第8話――わたしのことを馬鹿にしたいんじゃないですか――
六月に入り、かなり過ごしやすい気候となった。
夕刻になれば西天に三日月が薄く輝き、街灯には気の早い羽虫が飛び回り始める。
この六月という期間は、後から思い出しても本当に不思議な時期だった。
学校に戻った当初はトラの失敗もあり、クラスメイトから色眼鏡で見られたものだったが、少しずつ嫌がらせのようなものは減っていったのである。むしろ、ちょっとは詳しくなったテレビの話や、トラ得意のサッカーの解説も相まって、友達が増えていったくらいだ。憎らしい顔をしていた男子たちも、次第に柔和な表情をするようになった。
鋲となったのは、やはりクラスの委員長を務める尾崎すくねだったと思う。
彼女が、トラをからかおうとするクラスメイトを止めるようになったのだ。
例えば、男子たちが「トラの頭をよくしてやろう」と下敷きの角でトラの頭を殴ってきた時も、すくねは冷静なそぶりで男子の二の腕をとった。
「なんなら……」
男子がやけになってトラに古語辞典を投げつけようとすれば、すくねは男子の手をひねってそのまま床に叩きつけた。さっきまで爆笑で身を支えきれなくなり、上半身を机に突っ伏していた男子にも残らず回し蹴りを入れた。
「あたしの、マネすんな」
その声は、喉の奥にダンベルでも隠しているかというくらいに重いものだった。クラスメイトたちはヒソヒソ話をしながら、すくねと距離を置く。だけど話はここで終わらなかった。すくねはにやりと笑って墨汁の容器を開栓したんだ。
「頭をよくしてあげたいんだったら、このくらいやらなきゃ」
トラの前髪からどろりと垂れる、墨汁。
あれはひどかった。服につかなかったからいいものの、校庭の水道場で何回頭を洗ってもまだ黒い汁が流れてきたのだから。
「ふん。あたしはいいのよ!」
クラスの反論を断ちきる形ですくねが叫んだ。その声は校舎の古い磨り硝子をビリビリと震わせる。独善的な物言いにクラスメイトたちは完全に怯えてしまったのだけど、やられた張本人のトラだけは至近距離ですくねの瞳を見つめることができた。その大きく開かれた目には、おかしな話だが可憐という言葉がよく似合った。どこまでも真っ直ぐ先を見据える目。過ぎ去ろうとする春の気泡をいっぱいに詰めこんだ瞳だった。
すなわち、クラスメイトたちの嫌がらせは減ったのだけど、大将格のすくね自身の攻撃は加速する一方なのだ。ただし攻撃の主体が減ったわけだから、トラとしてはずいぶん過ごしやすくなった。すくねにさえ気をつけていれば、大きな害を受けることもない。
ちなみにすくねは依然としてクラスの頂点の地位にあった。トラに関すること以外では明るいしポジティブだしみんなの話をよく聞くし。なにより、客観的に見てもかわいい部類だと思うし。もっと大人しかったら、友達になれたかもしれなかった。
だがすくねの行動は尋常じゃない。息をするようにトラをいびり、蹴り、殴り、挙げ句の果てにはドロップキックまでもが飛んでくる。その際には白いパンツが見えたような気がするのだけど、もちろん口にすることはできなかった。それよりもなぜ、これほど執拗に僕にかまってくるのかと思う。あの、恍惚の表情を思い出せばぶるりと身が震える。
それでもトラは学校が好きになった。毎週火曜日と木曜日の小テストの点数もじりじりと伸びてきたし、この前の体育のサッカーではついにスライディングシュートを決めた。特に目立つことなくクラスの中に溶けこめている。すくねの暴力を除けば、トラが学校に通う前に決めた目的はほぼほぼ達成できたといっても過言ではなかった。
そういうふうに感じるようになった折だろうか。
「あら、トラくん」
校舎の敷地の端、楓の樹の陰にある石段に座る温を見つけたのは。
「藤原先輩……どうしたんです、こんなとこで」
「温、でいいですよ」
「そんな、先輩は先輩じゃないですか」
「かまいません。温と呼んで下さい」
温は、目尻を下げて言った。
(名字は、あまり好きではありませんから)
