴の碧』が、静かに、けれど圧倒的な密度で壁を占拠している。

 

 その絵の前に、小さな背中があった。

 金属質の光沢を放つ車椅子。そこに座り、食い入るようにキャンバスを見つめているのは、十代半ばほどの少女だった。

 

 「……この蒼、生きてる」

 

 少女が小さく呟いた。

 その声は、かつて幸子が美術室で漏らした溜息に驚くほど似ていた。

 私は、オーナーたちへの社交辞令で強張っていた表情を緩め、彼女の隣にそっと歩み寄った。

 

 「何か、見えた?」

 

 私が声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、病への諦めではなく、外の世界への強烈な渇望で満ちている。

 

 「この絵……。ただの空じゃないよね。誰かがここで、必死に息をしてる。真っ暗な夜の底から、誰かが私に向かって手を伸ばしてるみたい」

 

 少女は、自分の、少しだけ不自由そうに震える指先を、キャンバスの境界線へと近づけた。

 

 「私ね、自分に起きたことを『不幸』だと思ってた。でも、この碧を見てたら……この色になれるなら、このままでもいいのかなって、少しだけ思えたの。だって、こんなに綺麗な光は、きっと闇を知っている人にしか描けないから」

 

 胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。

 投資価値や美談の材料としてではなく、ただ一枚の絵として。

 私の指が刻んだ「命の震え」が、今、時を超えて一人の少女の孤独に触れた。

 

 「ありがとう。……私もね、その光を見つけるのに、すごく時間がかかったの」

 

 私は、彼女と同じ目線になるように腰を落とした。

 目の前の少女に、私は幸子の面影を重ねていたわけではない。

 彼女は彼女として、今、この場所で私の絵と対峙している。

 消費される物語など、どうでもよかった。

 私の絵が、たった一人の「誰か」を救う。

 それだけで、私がこの十年間、蒼い絵具に塗れて生きてきた意味は、十分すぎるほどにあった。

 


 「ねえ、和子さん。私にも、こんな光が描けるかな。……指が、あんまり上手く動かないんだけど」

 

 少女の震える手を見つめながら、私はかつての幸子の言葉を思い出していた。

 指が止まっても、魂は止まらない。

 私は彼女の細い指をそっと包み、静かに語りかけた。

 

 「描けるよ。……筆が動かすんじゃないの。あなたの心の中にある、誰にも奪えない『碧』を、そのまま紙に落とせばいい。技術なんて、そのあとからついてくるものだから」

 

 少女の瞳に、小さな火が灯った。

 その瞬間、背後から靴音が響き、画廊のオーナーが慇懃な笑みを浮かべて近づいてきた。

 その手には、残酷なほど鮮やかな「売約済み」の赤いシールが握られている。

 

 「和子さん、おめでとうございます! 『共鳴の碧』、先ほどの大物投資家が言い値で買い上げてくださいましたよ。これであなたの名前も一気に売れる。美談としての幕引きも完璧だ」

 

 オーナーがシールをキャンバスに貼ろうと手を伸ばしたとき、私はその腕を制した。

 

 「……すみません。その絵、売るのをやめます」

 

 「なっ……何を言ってるんですか! もう契約は成立したも同然だ。こんなチャンス、二度と……」

 

 「この絵は、誰かのコレクションや、投資の対象にするために描いたのではありません」

 

 私は、まだ隣にいる少女の肩に手を置いた。

 

 「この絵は、光を探している人のためのものです。……オーナー、この『共鳴の碧』は、しかるべき場所へ寄贈します。かつて私がこの色を見つけるきっかけをくれた、あの病院か、あるいは高木先生のいた美術室へ」

 

 「正気か! 大金をドブに捨てるつもりか!」

 

 オーナーの罵声を背中で聞き流しながら、私は少女に向かって微笑んだ。

 幸子の命を消費させない。

 私の絵を、ただの「悲劇の副産物」にはさせない。

 それは、私が表現者として生きていくための、最初の、そして最大の戦いだった。

 

 和子は確信していた。この決断こそが、空の向こうで幸子が一番喜んでくれる「卒業式」の続きなのだと。

 


 「これは、私からのプレゼント」

 

 私は画材バッグから、まだ新しい、けれど私の指の馴染み始めた一本の筆を取り出し、少女の掌に乗せた。

 

 「……いいの?」

 

 「ええ。その筆で、あなただけの空を描き始めて。いつか、あなたの碧を見せてね」

 

 驚きに目を見開いた少女は、宝物を受け取るようにその筆を抱きしめた。

 オーナーは顔を真っ赤にして憤慨していたが、私はそれ以上言葉を交わすことなく、自らの手で『共鳴の碧』を壁から外した。

 銀座の華やかな喧騒を後にした私は、その足で東京駅へと向かった。

 大きなキャンバスを抱えた姿は、浮き足立つ街の中でひどく場違いに見えたけれど、心はかつてないほど澄み切っていた。

 

 数時間後。

 列車がトンネルを抜けると、窓の外には、都会の光に汚されていない、濃密な夜の闇が広がっていた。

 懐かしい、土と草の匂い。

 

