第14話――あたし、そういう男が一番嫌いなのよ!!――
三月二十七日。退院の日が、いよいよ明日に迫った。
山咲には、なにかと別れ、なにかと出会うような匂いの空気が広がっている。
退院といっても長い距離を移動するわけではない。山咲病院からトラの家までは、歩いて二十分。距離にして二キロあるかないかというところだ。
ただ、明日になっていきなり父の仕事が入るかもしれない。そうすれば一人で帰宅しなければならないわけだから、今のうちに家への道を歩いてみようと思った。父に地図を書いてもらい、院長先生に外出の許可を得る。由紀はサイダーのように爽やかな顔で、「いってらっしゃい」と送り出してくれた。
トラとしては、四年ぶりの外出だ。試しに病院の外周をなぞる形で歩いてみた。一周するのに、わずか五分もかからなかった。なんて小さな場所なんだろう、と苦笑する。だけどこのたった徒歩五分の敷地が、これまでのトラの世界の全てだった。
トラは次に、病院から下りの県道へと入った。ここからは未踏の地だ。くねくねとカーブする県道の右端を進む。アスファルトの感触を靴の裏で受ける。空き地にトラックの群れとユンボを見つけたので、心のカメラで一枚写した。
やがて差しかかったT字路を左に折れる。右手は見渡す限りの畑だ。院長先生の話によるとニラを栽培しているらしい。収穫期が近いのか、ニラのツンツンヘアーが青空を突き刺している。緩やかな坂を上ったところで、眼下に巨大な川を見つけた。
吉田川だ。
この川を見るのは四年ぶりになる。山咲を南北に貫く一級河川。100メートルはゆうにあろう川幅に反比例して、流れは比較的緩やかだ。上流から間断なく訪れる水の壁が、岩肌にぶつかりながら河口を目指していく。茫洋たる水面には、三角の光が無数に煌めいていた。
ちょっと、寄り道をしてもいいかな。
トラはそう思い、橋の欄干から斜面を下る。地元の子供が行ったり来たりするからか、人一人分の幅だけ草がはげている。遙か昔のあの日、大声を発しながらこの道を下ったことを思い出した。山咲で出会った、あいつと。
清流の汀に立つ。そろりと手で水をすくうと、全身が震えるくらいに冷たかった。ネコヤナギの銀色の花芽が風に踊る。春はすぐそこまで来ていそうで、なかなか鈍足だ。
「ちょっと、危ないわよ」
背後で、声が聞こえた。
振り向くとそこには、大きな剪定鋏を携え、岩に足をかける女の子の姿があった。
「誰?」
えらく気安く話しかけてくるから病院の患者なのかなと思ったが、こんな子、見たことも会ったこともない。女の子のショートヘアはシャギーにカットされ、元気のよさそうな印象を受ける。ぱっちりと開いた大きな猫目に、口元からのぞく真っ白な歯。ウール製の青いジャンパーを羽織り、デニムスカートからは健康的な脚をすらりと伸ばしていた。
それより注目すべきはあの大きなハサミだ。たしか植物を切ったりするためのハサミだったはずだけど、どうして女の子はあんなものを持っているのだろう。ハサミの刃に陽光がピカリと反射して、やけにかっこいい。
「誰もくそもないわよ。川にさらわれたら、戻ってこられなくなるじゃない」
「あ、そっか」
トラは岸辺から離れ、女の子の前に立った。
「僕は在布大河。トラって呼んでくれていいよ」
「ふあっ!?」
女の子は、わざと寝ぼけたような表情をとる。
「え? 僕、なにか変なこと言った?」
「いやいやいや。いきなり自己紹介されても困るから。てゆーか、なんなのよトラって。あだ名を聞かされて、あたしはいったいどう反応したらいいのかなぁ?」
トラはむっとした。名乗っただけで、こんなに厳しく返さなくてもいいのに。
「……で、きみは?」
「きみは? あんた、あたしのなにを聞きたいの?」
「だから、名前」
「ばかじゃない。今会ったばっかのあんたに教えるわけないじゃん」
女の子は瞳に情熱を灯し、訝しげな視線を送ってくる。
「あー、もしかして、あれかぁ」
そして女の子は、納得したように何回も首を縦に振った。
「ナンパだ。そうなんでしょ? でも残念。あたしはここで人を待ってるだけだから」
おいおい。こっちが素っ頓狂な声を上げたくなる。たしかに見た目はボーイッシュでかわいらしい子だけど、入院中の身で昼間からそんなこと考えるもんか。自意識過剰なんじゃない? トラはますます目の前の女の子に嫌悪感を抱いた。そもそも初対面の相手に対して態度がきつすぎるのだ。
「違うよ。僕、帰る」
「はあ?」
女の子は鼻から息をすうっと抜いた。
「なに怒ってんのよ。あたし、川は危ないって注意してあげただけじゃないの」
「うるさいな」
トラはきびすを返して斜面へと進もうとする。だが、後ろからジャケットを強く引っ張られてガクンと急停止した。
「誤解させたままじゃ、嫌だから」
セリフとは裏腹に、女の子の声には険がある。まずいな。あの片方の腕に持った剪定鋏で襲われたとしたら、ひとたまりもないぞ。
「あんた、山咲中学の生徒じゃないわね」
「ほっといてくれってば」
「旅行? それとも引っ越ししてきたとか?」
「早く、離してくれよ……って、うわっ!!」
ふとももに鈍い痛みが走った。女の子に回し蹴りをくらわされたと認識したのは、川原に片膝をついた瞬間だ。なんで。いきなり。女の子はなんの躊躇もなく暴力を行使した。
「さっきからグズグズしてばっかり! あたし、そういう男が一番嫌いなのよ!!」
さらに女の子は、トラを威嚇するように近づいてくる。
ちょっと待て。おい。まだ殴る気か? あるいは剪定鋏で斬る気かもしれない。たった三分前に会ったばかりの女の子に、トラは殺されようとしている。
「やめろって」
トラは咄嗟に女の子の右肩を突いた。相手の体勢が崩れる。女の子は踏ん張ろうとしたのだけど、ちょうど辞書大の石で足を滑らせてしまったようだ。「う」と呻いて、女の子の黒目が大きくなる。危ない。このまま倒れたら女の子の身体はハサミに巻きこまれるかもしれない。
トラは片方の手を女の子の落下経由点に差し出した。しかし女の子が必死に身をひねったため、トラの顔は女の子の胸元にまともに突っこむ形になった。しかも受け止めようとしていた最中だったことから、自然と抱きつく格好になる。鼻をフガと動かすと、ボーダーのニットシャツからは太陽の香りがする。ほどよく膨らんだ、柔らかい感触。ああ、この子、着痩せするんだ――。
「ふざけんじゃないわよお――――っっ!!」
女の子は屈伸し、そのバネを生かしてトラの顎に強烈なアッパーカットを放った。その拳は仰角三十度でまともに着弾し、トラの細い身体は芝の上へと転がる。
女の子の頬は、紅潮していた。
「さっさと、帰れ!!」
一拍を置いて、トラの顎がズキズキと痛み始める。
この女の子に抗議がないわけじゃない。しかしこれ以上関わって得をすることもない。
トラは無言のまま斜面を上り、橋から女の子の様子を確認した。うわあ、まだ見てる。というか、睨んでる。しかも腰に両手を当てて、あれは威嚇のポーズだ。
四月からの新生活について、頭の中で不安が渦巻いた。よく考えたら同年代と話をするなんて久しぶりだ。学校のみんながあの女の子みたいだったらどうしよう。
トラは切れた口の中の血を、欄干の根本にぺっと吐き捨てた。




