第7話――私たちの秘密としよう――
中庭に出たトラは、はあっ、と息を吐いてみた。
白い塊が二、三と空中に漂い、朝日の中に溶けていく。
空は抜けるような青だ。山咲はとにかく雨が少ない地域なのだが、県を横断する形で流れる吉田川のおかげで水不足はない。逆に十数年前までは整地がじゅうぶんではなかったため、水害が住人たちの悩みの種だったと聞いたこともある。
空気が、ウマい。さすがは田舎だけあって甘さすら感じられる。身体が栄養素と間違えて取りこんでもおかしくないくらいだ。
行きの階段はなんとかクリアすることができた。備えつけの木製の手すりにしっかりと体重を預けながら、薄氷の上を歩くように注意深く下った。帰りは帰りで険しい道のりになるだろうが、今はとにかく中庭に出られたことを喜ぶとしよう。
中庭はすでに子供たちの盛況で埋まっていた。各々好きな本を選んでは、中庭のベンチや石段に腰掛けて本を広げている。見ているだけで寒そうだ。病棟から出てまだ三分も経っていないのに、トラの手足の指先はもうほとんど熱を失っている。子供たちは怪我や病気のためにここにいるのだろうが、そんな事情はまったく感じられないくらいの元気っぷりだった。しかもみんな、満足げに笑っている。
少しでも寒さを緩和すべく、垣根代わりの白樫に沿って移動図書館に近づく。
移動図書館はタイヤからフェンダーライナーの少し上の部位までがビリジアン色に塗装されており、屋根にはセルリアンブルーのラインが二本入っている。車の塗装はあちこち剥がれかけていて時代を感じるが、それでいて図書館の部分の木枠は依然としてしっかりとしているように見える。むしろ竜集を数えたことで風格すら漂わせている感じだ。
とりあえずトラは図書館に積まれている本を眺めた。小さい子向けの本ばかりかと思っていたが、そうでもない。ハードカバーの名作から最近のベストセラーまで、色んなジャンルの本が置いてある。宇宙船の絵が描かれているジュブナイル小説に手を伸ばそうとした時、トラの頬でなにか弾けた。
これは、シャボン玉だ。
飛んできた方向に目をやる。十人ほどの子供たちの輪の中でシャボン玉を吹いているのは、トラと同い年くらいに見える女の子だった。
「さあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。きみたちの求める本は、きっとこの中のどこかにあるよ」
女の子は白く浅めのクローシュ帽をかぶり、赤紫のマフラーで首を温めている。肩口まで伸びたセミロングの髪はまるでシャボン玉の虹が映りこんだように艶やかだ。ツンとした目が、魅惑的に笑う口元によく似合っていた。
さっきは同い年くらいかと思ったが、車の近くにはこの人しかいないようだし、もしかしたらちょっと年上の人なのかもしれない。少なくとも、この移動図書館の司書のような役割を担っているようだ。
「お、またお客さんが増えたね」
女の子はトラの存在に気がついたらしく、両手を腰付近で広げて歓迎のポーズをとる。トラはいきなり話しかけられたものだから、咄嗟に返事をすることができなかった。
「おやあ、無口な少年だね。せっかくきれいなお姉さんが挨拶をしているというのに」
きれい……って、自分で言うか。そりゃたしかに、よく見れば、とてもかわいい女の子だ。話し方がちょっと演劇調だけど、別に嫌いじゃない。
その女の子が腰を屈めて、トラに顔を近づけてきた。
「少年の名前は?」
「しょ、少年じゃないよ。在布大河っていうんだ」
「ほう、大河。きみの名前か。いい名前じゃないか」
トラの身体が、カーッと熱を帯びていく。
「私の名前はオリーブという。トラくん、どうぞよろしくね」
オリーブ? 外国の人なのだろうか。
そう疑問に思ったが、それよりももっと気になったことがあった。
「あれ? なんでオリーブは僕のあだ名が『トラ』だってわかったんだ?」
「うん?」
トラと呼んだ本人もわからないようで、オリーブは腕組みをしながら首を傾ける。
「たしかに、なぜだろう。まあ、タイガーだからトラと連想したんじゃないかな。それよりほら、好きなだけ私の本を見て、選んでいってくれたまえよ」
オリーブは呵々大笑し、移動図書館に向かって手のひらを差し出した。どうも、物事をあまり深く考えない人のようだ。
「んじゃ、これ」
トラは海洋生物の図鑑を手に取る。パラ見すると、蛇みたいな魚やサソリに似た貝の写真が目に飛びこんできた。なかなか面白そうだ。もちろんこんな奇妙な生き物が目の前にいたら怖いだろうけど、本で読むぶんには問題ない。
「ふーん」
とか言いながら、オリーブがトラの手元をのぞきこんでくる。
「……なに?」
「ごめん、読書の邪魔をしてしまったね。きみはなかなかいい本を選ぶなぁ、と思って」
「ありがとう。この本、けっこう面白いよ。ちょっと重いけどね」
「そりゃ、図鑑だもの」
オリーブは木でできた枠に腕を置き、その上に顎を乗せる。
「もし気に入ったのなら、貸し出すよ。部屋でゆっくり読んでくれてもいいし」
そっか。よく考えたら、ここは図書館だった。
でも、この本を借りたとしても返却日はいつになるのだろうか?
