第14話――『温もり』と呼んで生きていくに違いない――
温の涙が止まったのは、部屋に闇の帳が落ちてからだった。
三時間以上もの間、温は泣いていた。トラは立ったまま太陽の翳りを感じ、そして温の髪をゆっくりと撫でつけた。足が痛いなどとはちっとも思わなかった。ただ、温が自分を頼ってくれているという事実だけが嬉しい。
暗がりの中、ようやく温はいつもの笑みを浮かべてくれた。
しかし、謎は依然として残っている。温の大切な人が江坂だったということは判明したわけだけど、それでは当の江坂はいったいどこに行ってしまったのだろうか。そして、今はどこに住んでいるのだろうか。この家を後にする前に、その手がかりを見つけなければならない。
トラは、あらためて部屋中に目を凝らした。ベッド、大量の本、文机、写真立て、小棚……どこかに、手紙とか新居の住所を示した郵便物などはないか。
すると、文机の上の書類だけが異質であることに気がついた。この部屋の中で、手書きで作成された書類はこれだけだ。なんなのだろう。息を吹きかけて表面の埃を払い、その書類の一ページ目にスマホのライトを当てた。
どうやら、この文章は小説のようだ。しかも手書きというからには、江坂本人が書いたものと考えていいだろう。
「へえ。おにいちゃん、こんなの書いてたんだ」
白い光の中に、温の顔が浮かび上がる。
さらに小説の束の下には、一冊のノートがあった。『日記』と書かれたシールが貼られている。他人の日記を読んでいいものかどうかわからず一瞬ためらったが、これが唯一の鍵なのであればやむないと思い、トラはノートをそろりとめくった。
日記の全体をパラ見する。その中身は大きく二つの要素に分けることができた。
日常で起こったことをいかに小説に書くかという――、ネタ帳の要素。
それから、高城鉱山での作業についての備忘録。
そのまま読み進めていくと、トラの目はある一ページに止まった。ゆっくりと読む。次第に眉間から汗がわいて出て、鼻の頂上へと流れた。眼球と指先が同じ振幅で震える。
トラの記憶の包装紙が、無造作に破られていった。
『○月×日
今日、山咲で事故に遭った東京の子のお見舞いにいってきた。
大河くんという名前らしい。肺の穴が閉じないみたいで、正直家族の方にも怒鳴られることを覚悟したが、大河くんが自分のことをトラと呼ぶよう言ってくれたので本当に助かった。
だけど彼の瞳には死が宿っているように見えた。誰かを恨んでいるように見えた。もっといえば、この世界と運命の全てを憎み、同時に諦めているようでもあった。
でもトラくん、そうじゃないんだ。
この世はくそったれにできている。いつか終わってしまうように構成されている。
不平等だ。虫に生まれて殺されたり、家畜に生まれて切り刻まれる生き物もいれば、王者と比喩されたり大金持ちとして笑いながら人生を送る人間だっている。トラくんは、トラくんの人生において、取り返しのない事故に遭ってしまった。
生涯をかけてプラスマイナスがゼロになるなんて嘘だぞ。
生きる時間、生きる様には確実な差がある。
だけど。
諦めたら終わりだ、と思わないか。
僕は車に轢かれて致命傷を負った猫を見たことがある。その猫は身体が動かなくなる最後までその場から離れようともがいていた。僕のひいじいさんは九十四歳で重い病に侵されたとしても、生きたいと言って泣いていた。
生きようとすること、そして善く生きようとすること自体が素晴らしいと思わないか。
その結果、生き続けられるかどうか、思うように生きられるかどうかは重要じゃない。
大切なのは、そう思って、毎日を過ごすこと。
どんな困難のさなかにあっても、不平等を恨まず、その一瞬を心に刻むこと。
僕は、なんとかしてそれをきみに伝えたい。
そこで僕はトラくんのために、物語を書くことに決めた。
今度彼のお見舞いに行く時までに、僕は一生懸命書いてみるよ』
この日記は、温の過去を紐解くだけのものではなかった。都会の病院で鬱々とした日々を過ごすトラと山咲で豊かな生活を送る温は、それぞれが遠大な距離で隔てられているはずだったのに、実は江坂という一人の男の存在で繋がっていたのだ。
あの時、病室に現れた青年は、温の大切な人――江坂徹だった。
