エピローグ――誰のものでもない、マイン――
花ヶ原からバスで南に下ること、二十分。
その駅舎は寂れていて、鉄道員はいない。購入した切符を財布に仕舞って二番線へ。跨線橋を下りると、ホームにはトラと温以外、誰の姿も見えなかった。待合室もない。トラは二人分の荷物をドンと地面に置くと、道中で買ってきたオロナミンCを開栓した。
トラは、十八歳になっていた。
電車が到着するまで、あともう少しある。トラはタオルで首筋の汗をぬぐいながら、片方の手で庇をつくった。
ホームの奥には寂れた灰皿が一つ。それを越えると、見渡す限りの畑と山。その間を、吉田川の清流が今日も筋をなしていた。
不意に、クローシュふうの白いハットをかぶった温が視界に入りこむ。温は興味深そうに腰を曲げ、駅名標の文字をのぞきこんでいた。空色のワンピースから、谷間が。数年前からさらに弾力性を増した、はちきれんばかりの膨らみが。
バキーッ! トラは自らの頬を殴る。ついに旅立ちの時だというのに、なにを考えているんだ! ……でも、二度見した。こういうのに慣れてしまったのも、今も悪友を続けている義夫のせいだ。たぶん。
「なにやってるの、トラくん?」
「いやあ、景気づけですよ、景気づけ」
「ふふ。やっぱりトラくんは面白いなぁ」
ちょうどアナウンスが鳴って、二両編成のワンマン電車が入線してきた。車両後部の入口から先に温を通し、続けて自分も入ろうとしたら危うく頭をぶつけそうになった。この四年で、義夫ほどではないが、そこそこに身長が伸びてくれたのだ。
クラクションが一発。電車が動き出す。トラは荷物を荷棚と足下に分けて置き、温と横並びの席へと座った。
この電車は山咲を出た後、新幹線の停まる駅へとたどり着く。そしてトラたちは東京へ向かって出発する。向こうでの家も、もう決めてある。引っ越しの車が来るのは明日になるらしいから、今夜は義夫の下宿に泊めてもらうことにしよう。
トラは、今年の春から東京の大学に通う。専攻は生物学だ。牛、豚、鳥、虫など、山咲で多くの生き物と触れ合ったトラは、いつしか彼らに興味をもった。いのちとはなにか。それを、学術的な側面から学んでみたいと思ったのだ。
そして猛勉強の末、見事現役で合格した。
ちなみに義夫は難関の獣医学部に合格しており、奇しくも山咲出身同士、近所に住むことが決まっている。あれだけ勉強を嫌がっていた義夫が頑張れたきっかけは、オリーブに貸してもらった一冊の本だという。どうやらあれは、参考書だったらしい。
『まず、知的な男にならんとオリーブさんには釣り合わないってわけよ!』
滅茶苦茶な論理を並び立てた義夫は、本当によく頑張ったと思う。
しかし、獣医学となると実地で北海道に行くこともあるらしい。
四年前、オリーブは、北の方に向かうと言っていたがまさか。……まさか、な。
電車は、吉田川に沿う形で進んでいく。枕木の衝撃がわずかにおしりに響く。
トラは荷物から昔の写真を撮り出し、眺めてみた。
すくねが写っていたはずの箇所が全て空白になっている、その写真を。
尾崎すくね――。
それはたしかに存在した、トラの大切な友達の名前だ。彼女が皆の記憶から抜け落ちたとしても、トラの心の中では今もおてんば少女のまま生き続けている。
すくねはトラの身体に活力を与え、トラの心にいのちを説いた。
今から思えば、すくねは誰よりも先導役の少女である資格を備えていたのだ。
目を閉じると聞こえてくる。
トラを未来に向かって導いてくれた、爽やかなハスキーボイスが。
『ナンパだ。そうなんでしょ? でも残念。あたしはここで人を待ってるだけだから』
『さっきからグズグズしてばっかり! あたし、そういう男が一番嫌いなのよ!!』
『だから、あんたがカンニングをしてたかどうかっていうチェックだって』
『運動って言ってんでしょ!? あんたの病気のリハビリをやってあげようってのよ。男ならぐちぐち言うな! 黙ってあたしについて来なさい!!』
『行けたら行くけど……あたしに欲情してんじゃないわよ、この変態!』
『ま、蜂とかムカデとか、危ない奴もいるからなんにでも近づいていいわけじゃないけどさ、でも、みんな――生きてんのよ』
『もし、あたしがケーキつくったら、食べてくれる?』
『にひひ、あたしもあるよ。未来永劫大切にしてよね』
『でも、あたしは、今日のあんたと桜を見てみたかったのよ!』
横にふと目をやると、温が手帳を見ながらブツブツ呟いていた。きっとまたアンケートだ。今度はどんな珍問と名言が飛び出すのやら。温といれば、毎日が言葉の冒険だ。
温は高校を卒業した後も一年間花ヶ原に留まり、トラに勉強を教えてくれた。そしてトラが大学に合格したのと同時、期せずして温の父の経営する本社が大きく業績を伸ばしたらしい。温の父は温を娘ではなく、一人の優秀な戦力として会社に招いた。連絡を受けた温は喜び、トラと一緒に都会に出ることに決めたのだ。
これから、温にとっても挑戦の日々が始まる。
車窓の向こうに、高城鉱山が通り過ぎていった。
今も、山咲や花ヶ原の人々の中に生き続ける鉱山。
誰のものでもなく、ただ生きとし生けるものを包みこむ山。
その山を越えると、トラが入院していた山咲病院も見えた。
相変わらず、あの院長先生と由紀は名コンビを貫いているのだろうか。
ウエディングドレスを着るという由紀の夢も、もしかしたら叶ったのかもしれない。
トラはたくさんの人に愛されて生きてきた。
トラは、たくさんの人に生かされてきた。
トラが窓を開けると、右側から肩をつつかれた。温だ。
「アンケート、してもいい?」
トラはうなずく。
「トラくんはすくねちゃんのこと、友達としては好きだったよね。でも、それだけ? ほんとは女の子としても好きだったんじゃないの?」
いきなりすごい質問がきたので、トラの身体が一瞬にして燃えた。
鼓動が高鳴る。目の前の温は、とろけるように笑っている。
「僕が、好きだったのは……」
そこから続きが出てこない。だけど、こんな沈黙は嫌いじゃない。
トラ、頑張りなさい!!
また、あの声が聞こえた。
だからトラは、言葉を絞り出す。
「僕が、ずっとずっと好きだったのはねえ……」
風が群青の中に揺れる。大鷹が羽を広げ、悠然と身体を滑らせる。
当たり前の声がいつまでも聞こえてきそうな、そんな風景が、遠ざかっていく。
了
Ending theme: “夏草の線路” by 遊佐未森
Listen here:https://www.youtube.com/watch?v=FrVaMudxHLE




