第6話――僕は、流星に跨がれたんだ――
トラの前に立っていたのは、たしかに温だった。
お待たせ、って。彼女は言う。
トラは呆然として立ち尽くす。温から、一瞬たりとも目を離すことができないままで。
「どうしたの、トラくん? そんなに見つめられたら恥ずかしいじゃない」
そう言って、温はトラの横にペットボトルの麦茶を置いた。
だけど、違う。ペットボトルは二本しかない。『三本』ないと、おかしいだろう。
「すくねのお茶は?」
「え?」
温は訊き返した。よく知るはずの、その名前を。
「すくね……?」
「すくねですよ、尾崎すくね。ほら、いつも剪定鋏持ってる、変な奴」
「え、ごめんなさい。誰かしら? もしかしたら今日、もう一人お友達が来るのかな?」
その瞬間、トラの目の前の世界がぐにゃりと歪んだ。
温はなにか言葉をかけてくれているが、なにを言っているのかまったくわからない。さっき見たすくねの制服が、今も目に焼きついている。
あれだけ覚悟していたはずなのに。
後悔しないように接すると決めて、大切な時間を共有してきたはずなのに。
病気が治り、温とオリーブの謎を解き、少しは大人になった気分になっていたけれど、今もトラは弱いままだ。だけどどうしようもない。身体の震えが止まらない。温がそばにいなければ、きっとわけのわからないことを叫んでしまっているだろう。なぜなら――、
先導役の少女は、すくねだったのだとわかってしまったのだから。
全身の力が抜けた。へなへなと腰が崩れる。だけど温は騒がず、トラの瞳を下からのぞきこみながら背中をさすってくれた。
「トラくん? 気分、よくないの?」
だめだ、こんなの。温はすくねに関する記憶を失ってしまっているんだ。だったら、無闇に心配をかけてはならない。それに、こんな無様な姿を、あのすくねが許してくれるわけがないじゃないか。
「……大丈夫です」
トラは喉に厳命した。なんでもいいから言葉を紡げ。温を安心させてあげるんだ。
「ほんと?」
「ええ。もう元気です、ほら」
トラは相好を崩し、派手なブイサインをした。
すくね、どこかで見てるかい。
なんとかブイサイン、できたよ。ほら、温も安心してくれたみたいだ。
「びっくりしちゃった」
「すみません、ちょっと立ちくらんじゃっただけです」
「ならよかった。そうだ、さっきのやつ、見せてあげるね」
温はそう言って、封筒から中身を取り出す。
それは、この前の卒業式の後に撮った写真だった。
「焼き増ししたから、これはトラくんにあげる」
トラは依然虚ろな頭のままで写真を見て、目を疑った。
すくねが、いない。
間違いなく一緒に撮影したはずのすくねが、写っていなかった。すくねがいたはずのところは、不自然なスペースになっている。苦痛に顔をしかめているトラ、冷や汗を垂らしている義夫。これは本来、すくねを含めた構図のはずだ。
つまりすくねはもう、いないのだ。
ただ物理的にこの世からいなくなったというだけでなく、みんなの心の中からも消えてしまった。最初から存在しなかったという形で。
そう思ったのがだめだった。泣かないでおこうと、泣くのは別れに似合わないと思ってきたのに、ついに限界を超えてしまった。瞳に涙が滲んだ。これはいけないと思う暇もなく、それが呼び水となって後続の涙をいざなった。涙は、間断なく地面へと落ちる。
「……トラくん?」
トラはなにも言わずに立ち上がった。展望台の鉄柵まで数歩進んだ。ここは、亀山の街が一番よく見える場所だ。銀色の鉄柵を両手でしっかりと掴む。声を出そうとした。だけど出なかった。喉はもう、言うことを聞いてくれないらしい。
だけどトラの頭の中に、たしかに声が響いたんだ。
頑張れ!
