第2話――もう、笑うしかなかった――
少年が目の前からぼやけ、今度は薄暗い廊下の場景が広がる。
これは山咲病院の廊下だ。診療時間が終わったので、会議室に繋がるこの廊下だけは電気が落とされている。だけど会議室からボソボソと父の声が聞こえてくる。トラは階段の明かりを頼りに、会議室へと近づいた。
「お父さん、毎日毎日お疲れ様です」
この乾燥機みたいに馬鹿でかい声は、院長先生だ。
「ありがとうございます。ですが別に、トラの看病を苦だと思ったことはありませんよ。同じような毎日でも、トラは少しずつ変化しています。その変化を見るのが私の楽しみなんですよ」
「それは、とてもいい考えです。看病というのはマラソンと同じでしてね、あまり気負いすぎると、ある日突然ペースダウンしてしまいます。お父さんのお考えは病院側としても非常にありがたいものですよ」
「はは、そう言っていただけると、私も」
「お父さんは山咲の食生活には慣れましたか? 私も山咲出身ではないのですが、ここに来た時には、なんというか、肉が多くて……そのうちこんな腹になってしまいました」
たぶん、この会議室の扉の向こうでは院長先生が三段腹をつまんでいるのだろう。想像すると、ちょっと笑える。
「私は大丈夫ですよ。肉といえば、干し肉がウマい」
「ああ、あれはウマいですよね。いえ、外国の方にも喜んでいただいて嬉しいです」
「いやあ。私は、日本人ですよ」
トラの父は金髪に碧眼。ロシア生まれなのだが、日本に帰化してから二十年近くになるらしい。トラも父の遺伝を受けて茶色がかった髪をしているのだが、自分ではけっこう気に入っている。
「先生が私をお呼びになったのは、トラのことですね」
「……ええ」
ようやく本題に入ったといった感じで、院長先生の声が低くなった。
「ちょうど今日で、トラくんが山咲に来て三年になります」
「ほう、もうそんなに経ちましたか」
「私たちはトラくんの肺の穴を塞ごうと、大学機関にも協力を申し入れましたが、結果は……残念ながら、あまり明るいものではありませんでした」
父はなにも返さず、ただ、沈黙だけが流れる。
「お父さん、誤解しないで下さい。悪くなってもいないのです」
「回復の兆しもなければ、悪化の傾向もない、と?」
「そういうことです。トラくんは、彼自身の症状と長く付き合っていかなければなりません。技術が進めば手術支援ロボットを用いることができるかもしれませんが、現段階では内臓に密接した穴を塞ぐ手術は不可能なのです。山咲の自然による治癒も期待してみましたが、少なくともこの三年での効果はありません」
トラの足が震える。もしかして今、夢を見ているのではないかと思った。よくあるじゃないか、とんでもなく不幸な夢を見たけど、覚めて「ああ、よかった」って。
だけど現実だ。院長先生が本気の声色で父に語っていることは、まぎれもない現実。
「まあ、いいようにも考えましょう。本だって読めるし、テレビも見られる。むしろ事故に遭ったことで、普通の人が得られないことを掴めるかもしれません」
いいふうに……、だって?
トラは足音を残すのも気にせずに走り出した。すぐに息が止まり、車椅子置き場へと頭から突っこむ。ナースたちがステーションから出てきた。トラくん大丈夫? ちょっと誰か、先生呼んできて! めいめいに騒ぎ立てる。
おかしかった。
もう、笑うしかなかった。
院長先生は、自分が健康だからあんな脳天気な言葉を吐けるんだ。トラはたったの10メートルも走れない。時には、歩くことさえおぼつかない。しかも『これ』は自分の蒔いた種から生じた結果だというのが余計に笑える。
一生だよ。
一生かけて、じっくりと苦しめられる。よくテレビで青春のスポーツとか、大学生のコンパとか海外旅行とかが取り上げられているけど、トラにはもう、さっぱり関係がなくなった。たぶん働いたり結婚したりすることもできない。せっかく生まれてきたのに、トラだけが早々に脱落者になってしまったのだ。
「トラくん」
心配そうに手を差し伸べてくるのは、由紀だった。
トラは鬼の形相で立ち上がり、ナースステーションの小窓に首を突っこんだ。
「トラくん、危ない!!」
パソコンからアダプタを引き抜いて、床に放り投げる。ガ、ピー……という、鳴ってはいけない類の音が流れた。
へへ、と笑うトラの頬の横には、父の顔があった。
無精髭を伸ばした父の顔は、そのままゆっくりと地面に向かって下がっていく。
「すみませんでした。こいつ、本当はいい子なんです。どうか許してやって下さい」
その時の、トラと父を見る、みんなの表情。
紙でできたのっぺらぼうの人形のように、へらへらとしていた。
ああ、在布さん、気にしないで下さい。
トラくん、ほら、部屋に戻ろうか――。
世界に濃厚ソースが混ざった。何者かが棒を突っこんで、ぐるぐるとかき混ぜてくる。その闇の正体が『哀れみ』だと知ったのは、しばらく経ってからのことである。




