第10話――いやらしい目であたしを見てなかった?――
梅雨が明けた、とテレビのニュースで言っていた。
山咲は元々晴れが多い地域だけど、梅雨の影響で大雨が降ることもある。今年も、三日くらい続けて集中豪雨が降った。こういう雨は時に水害をもたらすので、山咲の人々は各家庭に土嚢(土の詰まった袋で、ひと袋20キロくらいの重さがある)を常備している。強い雨が降る時には、土嚢を水路の淵に並べるのだ。
それらの土嚢がカンカンに乾き、白い砂埃を巻き上げる。逃げ水すらも見えるほどの炎熱の空気を裂いて、すくねのスポーツバイクが郵便局の駐車場に姿を現した。
「あんた、早いわね」
トラは、約束時間の十五分前には到着していた。なぜならすくねを待たせて殴られてはかなわないからだ。日曜は郵便局も休み。ぽっかりと空いた車二台分のスペースに自転車を立てかけて、ぬぐってもぬぐってもあふれ出る汗に目を眇めて待っていた。
「今日は……どこに行くの?」
トラはまだすくねを信用したわけじゃない。あれほど執拗に攻撃してきた張本人だ。もしかしたら山の中へと誘導されて、そのまま置き去りにされるかもしれないし。
「そんなにびびんないでよ。亀山公園に行くだけだから、安心してついて来ればいいわ」
「亀山?」
それってたしか、父の働いている場所ではないか。
「そうよ。ちょっとあんたにお願いしたいことがあってさ」
「亀山で?」
「んー……まあ、亀山でってわけじゃないけど」
「だったら、亀山とか遠すぎだろ! 車でも三十分はかかるって聞いたぞ?」
「自転車だったら一時間ちょいじゃない?」
いやいやいやいや。熱中症になるから。そんなわけのわからないサイクリングに付き合うより、エアコンの利いた部屋で涼んでいた方が百倍楽しい。
「まあ、運動になるしね……って、あんた、どこ行くの?」
「や、やっぱり、尾崎さんは僕を騙す気だったんだな……」
「はあ? なに言ってんの?」
「こんな暑いとこ、一時間も自転車で走ってどうすんの……」
「やかましいッ!!」
びっくーっ!! トラの身体が自転車ごとバネのように跳ねる。
「運動って言ってんでしょ!? あんたの病気のリハビリをやってあげようってのよ。男ならぐちぐち言うな! 黙ってあたしについて来なさい!!」
すくねは激烈な口調で言って、フレームに括りつけられている太い紐を外した。現れたるはなんと、剪定鋏。その刃がトラを喰わんとばかりに開閉する。
「……なんでそんなの持ってきてんだよ」
「あんたが言うことを聞かなかったら、これで首をちょん切るためよ」
剪定鋏の刃が、ギラリと光る。
「わ、わかったよ……」
さすがに首を切られることはないと思うが、これ以上逆らうエネルギーもない。トラは黙って、すくねの後に続くことにした。
トラとすくねは吉田川沿いの長い道を北へと進む。吉田川の流れとは逆行する形だ。自転車を漕ぎ出してから二十分後に歩道は消えた。そこからは車道の脇を走った。養鶏場の沈殿した匂いが鼻を突く。セメント工場からダンプのバックする電子音が聞こえる。
すくねはトラの前を走った。南風を受け、すくねの白いブラウスがばたばたと音を立てる。だけどすくねも汗をかいてきたらしく、背中の部分が透け下着の紐が露わになった。トラはぎくりとしながらも、ついついすくねの細い背中に目を奪われる。
キッ――。信号機もないのに、すくねの自転車が急停止した。
「ちょっと……あんた」
「どうしたの?」
「今、いやらしい目であたしを見てなかった?」
心臓が一発、太鼓を叩く。
「いや、あの、そういう意味じゃなくて、なんていうか、見てたことは見てたけど……」
「な、なに? ほんとに見てたの? 相変わらずの変態ね!」
すくねの顔が紅色に燃え上がる。なんて鋭い奴かと思ったが、どうやら鎌をかけられていただけのようらしい。
「はい! 変態は前を走って。ここからは前後交代で行くわよ」
「でも、僕、道がわかんないんだけど」
「大丈夫。ずっと吉田川沿いに走るだけよ。ほら、早く交代交代!」
トラとしても目のやり場に困ったので、今度はトラが先頭を走ることにした。すくねの自転車が視界から消えたことにより、山々に囲まれた夏らしい道が真っ正面のずっと奥まで突き抜ける。「それゆけー!」と後ろからすくねが言葉で鞭を振るう。
走行開始から一時間が過ぎたくらいで、吉田川からわずかに逸れ、民家の通りへと入った。さっきまでの道とは違って少し狭い。しかし民家の通りを抜けた先はちょうど坂の上になっていて、トラの目に亀山の市街の風景が飛びこんできた。東西に広がる地方都市。明治の頃に破却されたが、かつては立派な城も築かれたという。
亀山橋を渡って市街地へ。ここで再びすくねと前後を交代する。すくねは勝手知ったる様子で地方銀行、消防署、そして市役所を越えていく。商店はほぼシャッターが閉まって閑古鳥が鳴いているが、もう一本隣の商店街の方はそこそこ賑わっているのだとか。ついでなのでその商店街に寄り、小さな百貨店でアクエリアスを購入。500ミリリットルを一気飲みし、次に向かったのは旧亀山城の石垣沿いの道だった。すくねによると、城の跡地を公園として使っているらしい。