温はなにかを呟いたようだが、トラにはよく聞こえない。温は石段から立ち上がって、丁寧な足取りでトラへと近づいてきた。トラの眉間が熱を帯びる。初めて出会った時からきれいだな、と思っていた水流のような髪の束。温はトラがこれまで見てきた女子の中でも確実に異質な存在だった。
「今日は、すくねちゃんにひどいことをされていないんですね」
「ええ。ゴミ捨てをやる振りをして、うまく逃げてきました」
「それはよかったです」
温の声には心配の色が混じっている。
どうやら温はトラの立ち位置を理解し、そして懸念してくれているらしく、すくねがトラを攻撃する場に居合わせた時には必ず仲裁をしてくれた。最初は言葉ですくねを諫めようとするのだが、それでもすくねが言うことを聞かない場合には、温のしとやかな指がすくねの二の腕をそっと掴む。するとすくねは反射的に腕を振り払って逃げていくのだ。たぶん、温の握力を恐れているからだと思われる。
「温さんはけっこう手の力があるんですか?」
トラはいい機会なので、訊いてみることにした。
「そうですね……女性として恥ずかしいのですが、力は強い方だと思います」
「なにかスポーツをされていたとか?」
「いいえ」
温はニッコリと笑って首を振る。
「これですよ、これ」
温が制服のウエストポケットから取り出したのは、アンケートの用紙だった。
「わたしのアンケートは手書きですからね。自然と、手の力がついたということです」
「はは……」
トラは笑いの相槌を打ちながらも、心の中で見えない汗を垂らした。ただ、温のことを気持ち悪いとか、そういうふうには思わない。人はそれぞれ好きなものをもっている。トラならそれがサッカーだ。読書に毎日何時間も費やす人もいるだろう。温がアンケートを好んだとしても、それで他人に迷惑をかけているわけではない。
とはいえ、その理由が気になるといえば嘘になるわけで。
「どうして温さんはアンケートをとるのが好きなんですか?」
トラは自分の心に素直になって質問を続ける。
「どうして? ……そうですね、好きだから、でしょうか」
なんだそりゃ。理由にはなっていない。
「でも、なにかきっかけがあるでしょ? 家の人が地域のアンケート係だったとか、小学校の時にアンケートのゲームをしたとか」
「小学校の時に……」
温のこめかみがピクリと動いた。その些細な変化にトラは気がついたのだけど、別に大した反応ではないと高を括った。温の頬がじわじわと上昇する。さっきまでの笑みにさらに笑みを重ねたような、異常なほどの破顔。トラの額にひと筋の汗が流れた。
「そうです。小学校の時に……なにかあったんですか?」
トラは沈黙に耐えきれず、言った。
「だって、あなたが教えてくれたんでしょう、『おにいちゃん』」
「おにいちゃん?」
「おにいちゃんはわたしの好きなものを訊いてくれましたよね。わたしは単に答えているだけでしたけど、今から思えばとても素敵なやり取りだったと思うんです。好きなものを口に出せば、わたしはそれをもっと好きになる。コスモスという花の名前を声で表すと、コスモスはわたしの心に宿ります。でも、どうしてアンケートをとってくれなくなったんですか?」
温は話しながらトラとの距離をほぼゼロメートルまで詰めてくる。温の胸の先がトラの胸板に当たり、トラはごくっと生唾を呑みこんだ。
「温さん」
「ああ、そうでした。おにいちゃんはどこかに行ってしまったんですよね。どこにいるんですか、おにいちゃん? もしかして、今、わたしの目の前にいるんでしょうか?」
「温さんって!!」
トラは温の両肩を掴み、鋭く揺さぶった。温の目の色から狂気が漏れ出し、元のとろんとした目つきへと戻る。
「あれ、わたし……」
「温さん、どうしたんですか? 僕は『おにいちゃん』じゃないですよ」
「わたし……もしかして、今」
温は肩を振ってトラの手を外し、そのまま顔を隠すように押さえた。
「恥ずかしい……わたし、また……」
なにか声をかけるべきなのだけど、その言葉を選べない。トラはただ黙って、だけどその場から退こうとは考えなかった。
「なにか困ったことがあるなら、僕でよければ聞きますよ」
