第3話――頑張って屋上に出てみる?――
「……ラくん。トラくん」
目の前の霧が晴れる。長雨のような白線の向こうには、由紀の顔があった。どうやらもうすぐ昼食の時間だから、寝ていたトラを起こそうとしたらしい。
「すごい汗。お昼ご飯食べたらお風呂に入れるように、準備してきてあげようか?」
「いえ、いいです」
この病院でトラにかまうのは、由紀だけだ。
トラは山咲病院を初めて訪れた時、院長先生とナースの皆から大きな歓迎を受けた。由紀が言うには、トラの落ち着いた目元とハチミツ色の髪がとてもかわいらしかったからだとか。事故に遭った時についた頬の傷も「かっこいい」と褒められた。どうせ由紀のお世辞なのだからまともには受けない。病院独特のこごった匂いが鼻を突き、この匂いはいつまでも続きそうに感じたことだけを覚えている。
トラは小学校三年生の終わりに旅行先の山咲で事故に遭い、直ちに市内の病院で手術を受けた。体力の回復を待って東京の病院へと転院。ここで一年を過ごすことになる。
しかし偶然にも母が肺の病気になったから、家族で空気のきれいなところに移ろうということになった。行き先はまたも、山咲だ。父は通信社の仕事を辞めて、山咲で地方新聞の会社に入った。父はいつも、言い出したらとにかく行動が早い。
山咲病院は最新鋭の医療設備を備えているわけではない。ただ、療養をするにはもってこいの静かな立地にあった。
東京に比べて酸素の密度がとにかく濃い。三十分ほど車を走らせれば亀山という地方都市もある。見渡す限り山に囲まれた山咲で、トラと母は同じ時を過ごした。
三階建ての山咲病院はかつて、鉱山関係の病院だったと聞く。コの字型の建物の中心にある広い中庭が自慢らしい。中庭には散歩をする他の患者もちらほら。耳を澄ませば吉田川の流れる音がかすかに聞こえてくる。母と中庭を歩く時間は、嫌いじゃなかった。
だがその母も、トラが(本来なら)小学校六年生の秋に容態を崩し、亀山の病院に緊急搬送された。
「トラ、ちょっと待っててね」
救急車の中に横たわった母が、折り紙のように筋張った笑顔でそう言う。それが生きている母を見た、最後の瞬間だった。
それから間もなく、トラは自らの症状について父と院長先生のやり取りを盗み聞いてしまい、世界はシナリオみたいなものだと考えるようになった。誰も彼もが夢と愛を歌い、少しでも幸せになろうと努力している世界。同時に利益を奪い合い、今日も争いと悲劇の絶えない世界。だけどそんなものは虚構だ。どんな善人も悪者もいつかは死んでしまう。みんなその不可避の事実から目を背けてこの世に酔っている。トラは事故に遭い、母を亡くし、むしろ幸運だったのかもしれない。誰よりも早くにこの世の秘密を解き明かし、もっとも楽な生き方を見つけることができたのだから。
だけど心は、理屈どおりには動いてくれないもので。
時折、生きたい、健康に戻りたいという気持ちが胸のなかでざわついた。僕もみんなと一緒に学校に通いたい。由紀のもってきたケーキを二人で頬張りたい。院長先生や他のナースたちとも仲良くしたい。
母との思い出も去来した。一緒に歌をうたったこと。クリームパンをはんぶんこして食べたこと。手を繋いでスーパーに買い物にいったこと。お風呂の中で頭を洗ってもらったこと。流行りのアニメの下敷きを買ってもらったこと。トラは、母が大好きだった。
トラは自らを戒めようとした。だから、病院の食器とか花瓶を壊して回った。ナースたちは箒をかける度に、トラに向ける視線を厳しくしていく。トラが病院の鼻つまみ者になるのに、大して時間はかからなかったと思う。
「トラくん、今日は春っぽくて気持ちいいよ。頑張って屋上に出てみる?」
なのに、この由紀だけがいつまでもしつこくつきまとってくるのだ。
「いえ、いいです」
このセリフを何回吐いただろうか。自分でも呆れてしまいそうになる。
部屋の中を見渡す。昨日と同じ壁の色に、昨日と同じ窓からの景色。いつまで経っても変わらない。今夜眠っても、十回眠っても、百回眠ろうがこの景色は変わらない。心の中にある懐中時計はいつも同じ時間を指し続けている。
「じゃあ、中庭に行こっか?」
由紀はなにを言っているのだろうか。階段を一段下りるだけでもこの身には耐えがたい苦痛が走る。もしかしてこうやってかまうこと自体が由紀の嫌がらせなのかもしれない。とにかく、胡散臭い女だ。
「遠慮しときます。もうすぐお昼ご飯なんでしょ?」
「そうね。でも、もうちょっと時間あるよ。部屋でじっとしてたら退屈じゃない?」
「別に」
「またまた~~。わたしだったら絶対退屈しちゃうなぁ」
「由紀さんの常識は、僕にとっても常識なんですか?」
「む……そう言われちゃうと、ごめん」
由紀は上唇を突き出して、それから、なにかを思い出したような顔をした。
「そうだ、これあげる」
由紀がポケットから出したのは、縦横に二回折られたA4の紙だ。青色で、それほど質のいい紙ではない。
「なんですか、それ?」
「むふふー、明日、山咲病院に移動図書館が来るんだよ」
トラは訝しげに紙に目をやった。どうやら移動図書館というのは、その名のとおり本をたくさん積んだ大型車のことらしい。だけどニコッと笑うペンギンと熊のイラストがスタンプされている辺り、どうもトラよりもっと小さい子向けのようだ。マジックで書かれた「山咲のみんなへ」という文字も安っぽい。
「まさか、僕に本を借りるように勧めているつもりですか?」
「そうよ。ずっと病室にいたら気詰まりしちゃうでしょ?」
なにを今更。気詰まりなんか経験したのは、もう遠い昔の話だ。
「無理ですよ。僕、本を読むだけで疲れますから」
「嘘だぁ。たまにテレビでサッカー見てるじゃない」
「それは……まあ、それです。とにかく、こういうのは必要ありません」
トラは移動図書館のお知らせをぐちゃぐちゃに丸め、ごみ箱へと放った。このごみ箱は大変便利な代物だ。由紀の余計なお節介を全部、左から右に廃棄することができる。
「あらら。ひどいね」
「そうですか?」
「もういいよ。じゃあ、お昼ご飯もってくるから」
由紀はふくれっ面をしながら病室を出ていった。由紀がいなくなるとすぐ、無音の糸がピーンと張った。トラは両腕を頭の後ろで組んで、ゆっくりと身体をベッドに倒した。