「よーし、到着到着」
荘厳な石門のそばで、すくねは自転車を降りた。ここからは徒歩ということか。
トラたちは亀山公園の敷地に入った。公園の階段はまさに年代物といった感じで荒れてはいるが、どこかに品のよさを残している。一段一段が大きい。他国に攻められた時に敵兵の脚を止めるためらしいが、自国の人も苦労しただろうに。すくねは階段をジャンプ一発で易々と越えていく。一番上までのぼると広場に出たが、またすぐに上の階層へと続く階段が見えた。その造りはまるで、RPGのダンジョンみたいだ。
三階まで上がって門を一つくぐった先で、すくねは木製のベンチに腰を下ろした。
「ふむ」
すくねがそう言って目で指し示す先には、亀山の町並みがあった。盆地の平坦な地形には、旧武家屋敷を残したままたくさんの家が建っている。東京みたいにビジネスビルやゲームセンターは一つもない。ただ、生きるために必要な店だけが揃っていた。
「お弁当、食べる?」
すくねは唐草模様の風呂敷をしゅるしゅると解いて、茜色のお重を取り出した。
「お弁当?」
「そうよ。ちょうどお昼の時間に合わせて出発したんだから」
言われてみれば、そろそろ昼食の時間だ。ただ、ずっと自転車を漕ぎ続けたものだからお腹はあまり減っていない。
「……じゃあ、もらう」
「なに辛気くさい顔してんの。食べ出したら止まんないよ。だってあたしの手づくりなんだもんね! ぜひ感激しながら食べてちょうだい」
「へえ、手づくり……」
ちょっと危険な香りがするぞ。すくねに手づくりだなんて単語は似合わない。まさかまたなにか企んでいるんじゃないだろうな。爆竹を入れたり、そもそもお重自体がびっくり箱だったりとか。
だけど開けられたお重には、色とりどりのおかずが詰まっていた。焼き鮭に、チーズをかけたミートボール。お、こっちはマロニーと大葉を卵で巻いてるんだな。
とりあえずミートボールを一つもらう。甘酢の味付けだ。ご飯もほしくなったので、ひとパク。ふたパク。次は、トマト味のペンネを口に放りこむ。
「むぐぐ」
「どうしたの? 変な味だった?」
「い、いや、喉が……」
「ありゃ、たいへん! お茶お茶!」
すくねは百貨店で買った緑茶をトラに手渡す。ぐいと飲むと、喉のつかえがするりと流れていった。気持ちのいい風が吹く。食欲が、どんどんわいてくる。
「これ、うまいよ。本当においしい」
「なにー!」
いきなりすくねがお重の蓋でトラの頭をはたいてきた。え、なんでなんで?
「これがペンネかね? いったいこれまで私たちが食べてきたペンネはなんだったというんだ? まさに口の中で麺を打たれているような……パスタの常識を越えているッ! そうです副部長、元々パスタは富裕層の食べものだったのです。すなわちソースはおまけ。その食感にこそパスタ本来の贅沢があるってものなんですよ」
「……尾崎さん、なにやってんの?」
「あれ、知らない?」
「いや、知らないけど……でもこの弁当はウマいよ」
「そりゃーそうよ。だってあたし、毎日父さんのお弁当をつくってんだもん」
「え、そうなの?」
「そうなのです。ほれ、こっちも食え食え!」
すくねがそう言って取り出したタッパーには、焼きうどんが入っていた。辛口のタレに柚子の隠し味が利いている。砂糖を多めに入れた卵焼きとも絶妙に合う。すくねの弁当は品数も多く、とにかく豪華だ。
「ていうか、あんたは他人行儀よね」
「そう? どこが?」
「だって学校戻ってきてからけっこう経つじゃない? まだ、あたしのことを『さん』付けで呼んでんだもん」
「だって、名前で呼んだら尾崎さんは怒るだろ」
「別に……怒りゃしないわよ」
それからすくねは、亀山について詳しく教えてくれた。
歴代の亀山の殿様はえらく甘党で、献上品には主に菓子が選ばれたため、亀山では和菓子の文化が発達しているとか。亀山高校は文武両道の高校で、特にサッカーに関しては全国大会出場の常連校であるとか。そういえば日本代表選手の出身校で聞いたことがあったような。そして毎年八月になれば、大規模な花火大会が開催されるらしい。
「でもあたしが一番好きなのは、桜ね。亀山公園は桜の名所で有名なの」
「へえ、桜かぁ」
「四月の桜並木はほんとにきれいよ。また来年、あんたも行ってみたら?」
すくねは、うっとりとした顔で言う。
「いいよ。また、案内してくれるの?」
だけどトラがそう言った瞬間、すくねは驚いたようにトラから離れた。
「行けたら行くけど……あたしに欲情してんじゃないわよ、この変態!」
すくね渾身のコークスクリューパンチがトラの肩を襲う。ちょうど弁当をたいらげたところだったんだ。胃に着弾しなくてほんとによかった。……よかった、のか?




