第6話――カンニングなんか、絶対にやっていない――
ゴールデンウィーク開け。トラは憂鬱な思いで教室の席に座っていた。
今からゴールデンウィーク直前に実施された学力診断テストが返却される。春休みの宿題の成果をはかるテストらしいが、当然トラには歯が立つはずがなかった。
「とりあえず、受けるだけ受けてくれたらいいわよ」
西森先生は軽い調子でそう言った。
だからトラは開き直り、言われたとおりに自然体でテストに臨んだ。さすがに国語はちょっとくらい解答することができたけど、それ以外の科目ではテスト用紙に名前を書いただけだった。残念ながら、全て記述式の試験だったのである。
すると必然的に、試験時間のほとんどは暇になる。眠気が脳を優しく撫でたが、寝るのもまずいと思いクラス中を見回してみた。皆、一生懸命に試験に取り組んでいた。すくねがちらっとこっちに視線を向けたようだったが気にはしない。義夫は堂々といびきをかいて寝ていた。
そのどうしようもないテストが返却されるというのだ。楽しいわけがない。
賑やかな教室。ゴールデンウィークの思い出を語り合う声も多い。トラは父と温泉巡りに出かけただけだが、このクラスでは友人同士連れ添ってイオンや古本屋に行った奴らも多いらしい。家族で東京に旅行したクラスメイトは、鼻高々にもんじゃ焼きについて語っていた。先生はテストの束を教壇の上でトントンとやり、口をわざとらしく弓形にする。
「さて、それではお待ちかねの時間です」
クラスの中で「えー」という声が立つ。嫌そうなトーンにも関わらず、どこかにイベントを楽しむような弾みも感じられる。
それから順々に名前を呼ばれ、五教科分のテストが返却された。
トラがテストを受け取る際には、先生はなるべく微笑もうと努めているようだった。国語の47点は、平均点が52点ということを加味すればなかなかの出来だとして、その他の教科のテスト用紙に書かれたのは『0点』の文字だ。わかっていた結果とはいえ、その記号は見ていて苦しいものがある。
「それでは今日はおしまいとします。尾崎さん、号令を」
「はい。起立――、礼」
委員長のすくねが取りまとめを行い、先生は教室を出ていった。
クラスの中に喧噪が生じる。トラは聞こえない振りをして鞄にテストを仕舞った。父に叱られはしないと思うが、いつまでも見せないわけにはいくまい。どのタイミングで出すべきか。やっぱり、夕食の後か……。
「ねえ、ちょっと」
聞き慣れた声に顔を上げると、へらへらと歪むすくねの唇があった。
「なに?」
「いいから、ちょっと来なさいよ」
すくねはいたずらっぽく言って、トラの手首を掴んでくる。柔らかく湿った指がトラの手首に絡みつく。すくねが一人の女子だということを再認識し、トラはなんとなく気恥ずかしくなった。
「どこに行けばいいんだよ。ていうか、なんの用?」
すくねは各クラスの前を歩き、視聴覚室を過ぎ、音楽室も越えてどんどん人気のない方にトラをいざなっていく。トラの血流が全身を駆け巡る。二階の端にある社会科準備室の前で、すくねはドンとトラを突き飛ばした。
「えっ……」
一瞬、なにが起こったのか理解できない。トラはよろけ、白い壁に身体をぶつける。はずみで、トラの手から鞄がゴトリと床に落ちた。
「これこれ。ちゃんとチェックしとかないと」
なんとすくねはトラの鞄を無断で開け、テスト用紙の束を取り出したのだ。
「おー、0点。これも0点。見事なものねぇ」
ようやく脳神経が再起動する。同時に怒りが沸点を悠々と突っきり、トラはすくねからテスト用紙をひったくった。
「おい、いきなりなにするんだよ!!」
「チェックよ、チェック」
「はあ? なにそれ?」
「だから、あんたがカンニングをしてたかどうかっていうチェックだって」
わけがわからない。トラはカンニングなんか、絶対にやっていない。
