第8話――ま、そう謙遜なされるな――
その夜、やっぱり由紀がトラの病室にやって来た。
由紀は必死になって冷静を装ってはいるけれど、口元がムズムズとしている。どうやらトラが移動図書館の集まりに参加したことは、どこからか見られていたらしい(たぶん、由紀が屋上でベッドのシーツを干していた時じゃないだろうか)。
「トーラ、くん」
「どうしたんですか、もうすぐ消灯の時間ですよ」
「いやあ、暇だから来ちゃった」
「暇なんですか」
トラは苦笑する。不思議と腹が立たなかった。
「別に隠さなくてもいいですよ。僕が本を借りたの、知ってるんでしょ?」
「え? ……あ、あのね……」
由紀が嘘をつけない性格だということはすでに承知している。そしてトラは中庭からの帰り道、半階を上がるごとに氷のように冷えた単層長尺ラバーの床に座って休憩をとったことを思い出した。息が癒えるのを待つ時はいつも、緊張感が全身を襲う。
「えーと……その、楽しかった?」
「まあまあです」
「へえっ」
由紀は唇をOの形にしながら、水差しを花瓶へと向けた。
「トラくんが『まあまあ』って言うことは、けっこう楽しめたみたいね」
「だから、普通ですって」
「ま、そう謙遜なされるな」
由紀はそう言って、トラの肩をポンと叩いた。由紀のこういうおどけたところは嫌いじゃない。もしもトラが事故に遭わなければ、由紀とはいい友達になれたかもしれない。
「わたしが見てたって知ってるんなら、これ、渡してもいいかな」
由紀がナース服のポケットから取り出したのは、車の絵が描かれた一本の鉛筆だった。
「トラくんの鉛筆じゃない? 他の子は、違うって言ってたけど」
見覚えはない。だいいち、少しでも身軽でいたいトラとしては、中庭に向かうのに際してそんな余計な荷物をもっていくはずがない。
「ああ。僕のです」
しかしトラは、嘘をついてまで鉛筆を受け取った。
この鉛筆はきっと――、オリーブのものだと思ったから。
そしてオリーブと過ごしたあの特別な空間が存在した、なによりもの証拠である。トラは鉛筆を小箪笥に仕舞いこみ、由紀にお礼を告げた。今度オリーブに会う時に渡してやろう。オリーブは喜ぶだろうし、それで一つでも話のタネが増えたらいい。
「じゃあトラくん。ちゃんと布団をかぶって、ゆっくり眠ってね」
電気が消された部屋の入口、由紀のバイバイの後に闇が広がった。
窓の外から、車の走る音が近づいては過ぎ去っていく。ネオンも街灯もない山咲の夜はひたすらに深い。トラは久しぶりに、充実した気持ちで眠りにつくことができた。




