第9話――夏を呼びこむように――
七月に入り、一学期の期末試験が実施された。さすがに納得のいく出来、とまではいかなかったが、かなり勉強の遅れを取り戻すことができたと思う。特に定期試験は授業で習った内容がほぼそのまま出題されるので、トラは平均付近の点数をとることができた。
すくねはトラのテストを取り上げ、大声で点数を読み上げたのだけど、ほとんどのクラスメイトがすくねに無視をした。結局、馴染んでしまえば嫌がらせもなくなるのだ。おそらくクラスメイトは東京から来た転校生をいじりたかった、そしてその種を一生懸命に探してすくねに乗っかった。ただ、それだけのことだったのだろう。
だが、やられた方はなかなか忘れられない。トラは態度をころっと変えたクラスメイトに対して安堵しつつも、なにかもやもやした気持ちを抑えることができなかった。例えるならば、やられ損、みたいな。
トラは暑気の中で呼吸をしながら、茅葺き屋根の下で農道を見つめていた。
左右に途切れることなく続く、長い道。背後には自動販売機が四台並んでいる。どうしてこんなところで立っているかといえば、義夫に「学校終わったらコーヒー飲もうぜ」と誘われたからである。誘った本人が遅れるなんて。ていうか、今日はテストの返却日なのに、遅れるような用事なんかあるっけ? 義夫は部活にも所属していないはずだし。
「おー、ごめんごめん!」
小さなやまびこをも起こしかねないよく通る声は、ダッシュする義夫から発せられたものだった。小さな像が、次第にトラへと近づいてくる。
「いやあ、なんか職員室に呼び出されてさ。逃げようと思ったらばれて余計に手間取っちまったぜ」
「職員室?」
「成績が悪いって叱られちったよ。遅れて悪かったな。コーヒーは俺が奢るから」
義夫は勝手に言って勝手に得用のコーヒーを購入する。炎天下で喉が渇いているからちょうどいいのだけど、販売機のボタンを押す時の義夫が渋面をしているのが気になった。
「トラ」
義夫はコーヒーを二本持って、神妙な顔で言う。
「俺、なんつーか、このまま夏休みに入っちゃいけねえと思ってさ」
「…………? 僕、ヨッシーになにかしたっけ?」
「いや、ちゃうちゃう! むしろ逆っつーかよ……」
それから義夫は突然、トラの前で腰を直角に折った。
「すまん!!」
「え? ちょ、ちょっと、いきなり……なに?」
「すまんかった! 俺、どうしてもトラに謝りたかったんだ!」
道行く山咲中学の生徒たちがじろじろと見てくる。恥ずかしいったりゃありゃしない。
「顔を上げてよ、ヨッシー。僕、尾崎さんに謝られるならまだしも、ヨッシーに謝られても困るよ」
「そうじゃない。俺もあいつと同罪だ。見て見ぬ振りして、お前を困らせたんだからよ」
その言葉を聞き、トラは妙に納得がいった。トラが義夫を冷たいと思っていたように、義夫もまた自分の振る舞いが冷淡だと気づいていたのだろう。すくねが暴れる時、いつもハラハラとした顔で見つめる義夫に、けして邪気はなかった。
「いいよ」
トラは心から澄んだ声で返した。
ゆっくりと傾き上がる義夫の顔の中、瞼は細かく震えている。
「別に怒ってないから、謝らなくてもいいよ」
「でも……」
「じゃあ、僕から一つお願いがあるんだけど」
「おう、いいぞ。俺にできることだったらなんでも聞いてやる」
義夫は胸を反らせて鼻息を吹く。トラは、ケロッと笑った。
「夏休みってけっこう長いけど、なにも予定がないんだ。だから、ヨッシーのお勧めの場所に連れていってくれないかな?」
「……ん! よっしゃあ、そんなんでいいなら任せとけって!」
「ありがとう、ヨッシー」
「おうよ。お前もあと半月、尾崎のくそ女には注意しろよ」
「あはっ。それは言いすぎだって」
「言いすぎなもんか。くそ女はくそ女だ」
「そうよ。義夫はちょっと、口が悪いんじゃない?」
その声が聞こえた瞬間、トラと義夫の息が止まった。芯のある、凛烈な声。茅葺き屋根の隣にそびえる空石積み擁壁の上に、制服の襟をなびかせるすくねの姿があった。
「お、尾崎っ!」
「ふん……それっ!」
すくねはかけ声とともに壁のてっぺんから飛び降りる。スカートが瑞風を含んで大きく膨らみ、すくねは膝を曲げた見事な着地を決めた。
「あたしがいないところで悪口を言うなんて、二人ともいい根性してるわね」
「ぼ、僕は悪口なんか言ってないぞ!」
「俺もだ!」
「嘘! 義夫のは完全に嘘でしょーが! ノッポの弱点はふとももなのよね。あたしのローキックの威力、試してみる?」
義夫は「ひいいい!」と悲鳴を上げて飛び退さる。すくねは哀れな義夫に冷笑を浴びせてから、じろりとトラの鼻っ面を睨んだ。
「なに?」
「あたしが怖い?」
すくねの眉間には、深い皺が寄っている。
「べ、別に?」
「ふーん」
すくねは軽く言って、頭の後ろで両手を組んだ。
「ま、あんたへの仕返しもそろそろ終わりにしとこうかな、と思って」
「え? 仕返し?」
「そうよ。あたしに痴漢行為を働いた、その仕返し」
まさか……。痴漢行為って、あの吉田川の近くですくねの身体を抱きかかえたことを言っているのか? あれは倒れそうになるすくねを助けただけだし、それ以外の目的なんてひと欠片もなかった。まあ、すくねの身体は柔らかかったけど……。
それよりもそれよりも! あんな一瞬の出来事を恨んでこれまでひどいことを繰り返してきたというのか? なんて執念深い奴だ。
「おい、尾崎! トラから離れやがれ!」
義夫は震えながらも拳法の構えをとっている。だけどなんの拳法かはわからない。片足を鶴のように立てて、古い中国映画に出てきそうなポーズだ。
「あら珍しい。あんたが自分以外のことで頑張ってるなんて」
「だ、黙れっ!! 仕返しをやめるとかわけわからんこと言いやがって! トラを騙して今度はなにをしようってんだ? え?」
「嘘じゃないわよ。じゃあトラ、今週の日曜日の十一時に、郵便局の前に来なさい?」
「郵便局?」
いきなりのアポイントに、トラと義夫は声をハモらせる。
「山咲大橋の手前にあるの。あんたん家からだったら、すぐよ」
「郵便局に行って、なにするの?」
「いいところに連れていってあげるから、自転車で来なさい」
トラは、ぐ、と歯を噛む。すくねの言葉にはいつも反論を許さない力強さがあるのだ。すくねはトラの無言を好返事と受け取ったようで、「よし」と満足そうにうなずいた。
すくねの肩の近くを、ヤマツツジの漏斗形の花弁が風に乗って飛んでいく。鼻歌をうたうすくねの髪には白い輪っかができている。
「で、あたしのジュースはどっちが奢ってくれんの?」
夏を呼びこむように、すくねは言った。