しばらくの時間の経過を見計らってトラは訊いた。トラとしては精いっぱいの勇気を振り絞ったつもりだ。なにせこの藤原温という先輩は美人すぎて、気安く話しかけることさえもためらわれるレベル。そんな彼女の悩みを聞こうだなんて、それはトラの対人スキルを大きく飛び越えるような挑戦だった。
「え……」
だけど温はその声とともに、そろりと顔の目隠しを外す。その先には、意外そうに半口を開ける温の表情があった。
「力になれるかどうかはわかりませんが、話すことで整理ができるかもしれませんし」
「そうですか……」
「もし話したくなければ、無理にとは言いません」
「いえ、そういうわけではないんです。わたしが先程のように取り乱したのは初めてではないのですが、その後に逃げないでいてくれた人は初めてなものですから……」
やはりそうだったか。温ほど美しく柔和な女の子が、アンケートをとるだけで全校生徒に変人扱いされているだなんて、おかしいと思っていた。すくねが言っていたとおり、温にアンケートの源泉を問えば奇妙なそぶりを見せる時があるのだろう。
「僕なら大丈夫です。これまで、色んなものを見てきましたから。温さんの調子が悪くなるのは、単に悩みがある、それだけだと思うんです。逃げるようなことじゃありません」
肺に穴が開き、一生不自由なままで過ごさなければならないという境遇。
その境遇を吹き飛ばしてくれた移動図書館の主――オリーブの腹が渦巻きだったこと。
トラは自らの意志とは関係なく、日常を遙かに振りきった現象をこの目にしてきた。だったら、温と距離を置く必要もない。
「では、聞いていただけますか」
温はうつむき加減で、低い声で言った。
「話せば色々とあるのですが、昔、わたしの近くに住んでいた方が、ある日突然いなくなってしまったのです」
「その人が、おにいちゃんなんですね。本当のお兄さんではなくて?」
「はい。いつも一緒に遊んでくれた方なのに……今、どこでどうされているのか……」
温は深刻そうに言う。
しかし、トラからすればかなりの拍子抜けだった。昔に仲良くしていた人、それも他人の消息がわからないからといって、あれほどの豹変をする必要はあるだろうか?
「それだけ、ですか?」
トラはポカンとした顔で返す。すると、温の唇が固く引き結ばれた。
「それだけ……って。わたしにとっては大きなことなんですよ?」
「そうかもしれませんけど、昔の話でしょう? その人、別に死んだとかそういうわけではないんですから、きっとどこかで元気にされてますよ」
「生きていればいいんですけど……」
「その人、病気だったんですか?」
「いえ、いなくなる直前まで健康でしたよ」
さらによくわからない。病気でもなんでもない人間がいなくなる、というのは引っ越しをしただけだ。生死の行方まで心配する必要がどこにあるのか。
「僕はずっと病気をしていましたけど、それに比べたら大したことありませんよ」
その瞬間、温の顔からすうっと血の気が引いていった。
「どうしてトラくんと比べるんですか! 勝手にわたしの全てを判断しないで下さい!」
「比べるとか、そういうのじゃなくて」
「もういいです。結局わたしのことを馬鹿にしたいんじゃないですか。面白半分に質問するならやめて下さい。不愉快です」
温がツンとそっぽを向いて校門へと歩いていく。トラは夢見心地で温の長い髪を見つめる。今起こっていることがよもや現実だとは信じられなかった。あれだけトラを助けてくれて、トラに優しくしてくれた温が、トラとの縁をハサミでちょん切ったかのように去っていくのだ。
だけど同時に、トラの腹にもやりきれなさがズドンと落ちた。
過去をいつまでもズルズル引きずるなんて、未来への阻害にほかならない。大した過去ではないのだから、すっぱりと忘れてアンケート癖を控え目にするべきじゃないのか。
トラは温の未来を真剣に考えたつもりだ。なのにあの言い草。「不愉快です」だって?
言われたこっちの方が不愉快だ。トラは足下の小石にドライブシュートを撃ちこむ。小石は思った以上に低い弾道で飛び、浅葱色のフェンスにしたたかにぶつかった。




