第2話――こいつ変態なんですよ!――
トラはリノリウム張りの廊下で、西森先生からお呼びがかかるのを待っていた。
西森先生はトラの担任の先生だ。四十代くらいの女性で、目が糸のように細い。西森先生は先に教室に入ってトラのことを説明するから、合図があればトラも入ってきなさいと言った。だけど底冷えのする廊下でじっとしているのも辛い。トラは手と手をこすり合わせながら、小さいステップを刻んで体温の維持に努めた。
まだかなぁ――。
そう思った時、教室の扉がわずかに開いて西森先生の手招きが見えた。
「在布くん、いいわよ」
一瞬、誰が呼ばれているのかわからなかった。苗字で呼ばれるのは久しぶりだ。
恐る恐る教室に入ると、そこには二十人の生徒が席を並べていた。合計四十個の視線を受けて、トラの顔が熱に揺れる。腕を腰の後ろで組んで教壇の傍らに立ち、深くお辞儀をした。西森先生との事前打ち合わせでは、トラはここで自己紹介をしなければならない。
「えっと……僕は、在布大河といいます」
ここで、トラの唇がぴたりと止まった。そういえば自己紹介なのだから、名前を言うだけではおかしいだろう。なにか、つけ加える必要がある。なにかないかな。
「四年間山咲病院に入院していましたが、治ったので学校に通えるようになりました」
トラが言うと、クラスのみんなの目がぎょろっと剥かれた。しまったぞ。四年間も入院していたと口にするなんて、自ら『普通の立ち位置』を放棄したも同然じゃないか。
「なんの病気?」
ほらきた。前から二番目の席に座った、真面目そうな女子からの質問だ。
「肺の病気です」
さすがに事故のことまで話すわけにはいかないので、トラはそう答える。
「えれー病気だったんじゃ」
偉い病気? ……いや、たしか山咲の方言で『えらい』は『偉い』という意味以外にもう一つ解釈ができたはず。なんだっけ……。よくわからないけど、とりあえず相手のイントネーションからしてややこしい質問ではあるまい。トラは黙ってうなずくだけにする。
「名前が大河なので、小学校の時はトラと呼ばれていました。あと、趣味は特にないんですけど、サッカーは好きな方です。ヴァンフォーレ甲府のファンなので、もしJリーグとか好きな人がいたら教えて下さい」
「はい、ありがとう。トラくんの席は……そうね、尾崎さんの横がいいかな」
トラは先生が指差した先に視線をやって、ぎくりとした。尾崎と呼ばれたその女の子は射殺すような目でトラを見ている。なんと、見覚えのある顔だ。
退院の前日、吉田川のへりでトラの顔面を殴った女の子が、机を破壊しそうな勢いで掴み、上歯と下歯の間に強力な圧をかけていた。
「こっち来んな!」
女の子は机を持ち上げ、トラを扇ぐように空中で振る。急な動作をやったものだから、机の角が他のクラスメイトに当たりそうになった。
「尾崎さん!!」
騒然となる教室を鎮めたのは、先生のひとことだった。
「なんで机を振り回すの? あなた、学級委員長でしょ?」
「だって先生、こいつ変態なんですよ!」
「……え? 尾崎さんはトラくんと会ったことがあるの?」
「はい。この前、吉田川の近くでこいつに抱きつかれたんです!」
「嘘? トラくん、そんなことしないわよね? この前まで病気だったんだもんね?」
もう、クラスメイトたちの興味はすくねの蛮行ではなく、トラのセクハラ行為の方に寄っている。トラの顔全体が熱くなった。違う。あれは事故であって故意じゃない。
「いや……」
だけどその先が出てこなかった。いきなりの再会に、言語中枢がうまく働かない。
「尾崎、いやらしいことされたんか」
「病気っちゅうのもほんとかのう」
やばいやばいやばい。クラスの雰囲気が、どんどんトラにとって望ましくない方向へと傾いていく。トラは口をぱくぱくとさせて、ただ立ち尽くすだけだ。
「まあ、いいわ。これから仲良くしてくれたら」
先生は困った顔で、ふうとため息をつく。
「トラくん、彼女は尾崎すくね(おさきすくね)さん。もうわかってると思うけど、ちょっとおてんばなところがあるのよね」
「先生、あたしは自分から攻撃したりしませんよ!?」
すくねが被害者のように言って、
「嘘つけー、すぐ手ぇ出すくせに」
誰かがすくねを冷やかす。
「ただ、成績は学年で一番なの。だからもし勉強で困ったことがあったら、先生か尾崎さんに相談してくれたらいいわ」
先生はそう結んで、うまくその場をおさめた。
しかしトラは完全にびびってしまっていた。なんの躊躇もなく殴りかかり、挙げ句には机を使ってぶっ飛ばそうとしてくる女の子がよりによって隣の席だなんて……。いくら勉強でわからないことがあったとしても、すくねに相談なんてできるもんか。
「先生、早く一時間目を始めましょう。トラくんの自己紹介は終わりましたもんね?」
すくねは妙につっかかる言い方を残し、清楚に着席をした。