誰の声かはわからない。でもトラはその声を聞いて、頑張ろうと決めた。
「温さん、僕には友達がいたんです」
言えた。
温からの返事はない。ただ、トラを遮ることもない。
鉄柵は冷たい。だけど今のトラの手は、熱を放ち続けている。この身が、この心が、凍えてしまうことはきっと先、ないはずだ。
「そいつはいつも剪定鋏を持ってたんです。小さい頃に持ち歩いていたから癖になっちゃったらしくて……ほんと、変な奴でした」
わかってもらえなくてもいい。
すぐに伝わらなくてもいい。
温にだけは、どうしても話しておかなければならないことがある。
「優しい奴でした。普段はきついことばっかり言うくせに、心の中ではこの世界の全部を愛していたんです」
「素敵な、友達ね」
初めて、温の声が背中に届いた。
トラは振り返る。温は唇をほころばせ、両手を前で組んで立っていた。
「トラくんはその友達と、どんなことをして遊ぶの?」
「一緒に釣りをしたこともありますし、お正月にはお餅を食べたこともあります。去年、この公園にも来たんですよ。三年生になったら、一緒に桜を見ようって約束したんです」
「その約束は……どうなったの?」
「……半分叶って、残りの半分は叶いませんでした」
おかしな言い方かもしれない。だけど温はトラの発言を茶化したりはせず、しっかりと目を見つめて聞いてくれた。だからトラは、次の決定的な言葉を吐けたのだ。
「その友達はもう、この世界にいません。僕の記憶の中にしかいないんです」
桜の樹の影が長い。十六時を告げる市民放送が鳴った。トラは、温にすくねのことを話してあげることにした。初めて出会った吉田川の川原から、ついさっきの出来事まで。
順番に間違えないよう気をつけて、一つ一つ、丁寧に語る。温は時々うなずきながら、とうとうその長い話の終わりまで目を逸らさずに聞いてくれた。
「……そうだ」
話を終えると同時に思い出した。すくねはジュースを買いに出る前、たしかなにかをベンチに置いていったはず。
「これ、すくねの……」
ベンチの端に、白い箱が消えないまま残っていた。
トラはその箱を開ける。すると中にはショートケーキが三つ、並んでいた。
「あら、きれいなケーキね。これ、すくねちゃんがつくったのかな」
温は胸の前で手と手を合わせる。
ケーキとケーキの間に、メッセージカードが挟まれていた。トラはひょいとカードを取り上げる。どうやら、すくねによって書かれた手紙のようだ。
「それ、すくねちゃんの手紙みたいね」
「……はい。読むので、一緒に聞いてくれますか?」
「もちろん。聞かせてちょうだい」
そしてトラは、一文字一文字を噛み締めるようにして手紙を音読する。
だけど途中から声が震えてきて、きれいに読み上げることはできなかった。
『トラへ
えー、突然ですが、あたしは手紙が苦手です。
苦手なので、ほとんど書いたことがありません。
だから下手くそかもしれないけど、まあ、読んでやって下さい。
夏休みに、藤原先輩と義夫と四人で釣りにいったのを覚えてるかな。
もちろん、覚えてるよね。(覚えてなかったら承知しないわよ!)
あの時、あたし、お菓子づくりは苦手だって言ったじゃない。
そしたらあんた、食べてやるからつくってみろって、そう言ったでしょ。
なので、頑張ってつくってみました。じゃじゃーん☆
ちなみに、味の保証はできません。自己責任でどうぞ! ……なんてね。
あんたには嫌われることもいっぱいしてきたけど、いつも遊んでくれて嬉しいです。
てか普通、逆ギレするでしょ! みたいな。
トラは優しいからね。きっと、余計にいじわるしちゃったんだ。
ごめんね。
なので、このケーキは罪滅ぼしも兼ねていると思って下さい。
この手紙は、きっと家に帰った後に読んでいるでしょうから、言わせてもらいます。
いつもありがとう。
また明日、学校で会おうね。
だけどあたしのドロップキックには、どうぞ気をつけて。
今年も桜を見られて大満足の、尾崎すくね』
トラは次々とあふれてくる涙を抑えられなかった。自分の涙腺はおかしくなってしまったのではないかと思うほどだった。すくねと過ごした思い出が現れては消え、消えては現れ、最後はどのすくねも笑顔のまま去っていく。
温の指が、そっとトラの頭にかかった。
心地いいな、と思った。
温はトラの髪を指でつまんでいたが、そのうち、ゆっくりと頭を撫でてくれた。
ずっと、ずっと。
トラは温にその身を委ねた。恥ずかしくても情けなくてもかまわない。今は、こうやって暗闇の底まで潜ろう。そしてすくねに礼を言う。
僕は、流星に跨がれたんだ、って。
それから、どれくらいの時間が流れたかはわからない。
いつの間にか暮れた空では、一番星がネジ穴のような形で冴えていた。
「トラくん」
温に呼ばれる。夕の昏さの中で、トラは長い夢から覚めた。
「これ、一緒に食べようよ」
温はそう言って、ケーキをトラに差し出してきたのだ。
「せっかくすくねちゃんがつくってくれたのよ。ちゃんと食べてあげないと、すくねちゃんの気持ちはほったらかしのままになっちゃうでしょ」
そうだ。すくねが頑張ってつくったんだ。
これを食べないと、すくねとの約束を守ったことにはならない。
クリームをぺろりと舐めた。甘い。そりゃそうか、ケーキなんだし。
小さく口を開けてケーキを含む。まろやかだ。次は大口で頬張った。うん、うまいうまい。溶けるような口当たりが、本当においしい。
すくね、一生懸命つくってくれたんだな。
そう思うと、少し、涙の味が混じってしまった。
でも、ちょっぴりだけだよ。
「おいしいね」
温の口元には白いクリームの跡。すくねのケーキがトラと温の身体の一部になった。
明日からも頑張ろう。温やすくねにちょっとでも近づけるように、自分なりのやり方で精いっぱい頑張ってみよう。過ぎ去った時間と時代をこの身に宿し、新しい世界をつくっていくために、前を向いて歩くんだ。
「すくね、ありがとう」
答えるように、遠くの一等星が明滅した。
「温さん、ありがとう」
「うん。すくねちゃん、ありがとう」
温は目を閉じて呟く。
亀山の街には暗闇の幕が下り、誰かの生きる光が煌めいている。
どこからか現れた羽虫がトラの肩にとまり、すぐに天蓋の奥へと羽ばたいていった。