「オリーブはまた病院に来るの?」
「ああ。間違いなくね」
オリーブはそう言いながら、積み上げられた本の一番上を親指でさした。その先には、一冊の本を厳重に封印したガラスケースがある。ガラスには『わけあり本』というシールが貼られているが、あれはなんだろう。本も、えらく日焼けしていて何十年も前に出版されたようにも見える。太陽の光の影響からか、ガラスケースは七色に煌めいていた。
「あのケース、なに? 大切に仕舞ってるみたいだけどお勧めの本なの?」
「ふふ。あれは貸し出す用じゃないんだよ」
オリーブの言うことがよくわからない。それなら、どうして移動図書館に積んでいるんだろう。借りるどころか、あのままじゃ読むことすらできない。
「あのケースが光っているだろう? 誰かの運命が私を呼んでいるのさ。もしかしたらトラくん、きみのせいなのかもしれないな」
「…………? あの本、読ませてもらってもいい?」
伸ばそうとするトラの手の袖口を、オリーブがきゅいとつまんだ。
「だめだめ。あれは夢を叶える本なんだ。時が来るまでは手にしちゃいけないよ」
「じゃあ、いいよ。この図鑑と宇宙の小説を借りてもいい?」
「ああ。せっかくだから、小説の方はあと四冊どうぞ。シリーズものなんだ。また来週に来るから、その時までに楽しんでちょうだい」
「ありがとう。もし返せなかったら、先生か由紀さんに渡しとくよ」
「ん? 私が来るのは日中だよ?」
オリーブの白い息が風になびく。トラは忠誠を誓うようなポーズで、胸に手を当てた。
「僕は事故で、肺に穴が開いてるんだ」
トラがそう言うと、オリーブの表情が途端に翳る。
「……そうか。で、きみはここに入院してどのくらいのになるのかい?」
「ほんとだったら小四の終わりくらいからだから、ちょうど三年かな」
「なるほど。もし健康であれば、きみは再来月に中学二年生に進級する予定だったんだ」
「いいよ、学校なんか。勉強したって特に意味ないし」
「……まあ、そういうことなら無理をしなくてもいいよ。しばらくは毎週ここに来るつもりだから、きみの身体の調子がいい時にまた下りてきてくれたら、私はそれで嬉しい」
「たぶん大丈夫だよ。今日も調子いいし」
トラは、オリーブにいいところを見せたかった。それにあまり心配してほしくもなかったので、その場でももを高く上げて腕を振った。
だが、この動作は完全に油断だった。
身体の芯がカッと熱をもち、神経全てに唐辛子が塗りたくられたような激痛を覚えた。足に力が入らない。トラは、息を止めたままバランスを崩した。
「危ない」
倒れかけたトラの身体を支えてくれたのは、オリーブだった。けっこう勢いがついていたので、オリーブを巻きこんで転びそうにもなる。絡まった二人に、「あ、結婚式!」という女の子の声が飛んだ。どこかから口笛の重奏も聞こえる。
「ご、ごめ……ぐ、う……ごめん……」
「謝らなくてもいい。私は先生を呼んでくるから、ここに座っていられるかい?」
オリーブは楚々とした笑みを浮かべる。その笑みが、トラにはとても辛かった。
「ま、待って」
トラは声を絞り出し、オリーブの背中を縫い止めた。
「先生には内緒にして、くれないかな」
「なぜ」
「こんなの見られたら、もう中庭に下りられなくなっちゃうよ」
「なにを馬鹿な。万が一のことがあったらどうするっていうんだい」
トラは笑顔を結び上げ、両手を合わせてオリーブを拝む。
「頼むよ、オリーブ。また、ここで会おうよ」
オリーブは深い息をつき、無言のままこくんとうなずいた、彼女の瞳の中には、白い雲がゆっくりと流れている。
「了解。今回だけは、私たちの秘密としよう」
オリーブがそう言った瞬間、またしても口笛が山咲病院の壁でキンキンと反射した。




