第15話――大きな夢を描いてね――
トラの荷物は最終日の着替えを残して、父が車で家へと運んだ。次第に閑散としていく病室の風景。テレビも撤去されたが、家ではトラの部屋に置かれるらしいので、ひと時の別れだと思って諦めることにする。そしていよいよ退院の当日となった今日、山咲は雲一つない快晴に恵まれた。日に焼けてベージュ色と化したカーテンがひらひらと春の風に舞っている。病室はトラの記憶よりも、ずっとずっと広く見えた。
最後の準備は単純だ。旅行用の肩掛けバッグに昨日着ていた衣類を詰めこみ、オリーブにもらった例の本で蓋をすればそれで完成。ちなみに謎の鉛筆の方は胸ポケットに差しておくことにした。いつこの鉛筆の力を借りることになるかわからないし、その『いざ』という時に実際使えるかどうかも定かではないが、今のトラには唯一の武器みたいなものなのだ。だって勉強も山咲のことも、ほとんどわからないのだから。
でも、友達がいない、とはもう口にしない。
オリーブがトラに勇気をくれた。
母の愛情と夢の中で再会した。由紀と父も、トラの回復を心から喜んでくれたんだ。
だけど他の職員たちはきっとトラのことを恨んでいる。あれだけ機械や備品を壊したのだから仕方がない。彼女たちに謝るタイミングを逸したことが、唯一の心残りだった。
「さ、行くか」
父がベッドのシーツをきれいに折り畳んで、呟いた。
「そうだ。最後にお礼を言っておかないとな」
「ん。先生と由紀さんに?」
「それはもちろんだけど、この部屋にさ」
父は病室に対してお礼を言うようにと促してくる。トラが長く苦しんだ、時には発作を起こして顔を青くしたこともある、この部屋にだ。
惑うトラの肩を、父は軽く叩いた。
「自分がほんのわずかでも過ごした場所には、お礼をしておくものだよ」
それから父は、「スパシーバ」と言った。トラも心で同じ言葉を発し、上半身を曲げる。病室を出て階段を下り、赤茶色したタイルを越えると、そこにはトラを見送る病院の関係者たちが列をなしていた。
看護師たちの顔は引きつっているようだ。トラはごくりと唾を呑む。院長先生が片手を挙げると、端に立っている看護師二人が垂れ幕を横に広げた。
『トラくんに仕返しをする会』
え、なにそれ――?
しかしトラの理解が追いつく間もなく、看護師たちがトラに飛びかかってきた。垂れ幕は地面に降ってぐちゃぐちゃ。トラは両手を封じられて看護師たちのなすがままになる。
キュッキュッと謎の音が響き、看護師たちは歓声を上げてトラから離れた。
手には、『退院おめでとう』の文字。
袖を捲られた腕にも、足首にも、さらにはへそにも。
『お金持ちになったら、パソコン弁償してね!』
『花瓶の片付け大変だったぁ!』
そして最後に、『あのケーキ、高かったんだからね!』
呆けたまま視線を上げると、そこには薔薇のような笑みを携えた由紀が腰の前で手を組んでいた。トラの目の奥が、じりっと熱くなる。
「すみませんでした」
トラは、全員に向かって言った。
「いいわ。あのケーキは捨てられちゃったけど、それよりも大きなものを学んでくれたみたいだから」
由紀はトラにそっと近づいてきて、トラの髪を優しくかき回した。
「大きな夢を描いてね」
「夢、ですか」
「そうよ。わたしも大きな夢があるんだ。お嫁さんになるっていう、ね」
お嫁さんが、夢。
芸術家とか社長になるとかならわかるけど、お嫁さんが夢とはまた、由紀らしい。でもそういう素朴さが由紀のいいところだ。トラは、由紀の夢を素敵な夢だと思った。
「さよなら、トラ」
院長先生が手を振ってくれた。トラと父は何度も何度も振り返って返事を送った。みんな、トラたちが見えなくなるまで、ずっと病院の門の前に立っていてくれた。