トラは唾をひと呑みすることで怒りを抑え、低い声で訊いた。
「なんでカンニングとかそういう話になるの?」
「だってあんた、テスト中にきょろきょろしてたじゃない」
あ……、と思い出す。たしかにトラはクラスを見渡した際にすくねと目を合わせた。だけどあれは暇だから周囲の様子を眺めていただけであって、けしてカンニングじゃない。
トラは、ここで引いてはいけない、と思った。
ただでさえクラスメイトにはいい印象をもたれていないのだ。
きっかけは、例のサッカーの授業だ。あれ以来、クラスメイトたちはトラに異常なほどの注目をしている。もちろん、いい意味ではなく悪い意味の方で。
少し前に流行ったドラマの話をされたことがある。見たと返したら、そのクラスメイトは興味をなくしたように話を切り上げた。続けて、今度は別のドラマの話をしてくる。だがそのドラマは、トラの見たことがないものだった。その旨を告げると、冷ややかな笑いとともに「人生損したな」と言われた。いや、わからないと答えているのだから、そんなに面白いのなら概要を教えてくれてもいいじゃないか。つまりそのクラスメイトは、最初からトラと語り合うつもりはないのだ。
こんなこともあった。
何人かに囲まれて、小さな子供でもできそうなことを、トラはできるのかと質問されたのである。
例えば、自転車に乗れるのかとか、アルファベットを知っているかとか、漫画以外の本は読めるのかとか。挙げ句には、一人でトイレに行けるかと訊かれた。相手には明らかに楽しんでいるようなそぶりがあった。こんなの、トラにとって屈辱以外の何物でもない。
けれど、長い年月をかけて築かれた彼らの友情に入りこんでいくだけの勇気はないし、トラへの態度がからかいの一種だという可能性も捨てきれない。
だが、すくねだけは別だ。彼女はいつもクラスの先頭に立ってトラに嫌がらせをする。いつどのタイミングですくねの逆鱗に触れてしまったのかわからないが、とにかく執拗で悪質だ。トラのつむじを定規で殴って爆笑したこともあった。もしかするとクラスの代表格であるすくねがトラに攻撃するから、他のみんなも追随しているのかもしれない。
義夫は唯一、嫌がらせに加わらなかった。しかも会う度に「あんなの、気にすんな」と慰めの言葉をくれる。だけどそれだけ、なんだ。すくねがトラへのからかいを始めると、義夫は一番にクラスを抜け出してしまう。
この一ヶ月でトラは、義夫の立ち位置を理解するに至った。義夫は背も高く、顔も悪くない。スポーツもできる。だけど遅刻早退は日常茶飯事で、テストの点数も毎回壊滅的。クラスでなにかをやろうという時には絶対に協力しないものだから、皆は別段彼を嫌っているわけではないが、半ば空気として扱っているようだ。
打開できないままずるずると続く状況について、トラは父にも西森先生にも相談をしなかった。いや、できなかった、という方が正しい。友達との付き合い方に悩んでいるなんて、特に女子のすくねに嫌がらせをされているなんて、恥ずかしくて言えなかったんだ。
「うわっ。こりゃ、やばいのう」
その声で、トラの思考は現実に戻った。
いつの間にかクラスメイトがわらわらと現れ、すくねの持つトラのテストをのぞきこんでいる。社会科準備室の前の静寂はやすやすと破られ、バーゲンセールのような熱気が満ちていた。トラはハッと息を呑む。みんな、すくねについてきたんだ。
「トラくん、どのくらいの計算じゃったらできるん? 掛け算もだめか?」
「社会くらい一般常識じゃけえ、書こう思や、なにか書けるじゃろ」
心が呼びかける。ここは怒るところだ、と。
けれど同時に、自分がマジになることでみんなのノリが白けてしまうことも危惧した。単にお人好しという言葉で片づけられることではない。落胆の濁った空気にさらされることが、とにかく怖かったのだ。