トラは震える手をどうにか落ち着かせ、日記のページを進めていく。
『○月△日
物語の着想に入った。
舞台は僕の生まれ育った山咲と花ヶ原にしよう。また、小学生のトラくんにも読みやすいように、なんらかの工夫があった方がいい。そこで、山咲にだけやってくる不思議な移動図書館を登場させることにした。あと、やっぱりかわいい女の子がいた方がいいよな。
よし、移動図書館の司書は美人の女の子にしよう。その司書は移動図書館に魔法の本を積んでいる。読む人に合わせて中身の変わる本だ。本のストーリーに合わせて、読んだ人の夢が叶う。いいじゃないか。
本といえば、対になるのは筆記用具だ。司書は、描いた文字どおりに世界を動かせる鉛筆をもっているなんてどうだろう。そして司書は自らの運命をもその鉛筆で描く。
ただ、トラくんには困難に立ち向かう力と勇気も伝えたいんだよな。
魔法の力がいつまでも続くという設定だと、主人公の人生が軽いものになってしまう。努力や工夫というものをしなくなる。
なら、こうしてみるか。
魔法の本の効力を一年間に限定する。また、魔法の鉛筆は主人公が心の方向を定めた瞬間に消滅する。人は、一年あれば別人になるほど成長できる生き物だから。
うん。これでとりあえずの概要は決まった』
トラの頭の中の疑問が、紐を解くようにするすると明らかになっていく。
全ては、江坂のトラを思う優しさから始まった。その真摯な気持ちは、山咲と花ヶ原の雄大な自然となんらかの形で反応を起こし、一連の謎を並べ立てていったのだ。そんな馬鹿な、と自問せざるとえないけど、この仮定がなければ謎は解決しない。逆にそう考えると、全てに辻褄が合う。
まず江坂の小説に出てくる司書……これは明らかにオリーブのことだ。原稿用紙を指でめくっていくと、たしかに『オリーブ』という人物が序盤に登場していた。物語の内容は、主人公とオリーブが山咲の子供たちのところに移動図書館で回り、それぞれ抱えている悩みを解決していくというヒューマンドラマだ。
しかし途中から原稿用紙は白紙になっていた。つまりこの物語が未完であることをさしている。これもトラの予想どおりだった。
オリーブは定期的に自分自身の物語を書き続けていた。けれど『永遠に』元気になるとは書けなかった。筆者が未完で終わらせている物語を、その登場人物が完結できるわけがない。また、オリーブは「身体がどうしても山咲を恋しがるんだ」と言っていたが、これは小説の原本が江坂の家にあるため、無意識に山咲へと引き戻されてしまうのだ。
そしてトラだけが不思議な鉛筆を扱えたのも、あの鉛筆がトラ専用になっていたから。
さらにトラは江坂の書いた物語――正しくは、作中に出てくるのであろう『夢を叶える本』――を実際に読み、その内容に関する夢を何度も見た。そうすることでトラは、江坂の働いていた鉱山の記憶と知識を知らず知らずのうちに共有してしまったに違いない。だからこそ、見たこともない鉱体の名前や削岩機の名前を見事に言い当てられたわけだ。
もう一つ、オリーブと出会った時に『トラ』とあだ名で呼ばれたのもヒントだった。江坂の記憶が投影されているオリーブなら、そのあだ名を知っていてもおかしくはない。
だが、そうだとすると。
けして認めたくはないが、温とすくねのどちらかが幻の少女であるというのも……おそらくは避けられない運命なのだ。いずれ別れなくてはならない、物語の住人。
そう信じられるだけの事実が、原稿用紙の最後に書かれていた。
切れるほどに下唇を噛む。それはたしかに、トラの筆跡だった。
(オリーブはずっと、元気である)
(温さんはもう、苦しまなくてよい)
(かわす)
その文字のどれもが、誰かを強く思い、誰かを救いたいと願って書いたものだった。トラは一度たりとも自分のために鉛筆を使わなかった。今読み返すと、どうしてずる賢く使わなかったのかと、かつての自分に対して笑えてくる。
でも、そうじゃない。これまでも、これから先も、きっとトラは満ち足りている。
すくね、温、義夫、オリーブ、父さん、そして母さんと紡いだ時間がある。
これまではその時間を、思い出としか呼べなかった。
だけど、これからはそれを――、『温もり』と呼んで生きていくに違いない。




