第12話――今度は、きっと、うまくやるんだ――
期末テストの返却が終われば、残った登校日は自由学習に近い状態になる。ひと足早くに夏休みの宿題に手をつけてもいい。生徒たちは各自の勉強をしながら、わからないことがあれば手を挙げて西森先生を呼んだ。
週の途中の水曜日。その日も午前授業だけで学校は終わった。トラは義夫と雑談しながら下校し、県道に入ったところで互いに別れた。吉田川沿いを歩き、山咲大橋に差しかかったその時、川原に知った人の後ろ姿を見つけたのだ。
どんよりと淀む鉛色の空の下、温が吉田川の流れを凝視している。
温は直立不動だった。トラの頬をかすめる、ぬるい風。トラは妙に不安な気分になり、橋の脇から吉田川へと続く坂道を下った。
「温さん?」
声をかけても温は振り向いてくれない。それどこかいきなり、吉田川に向かってゆっくりと歩き出した。温の長い髪が、風に踊る。
「温さん!」
川の流れの音のせいで気がついていないのだろうか。トラは、声を張った。
「あら、こんにちは」
温が実に鈍い動きでトラの方を振り返った。夢を見ているような目。まるで童話の中の挿絵に描かれる人物のような目だ。
「ここで、なにをしてるんですか?」
「ふふ。ちょっと人を探しているんですよ」
「人って……温さんと仲良くしていたっていうあの人ですよね? ここには誰もいませんよ。もうすぐ雨が降ってきそうだし、今度にしません?」
「いえ。もしかしたら、ということもありますから」
温はゆっくりと首を振った。そして唇に哀しい笑みを浮かべ、ついに吉田川の中にじゃぶんと足を浸けた。
「ちょっと! 温さん!!」
トラが止めようとするのも聞かず、温はじゃぶじゃぶと川を突き進んでいく。あっという間に温の膝までが川の水に沈んだ。川の底が一気に深くなっているんだ。
トラは鞄を放り投げ、温の後を追った。川の流れがきつく、油断をすればトラも足をとられかねない。慎重かつ急いで歩く。水を含んだ靴が邪魔だ。脱いで、川原に投げる。
ざぶん、と音が立った。温が水の重みを腰に受けて転倒したのだ。水面から見えているのは温の首から上のみ。冗談じゃなく、危険な状況である。
「だ、誰か!!」
トラの頭の中が真っ白になった。助けを呼びつつ、自らも温に近づく。
温が自力で川原に戻ってこられるとは思えない。そもそも、今の温が川原に戻ってくるつもりなのかどうかもわからない。不幸中の幸いであるが、温の身体は下流へと流されることなくその場に留まっている。早く、助けなければ。トラは必死のすり足で温に寄る。もし流されてしまえば、この先の水門に激突して……その先は考えない。
「大丈夫ですか!?」
トラはなんとか温に追いつき、温の身体を起こした。
だが意識はない。目を閉じたまま、臈長けた頬が若干の熱を帯びている。
「すみません」
トラは温の頬を軽くはたいた。躊躇している暇はない。けっこうな力を込めて。
「あ、トラくん……」
「温さん! なにやってるんですか! 早く戻りましょう!!」
「おにいちゃん、ここにも、いませんでした……」
その言葉を聞いた時、トラはなぜか泣きそうになった。
温さん――。
どうして過去に振り回される必要があるんだろう? こんなふうになって、みんなの輪からはみ出してしまって、それでもどうして過去を忘れることができないんだ?
こんなにきれいな人が……なんて、みじめな。
「僕、温さんと約束します」
自分でも気づかないうちに、トラはそう言っていた。
「温さんがもう傷つかないように、僕がその人を探しますから」
トラの心の中に、母の笑顔が映った。母はトラの手を引いてスーパーに向かい、今日の夕ご飯はなににしようかしらね、と言った。トラはなに食べたい? ちくわ? トラは渋いのが好きね。じゃあ、ちくわの磯辺揚げをつくってあげる。
本当はトラだって忘れていないんだ。大切な人がそこにいたことを、いつも心の引き出しに仕舞っているんだ。自分がひどい病気になったから覚えていても意味がないなんて思っていたけど……でも、母はたしかにトラのよだれを拭いてくれた。すごろくで一緒に遊んでくれた。おねしょをして泣いても、「大丈夫」って言ってくれたんだ。
トラは温をおぶり、川原に向かって進んだ。
岸の付近まで戻れたものの、どうしても浅瀬に上がれない。人の身体を水中から引き上げるには想像以上の力が必要になると知った。
大きく息を吸いこむ。トラ自身は水中に潜り、温を水面に浮かぶ形で担ぐ。一歩、一歩がとても重い。水草や細かい虫が白線になって流れていく。たしかに温を岸に引き上げたことを確信し、トラは最後の力を振り絞って自らの身体も川から引き離した。
トラと温。二人、ごろんと横たわる。制服はびちゃびちゃ、膝は擦り傷だらけ。だらしなくおでこにへばりついた前髪の間で、温の瞳がゆっくりと開いた。
「トラ、くん……」
どうしてトラは今、後先考えずに行動したのだろう。水中で温としがみついたまま助けを呼ばず、流されるリスクにさらされてもなお独力で岸を目指したのだろう。
こんなの、義夫を助けた『あの時』と同じじゃないか?
……いや、違うことだけが一つだけある。
それは、この前は失敗したということ。結果、肺に穴をあけてしまったこと。
だけど今回は失敗しない。あんな怖い思いは二度としたくないからこそ……、
今度は、きっと、うまくやるんだ。




