第6話――今日は、いい天気になりますか?――
午前六時。二月はまだまだ日の昇りも遅く、部屋は暗闇に包まれている。布団の外は刺されるように寒い。本当ならこの時間から電灯をつけられるのだが、ベッドから下りる段で発作が起きるかもしれないから、トラはいつも誰かが病室にやって来るのを待つことにしている。滅多なことがない限りは、院長先生が来るはず。
だがその朝のトラは違った。起き立てのトラの頭の中に、昨晩見た二つの夢の光景が渦を巻く。母と、山咲の男。それらを象徴するように、トラの相棒――ペンギンの柔らかい羽がふわりと膨らんだ。
トラは身体全体ですり足を行うように、じゅうぶんに注意して身を起こした。スリッパを履いて小箪笥へ。上から二番目の引き出しを開けると、トラの相棒はちゃんとそこにいた。もう少し眠らせてくれ、と目をこすっているようにも見えた。
トラは安心して笑い、棚を閉める。そしてベッドへの帰り道でごみ箱に目をやった。もうすぐこの中身はナースステーションにもっていかれる。しばし逡巡し、ごみ箱の中に手を突っこんだ。昨日、ぐちゃぐちゃにまるめた紙を取り出す。移動図書館の案内だ。丁寧に皺を伸ばすと、そこには、両手を挙げて笑う熊と読書に耽るペンギンがいた。
どうしよう。拾ってみたはいいが、このままテレビの脇に置いておくのもばつが悪い。
そこでトラはもう一度小箪笥へと歩き、二段目の引き出しを開けて案内の紙をぬいぐるみの横へと差しこんだ。その時、不用意に身を屈めたため、トラの身体に電流が走った。
咳きこむ。喉が切れるのではないかと思うくらいに激しく。
その時、電気がつけられ、部屋がパッと明るくなった。
「お、大丈夫か?」
つけたての電気の照度はまだ低い。ぼんやりとした薄黄色の光の先、トラは院長先生の丸いシルエットだけを確認することができた。
「……ょうぶです……く、ぐ……」
「ああ、無理するなよ。身体が落ち着いてからでいい」
朝の検診の時間だ。院長先生の隣には由紀の姿も見える。どうやら今日は早番らしい。
「あら?」
由紀はごみ箱の中を視認するなり、口元に幸せな曲線を描いた。ちょっと、よりによってそんなところを見なくてもいいのに。彼女はいつもとぼけていそうで、実は鋭い人だ。
トラは呼吸を整えて、ベッドの上におしりを乗せた。
「どうぞ」
パジャマのボタンを外し、Tシャツを捲り上げる。院長先生はトラに水銀式の体温計を脇に挟むように指示し、鈍く光る聴診器の先をトラの胸に当てた。
院長先生はトラの父よりも、十五歳くらい年上だと聞いたことがある。かさついた皮膚が、トラの肌をゆっくりと撫でた。
「先生」
「ん?」
院長先生の指が、リズミカルに動く。
「今日は、いい天気になりますか?」
「うん。天気予報だと晴れるって言ってたけどな」
「だったら、久しぶりに中庭に出てみてもいいですか?」
トラは脚をパタパタとさせながら、言った。
「そりゃ、かまわんけど、階段の上り下りには気をつけてな。なにかあったら近くの看護師さんに声をかけるといい」
トラに『なにか』がある時は、声が出なくなる時だ。本当に発作が起きてしまったら、身振り手振りで誰かの注意を引きつけることくらいしかできない。
「あ、そういや今日は移動図書館が来るんだったかな。もしかしてトラも……いてっ」
院長先生は重たそうな首を後ろに回して、由紀を睨む。
「なんでいきなり背中をつねるんだよ」
「あれ? わたし、そんなことしてませんよ? いつもの皮膚痛じゃないですか?」
由紀は目を閉じ、すました顔で言った。
「そっか。年はとりたくないな。医者の不養生って、まさにこういうことをいうよ」
再び顔をトラの方に向けた院長先生の背景で、由紀がニヒと笑った。トラの目的は完全にばれてしまっているようだ。けれど由紀の笑顔があまりにも清潔だったから、トラはいつもの天邪鬼に変身する暇がなかった。むしろ、つられて頬を上げそうになってしまう。
毎朝の決まりごとは今日も五分で終わった。どうやら、異常はないみたいだ。




