第1話――山咲の奴じゃないな?――
あれは五年前――トラが、小学校の三年生に上がろうとするくらいの頃だったか。
トラは父と母と一緒に、母の地元である山咲に遊びに出かけた。春休みの旅行ということで、トラは何日も前からわくわくして眠れなかった。母が歌をうたってくれて眠れそうだったところに、父がオペラのようなビブラートを炸裂させたのだから台無しだ。トラは、父と母と三人で笑いながら旅行の日を待った。
山咲は、間もなく春になろうという頃合いなのにものすごく寒かった。山奥の盆地であるため、風の影響でなかなか気温が上がりにくいのだとか。ただ、鋭気に満ちた高い空は東京では見られないものだったし、車の音がほとんどしないところも気に入った。トラは父と山に探検に入ったり、川幅100メートルはあるだろう吉田川を見学したりと、目新しい毎日を過ごすことができた。
そのうち簡単な地理を覚えたトラは、父を交えることなく一人で遊ぶようになった。案内者がいない冒険というのもなかなかスリリングだ。トラは万年落葉の山道を最強のスピードで駆け抜けた。野生の鹿が目の前を横断していくのを見た時にはびびった。山の上はちょっとした展望台になっていて、そこから見える山咲大橋は吉田川の流れをしばらく隠すくらいに広大だった。両親には、瓦せんべいのような形をしたその橋の向こうには行ってはいけません、と言われている。数年後、まさかその先にある山咲病院に入院することになるとは露とも知らず、トラは間断なく流れる吉田川の景色を楽しんだ。
「おーい」
その声は、トラの真下から聞こえてきた。
誰だろう。目の前は急峻な崖だというのに。
「ここ、ここ」
恐る恐るのぞきこむと、人がやっと登れるかどうかの斜面で、自分と似たくらいの歳の男の子が手を振っている。もう片方の手は山肌から突き出した巨木の根を握っていて、見るからに危なっかしい。
「危ない! 落ちるよ!」
「へへ。大丈夫だっての。てか、その話し方、山咲の奴じゃないな?」
その少年はするすると斜面を上がり、トラの前に立った。
「この辺、俺のトレーニングコースなんだ」
「トレーニングコース?」
「樹の間をジグザグで抜けたり、高いとこから飛び降りて足を鍛えんだよ。説明するよりやった方が早いか。一緒にやる?」
その少年はすごく人懐っこかった。トラもすぐに心を開き、少年と並んで歩き出した。山咲の子と友達になれるなんて、すごくかっこいい。東京に帰るまでにトラもトレーニングを積んでみんなをびっくりさせてやろう。
「行くぜ!」
少年は早速、大股で藪を飛び越えた。




