表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/19

第十二章:東京、キャンバスの迷宮


 一九七九年、四月。

 上野の山を彩る桜が、激しい風に吹かれて都会の舗装路を白く染め上げていた。

 私は、重い画材カバンを肩に食い込ませながら、行き交う人々の波を泳ぐようにして大学へと急いでいた。

 三鷹のアパートから一時間。

 満員電車の熱気と、街中に溢れる原色の看板、そして絶え間なく響く車の騒音。

 

 故郷の、あの静かな碧い空が、まるで遠い異国の出来事のように感じられた。

 

 「……すごい」

 

 実習室の扉を開けた瞬間、私は言葉を失った。

 そこには、全国から「天才」と呼ばれて集まってきた若者たちの、剥き出しの熱量が充満していた。

 壁に立てかけられた巨大な抽象画、鉄屑を溶接したオブジェ、実験的な映像作品。

 

 私の持ってきた「風景」や「光」は、ここではあまりにも淡く、繊細すぎて、都会の原色に飲み込まれてしまいそうだった。

 

 「君の絵、綺麗だけど……ちょっと大人しすぎるんじゃない?」

 

 合評会で、隣の席になった男子学生に投げかけられた何気ない一言。

 それは、自信という名の薄氷を、いとも簡単に砕いてしまった。

 私の「碧」は、幸子との思い出という殻に守られていたからこそ輝いていたのか。

 一人きりでこの戦場に立った時、私は何を描けばいいのだろう。

 

 放課後、私は逃げるようにして校舎の屋上へと上がった。

 

 フェンス越しに見える東京の空は、排気ガスのせいで少しだけ白く濁り、遠くには新宿のビル群が蜃気楼のように揺れている。

 私はポケットから、幸子の母さんに託されたあの面相筆を取り出した。

 

 「……サッちゃん。私、迷子になっちゃったみたい」

 

 使い込まれた筆の軸を、指先でそっとなぞる。

 その小さな傷の感触が、不自由な身体で命を削っていた一人の少女の、凄まじいまでの執念を思い出させた。

 彼女なら、この濁った空さえも、きっと何か新しい光を見つけて描き出しただろう。

 


 「いい筆だ。……いや、いい『手垢』がついている、と言うべきかな」

 

 背後からかけられた低く掠れた声に、私は肩を震わせた。

 振り返ると、ペンキだらけのつなぎを着て、ボサボサの髪を後ろで束ねた青年が、フェンスに背中を預けてこちらを見ていた。

 三、四年生だろうか。

 その瞳には、都会の喧騒に揉まれた者特有の、冷徹さと熱情が同居している。

 

 「あ……。これは、大切な友達から譲り受けたものなんです」

 

 私は慌てて筆を隠すように握りしめた。

 

 「隠さなくていい。道具を見れば、持ち主がどれだけ真剣だったかくらいは分かるよ。……で、その凄みのある筆で、君は何を描くつもりだ? 故郷の綺麗な思い出か?」

 

 青年の言葉には、棘があった。

 けれど、それは図星でもあった。

 私のパレットには、今も三年前の故郷の碧が居座り、目の前の景色を拒絶している。

 

 「……この空、濁っていて……どう描けばいいのか分からなくて」

 

 「濁ってる? そうか? 俺には、この淀んだ空気の中にこそ、数百万人の人間の『欲望』や『祈り』が混ざり合った、最高に複雑な色彩が見えるけどな」

 

 彼は新宿のビル群を指差した。

 夕闇が迫る街。排気ガスに沈む太陽が、オレンジとも紫ともつかない、形容しがたい鈍色の光を放っている。

 

 「君の故郷の空が『純粋』だったなら、東京の空は『混沌』だ。でも、その混沌を透かして見える光こそが、今を生きる俺たちのリアルなんじゃないのか? 綺麗なものだけが美しいなんてのは、ただの幻想だ」

 

 彼はそう言い残して、つなぎのポケットに手を突っ込み、屋上の階段へと向かった。

 私は再び、幸子の筆を見つめた。

 幸子は、病室という四角い枠の中から、自由な碧を見つけた。

 ならば私は、この混沌とした都会という枠の中から、新しい光を見つけ出さなければならない。

 