トラは感情を抑えこみ、深呼吸を一つする。
クラスの輪の一番奥に義夫の抜けた頭を見つけた。義夫は心配そうにこっちを眺めている。これまでの経験からして助けてくれるとは思えないが、彼がこの場に来た以上はなんらかの救済措置を得られる可能性があるかもしれない。
しかしその希望は一瞬で無に帰す。義夫はトラと目を合わせるなり、そっぽを向いた。
「あ、ヨッシーもおるじゃん」
「こいつヨッシーより点数やばいぞ?」
「よかったのう、これでドベじゃなくなる」
クラスメイトたちはトラの視線で義夫の存在を知り、クスクスとせせら笑った。
「ふっ」
義夫の頬が、かすかに弛緩する。
「そういうこった」
それは、義夫の降伏の言葉だった。
トラは眉毛をへの字に曲げた。どうして皆は僕に厳しく当たるのか。サッカーの一件はもしかするとトラに非があったかもしれない。だけどテストの点数は個人のものだ。誰に迷惑をかけたわけじゃない。そもそも、これまで入院していたことは皆に伝えたはずだろう。どうして誰もわかってくれないんだ。なぜ、優しくサポートをしてくれないんだ。
こんな日常だったら、入院していた時の方が……。
そう思って、今自分はなんと恐ろしいことを考えたのかと肝を冷やす。一生不自由な生活を強いられるあの境遇から脱出したはずなのに、もう次の地獄に飛びこんでいる。この世は不自由の円環だ。悩みは常につきまとう。こんな息苦しい世界で、人々はなぜ生きようと努めるのだろう。いつか消滅する『いのち』をどうして尊重しようとするのか。
一人の男子がトラの答案をぐちゃぐちゃに丸めた。足の甲でもて遊び、リフティングのような動きを繰り返す。おー、やるなあ、と誰かが言った。男子は浮いた答案を激しく蹴り、社会科準備室の磨りガラスにぶち当てた。
もう、嫌だ。
頭の中がそう、ブラックに染まった瞬間だった。男子の甲高い悲鳴が聞こえた。
すくねが――、男子のふとももにローキックを撃ちこんでいたのだ。
なにが起こっているのかわからない。男子は膝を崩し、床の上で苦悶の表情を浮かべている。いくら思い返しても、男子がすくねの怒りを買ったようなくだりはなかった。
「尾崎ぃ……なんで……お前」
「調子に乗らないでよ」
すくねは脚を前後に広げたまま男子の前で重心を落とし、目を眇めた。
「あんたたちも『やっていい』って、誰が許可を出した?」
「そんな。尾崎がやるけえ、わしらも参加しよったんじゃないか」
「あたしはトラがカンニングをしたかどうかを確かめたかったの。もしやってたら、あたしは被害者になるわけだしね。でも、あんたたちはそうじゃないでしょ? なに面白がってんの。なに笑ってんの。え? 理由を言ってみなさいよ?」
とんでもない論理だ。
結果として救われた形になるトラですら、すくねの身勝手な理由に舌を巻いた。カンニングなんかどうでもよく、すくねはトラを馬鹿にするつもりだった。なのに、他のクラスメイトがその暴挙に加わるのを是としない。
「お前なあ……」
男子が血相を変えて立ち上がった。拳を固く握り、抗戦の様相だ。
「やるの?」
「おう。ぶっ殺してやらあ!!」
男子が叫ぶと同時に、すくねは中段に構える。まさに一触即発。トラは止めていいものかどうかもわからず、ただ目を丸くして両者の動作に注目する。
じりじりと距離を詰める、すくねと男子。
「あらあ」
その二人の肩を、誰かがぎゅっと握った。
「うっ!」
「いつっ!!」
相当な握力が働いているからか、すくねたちは顔をしかめて構えを解く。
「こんなにたくさんの方が集まっているなんて、ラッキーですね」
水鏡のような瞳をした女子が手をパッと放し、そのまま胸の前で合わせた。
襟から伸びる群青色のスカーフ。あの女子は……三年生だ。