 故郷の駅に降り立つと、そこには四年前に見た時と変わらない、静謐な星空があった。

 翌朝、私は絵を抱えて、高木先生のいた中学校の美術室を訪れた。

 

 「……失礼します」

 

 主を失った美術室は、驚くほど静まり返っていた。

 けれど、木製の机の傷や、乾燥した絵の具の匂いが、かつてここで熱く交わされた対話の残響を伝えている。

 壁の最も目立つ場所には、今も幸子の『夜明け前の碧』が飾られていた。

 

 私はその隣に、私の『共鳴の碧』を並べて立てかけた。

 

 「サッちゃん、先生。……ただいま。約束通り、私の光を持ってきたよ」

 

 二枚の絵が並んだ瞬間、部屋の中に不思議な旋律が流れた気がした。

 幸子の静かな祈りと、私の激しい叫び。二つの碧が、時を超えて一つの物語を完成させていく。

 

 その時、背後の扉がゆっくりと開き、一人の女性が姿を現した。

 

 「……やっぱり、ここだったのね」

 

 穏やかだが、どこか背筋の伸びるような凛とした声。

 振り返ると、そこには一ノ瀬の母さんが立っていた。

 十年の月日は、彼女の髪に銀の糸を混ぜ、目尻に優しい皺を刻んでいたけれど、その瞳に宿る温かさはあの日のままで、私は思わず「あ……」と声を漏らした。

 

 「和子ちゃん。あなたが個展を開いたって聞いて、お祝いを言いに東京へ行こうと思っていたのよ。でも、なんだかそんな気がして……ここに来てみたら」

 

 母さんは、並んで置かれた二枚の絵の前まで、ゆっくりと歩み寄った。

 幸子が最期に描いた、静謐な祈りのような碧。

 そして私が、都会の混沌の中で掴み取った、叫びのような碧。

 

 母さんは、私の絵をじっと見つめ、それから震える指先で、私が指で直接塗り込んだ絵の具の盛り上がりをなぞった。

 

 

 「……この蒼、幸子の手の温もりがするわ」

 

 「え……?」

 

 「幸子はね、よく言っていたの。『和子ちゃんの手は、魔法の手だよ。私の代わりになって、世界中の光を捕まえてくれるんだから』って。……あなたは本当に、あの子の続きを、いえ、あなたにしか描けない光を見つけたのね」

 

 母さんの言葉が、ずっと私の心の奥底に沈んでいた重い澱を、さらさらと溶かしていく。

 身代わりでも、義務でもなかった。

 私はただ、幸子が愛した世界を、私自身の目で見つめ、私自身の手で愛したかっただけなのだ。

 

 「和子ちゃん、ありがとう。幸子の魂は、あの日空へ行ったけれど……あの子の命は、こうしてあなたの絵の中で、今も新しく生まれ続けているのね」

 

 母さんの頬を、一筋の涙が伝い、夕暮れ時の美術室に柔らかな沈黙が満ちた。

 ふと窓の外を見ると、放課後の校庭では、新しい世代の生徒たちが笑い声を上げながら走り抜けていく。命は巡り、碧は重なり、物語は終わることなく続いていく。

 


 私は母さんに、東京の画廊で出会ったあの少女の話をした。

 不自由な指で筆を握ろうとした彼女の瞳が、かつての幸子と重なったこと。

 そして、自分の絵が「消費される商品」ではなく、誰かの「生きる力」になるべきだと気づいたことを。

 

 「きっと、その筆を受け取った女の子も、いつか自分だけの空を見つけるわね」

 

 母さんは誇らしげに微笑み、私の節くれだった右手を優しく包んでくれた。

 

 学校を後にした私は、その足で高木先生が眠る高台の墓地へと向かった。

 眼下には、家々に灯りがともり始めた故郷の街並みが広がり、遠くの地平線は、昼と夜が溶け合う深い群青色に染まっている。

 

 「先生、持ってきたよ。……合格点、いただけますか?」

 

 墓前に手を合わせ、心の中で問いかける。

 風が吹き抜け、木々がザワザワと音を立てた。

 それは、先生が「もっと描け」と厳しく、けれど慈しむように叱咤してくれている合図のように聞こえた。

 

 一九八〇年代も半ばを過ぎ、世界はさらに加速度を増して変わっていくだろう。

 便利な道具が増え、本物と偽物の境界が曖昧になり、誰もが「速さ」と「効率」を求める時代。

 けれど、私は知っている。

 命の重みは、指先で絵の具を練るような、あのもどかしくも切実な時間の中にしか宿らないことを。

 

 私は空を見上げた。

 一番星が、幸子の瞳のように鋭く、優しく瞬いている。

 

 「サッちゃん、私はこれからも描くよ。あなたが愛したこの世界を、私が今生きているこの街を。……何度筆が折れても、何度迷子になっても、私は私の碧を探し続ける」

 

 私はゆっくりと立ち上がり、再び東京へと続く夜道へと歩き出した。

 背負ったカバンは重いけれど、足取りは驚くほど軽い。

 私の指先には、今も確かな熱が宿っている。

 それは、幸子から託され、高木先生に鍛えられ、そして私自身が掴み取った、決して消えることのない命の色彩だった。

 


この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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