 濁りの中にある美しさ。

 絶望の中にある呼吸。

 

 幸子の筆が、私の指先で微かに熱を帯びたような気がした。

 


 その夜、私は吸い寄せられるように新宿の街へと足を向けていた。

 駅の改札を出た瞬間、音の暴力と光の渦が私を飲み込む。

 極彩色のネオンが濡れたアスファルトに反射し、家路を急ぐ人々の影が、無機質なコンクリートの上に幾重にも重なっていた。

 

 私は、高層ビルの狭間にある、小さな路地の入り口に立ち止まった。

 ふと見上げた空は、街の灯りに照らされて赤茶けていた。

 故郷のような星空も、透き通るような碧もない。

 けれど、その淀んだ闇をじっと見つめていると、ある一瞬、ビルの屋上の影と夜空が溶け合う境界に、鋭い「蒼」が走るのが見えた。

 

 (……あ)

 

 それは、死の間際の幸子が、酸素マスクの向こう側で見つめていたあの深い色に、どこか似ていた。

 都会の騒音も、排気ガスの匂いも、人々の孤独さえもすべて飲み込んだ、重く、切実な蒼。

 

 私は道端に座り込み、画材カバンからスケッチブックを取り出した。

 震える指で、幸子の面相筆を握る。

 

 「サッちゃん……私、見つけたよ。ここにも、光はあるんだね」

 

 私は、パレットを使わずに、チューブから直接出した黒と青を、筆先で激しく混ぜ合わせた。

 綺麗なだけではない。この街に生きる人々の、叫びのような色。

 

 通行人が訝しげに私を見守り、足早に通り過ぎていく。

 けれど、今の私には周囲の視線などどうでもよかった。

 筆が走るたびに、幸子の筆の軸が私の指に食い込み、彼女の執念が私の血肉となって、紙の上に「東京の夜明け前」を刻みつけていく。

 

 描いているのは風景ではない。

 この孤独な街で、必死に明日へと繋がろうとする、無数の命の鼓動。

 

 描き終えたとき、私の指先は絵の具で真っ黒に汚れていた。

 けれど、スケッチブックの中には、故郷の空とは違う、けれど確かに幸子の魂と共鳴する、力強い「真夜中の碧」が産声を上げていた。

 



 翌日、実習室の空気は一変していた。

 私がイーゼルに立てかけた昨夜のスケッチを、通りかかる学生たちが次々と足を止めて見つめていく。

 それは洗練された技術で描かれたものではなかったけれど、新宿の闇を切り裂くような鋭い筆致と、執念に近い「蒼」の深さが、見る者の目を射抜いていた。

 

 「……昨日とは、別人だな」

 

 低い声がして、あの屋上の先輩が私の背後に立っていた。

 彼は、私の指先に残る絵の具の汚れと、イーゼルの上の絵を交互に見比べ、わずかに口角を上げた。

 

 「綺麗にまとめようとするのをやめたか。いい濁りだ。この蒼には、お前自身の『今』が棲んでいる」

 

 教授からも「面白い。これを大作に広げてみなさい」という言葉をもらい、私の胸には、この場所で生きていくための小さな、けれど確かな灯がともった。

 幸子の筆が、私を新しい世界へと連れてきてくれたのだ。

 

 しかし、その光を打ち消すような知らせは、放課後の静かな廊下で届いた。

 公衆電話から聞こえてきた父さんの声は、いつになく沈んでいた。

 

 「和子、落ち着いて聞きなさい。……高木先生が、今朝、学校で倒れられたんだ。脳溢血だそうだ」

 

 心臓が、ドクンと大きく波打った。手に持っていた筆箱が、音を立てて床に落ちる。

 

 「……先生が? そんな、この前まであんなに元気で……企画展だって……」

 

 「意識はまだ戻っていない。……先生は、最後まで美術室で、生徒たちの絵を見ていらしたそうだ」

 

