第13話――運命が割りこもうとしている――
トラは病室のベッドに座って父を待ちながら、この一ヶ月の出来事を思い返した。
それはまさに、奇跡とも形容できる。
トラは毎晩、寸分変わらずにあの金麦と女の子の夢を見た。
それからは、体調の良好な日々が続き、肺の熱も日を追うごとに冷めていった。
時間は緩やかに流れた。まるで数年を過ごしたくらいに、長く感じられた。
ジョギングレベルではあるけれど、中庭を走ってみたこともある。その時ちょうど屋上にいた由紀が叫んで、血相を変えて病棟から飛び出してきたっけ。
それから、三回ほどレントゲン撮影を行った。同時に、はだけさせた胸に吸盤を取りつけて心電図をとる。父はトラの症状の悪化を懸念してか、いつも固い顔をしていた。
そして、大がかりな検査を行った、春分の日。
父は院長先生に「話がある」と会議室に呼び出された。トラは寝た振りで耳をそばだてていたのだ。院長先生の声色からして、重大発表であることに違いはなさそうだった。
考えられるのは二つ。
病状の悪化か、あるいは完治かだ。
悪化はありえない。この一ヶ月の体調はすこぶるいい。全力疾走を命じられればやってみせる。だとすれば、あるのは完治という結果の方だ。
しかし……それも、本来は喜ぶべきなのだけど、トラにはどうしても実感がわかなかった。一生を諦めたのはとっくの昔のことだ。オリーブに懸けた友情が唯一の光明だった。
大前提が、ひっくり返ろうとしている。
『なにもない』と決めつけていたスペースに、運命が割りこもうとしている。例えば今から退院して普通の生活を送るよう求められたとしても、なにをしていいのか、なにからやるべきなのかがまったく想像できない。前からずっと健康だったような気もするし、やはり長い闘病生活を送ってきたという記憶もある。僻地に強制収容させておきながら、時代の移り変わった後の都に呼び戻すなんて、浦島太郎もいいところだ。
父は三十分も経たないうちに病室に戻ってきた。
壊れるくらいの勢いで開かれる扉の音を、トラはやはり寝た振りで聞く。
「トラ、起きろ!!」
トラはとりあえず目をこすってみる。カーテンの隙間から差しこむ午下の陽光の影に、父の爆発しそうな笑みが輝いていた。
「さっき先生から呼ばれた。なんの話だったと思う?」
父の弾む声。これが、全ての答えだ。
「さあ。もしかして、僕の身体がよくなったとか?」
「お」
父はひと息を溜めて、トラに抱きついてきた。
「そうだ! 肺の穴が閉じちまったってさ! こんなことが、あるんだ!!」
「また、学校に行くことになるの?」
「ああ。転入の手続きをとらないといけないな。また、トラが、学校に……」
そこまで言って、父は黙った。
「父さん?」
父はなにも答えない。だけどトラはそれ以上の言及をやめた。トラのパジャマの肩口がいつの間にか温かい液体で湿っている。父の涙だ。
正直なところ、不安もある。しかし完治して嬉しくないといえばこれも嘘になる。なにより今は、父の想いに応えたい。
「父さん、スパシーバ」
父への最大の感謝を込めて、ロシア語で言った。父は身体を離して鼻をすする。
「スパシーバ」
トラと父は、互いのグーを空中でぶつけ合った。その五秒後、二人同時に花粉を吸いこんでくしゃみをかますとは――、露とも知らずに。