 窓の外、東京の空は相変わらず白く濁り、無関心に広がっている。

 私の大切な場所を守り、幸子の魂を繋いでくれた高木先生。

 私は、震える手で幸子の面相筆を握りしめた。

 都会でようやく見つけかけた光が、急に遠く、儚いものに感じられた。

 



 新幹線を降り、タクシーに飛び込んで向かったのは、かつて幸子が最期を過ごしたあの市立病院だった。

 三年前と同じ、消毒液の匂いが鼻を突く白い廊下。

 けれど、病室のベッドに横たわっていたのは、幸子ではなく、少し白髪の混じった厳格な恩師だった。

 

 「……先生」

 

 高木先生は、幾本もの管に繋がれ、深く、重い眠りに落ちていた。

 あの鋭い眼光は瞼の裏に隠され、キャンバスを叩くように力強かった指先は、今はただ力なくシーツの上に置かれている。

 

 傍らの椅子には、先生が倒れた時に抱えていたというカバンが置かれていた。

 その隙間から覗いていたのは、見覚えのある古いスケッチブック。

 幸子が最期まで描いていた、あの革張りの一冊だった。

 

 「先生、ずっとこれを持っていらしたんですね……」

 

 先生は、幸子の遺した「命の記録」を、自分が倒れるその瞬間まで、次の誰かに手渡すための聖典として守り抜こうとしていたのだ。

 教育者として、一人の表現者として。

 

 私は、東京で描き上げたばかりの、あの泥臭くも鋭い「真夜中の碧」のスケッチをカバンから取り出した。

 

 「先生、見てください。私、東京で見つけたんです。サッちゃんの碧とは違うけれど、今の私が、あの街で必死に掴み取った光です」

 

 私は、先生の耳元で囁きながら、その荒削りな絵を、先生の視界に入るように枕元に立てかけた。

 

 返事はない。モニターの単調な電子音だけが、虚しく室内に響いている。

 けれど、絵を置いたその瞬間、先生の指先が、ほんのわずかに、痙攣するように動いた気がした。

 

 「……一ノ瀬……」

 

 掠れた、聞き取れないほどの呟き。

 先生の意識の深淵で、幸子の碧と、私の蒼が、今、時を超えて交差したのかもしれなかった。

 


 病室の窓から差し込む朝の光が、枕元のスケッチを青白く照らしていた。

 不意に、モニターの脈動が激しく刻まれ、高木先生の瞼が、重い扉を開くようにゆっくりと持ち上がった。

 

 「……和子、か」

 

 焦点の定まらない瞳が、私の顔を通り過ぎ、隣に置いた「真夜中の碧」のスケッチに止まった。

 先生の瞳に、あの日美術室で見た、あの厳しい「表現者の光」が宿る。

 先生は震える手を伸ばし、シーツの上でその絵をなぞるように動かした。

 

 「……濁りの中に……光を、見つけたか。いい、色だ……」

 

 それが、先生の最期の授業となった。

 安堵したような微笑みを浮かべたまま、先生は再び深く長い眠りにつき、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。

 モニターが静かな水平線を描いたとき、不思議と涙は出なかった。

 代わりに、背中を力強く押されたような、心地よい痛みが胸に残っていた。

 

 葬儀を終えた翌朝。

 私は、先生が遺した幸子のスケッチブックと、自分の「蒼」を抱えて、再び駅のホームに立っていた。

 

 「サッちゃん、先生。いってくるね」

 

 走り出した列車の窓から、故郷の碧い空が遠ざかっていく。

 幸子が空へ旅立ち、先生がそのバトンを私に繋いでくれた。

 私はもう、思い出の中に安住する少女ではない。

 私は、この筆とともに、濁った都会の闇を、孤独な夜の淵を、光へと変えていく使命を負った「画家」なのだ。

 

 ポケットの中で、幸子の面相筆が、私の指先に確かな熱を伝えていた。

 東京へ戻る新幹線がトンネルを抜けると、そこには、無数の人々がうごめく、混沌とした大都会の入り口が広がっていた。

 

 

この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

指摘や感想とか頂ければ励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