第12話――流星に会おう。流星に、またがろうよ!――
やがていつもの毎日が口を開けた。
早朝の検診を終えたら、午前は病院の中を散歩する。購買はないけど、由紀に頼めば大抵の欲しいものは手に入る。一階の待ち合いで飲むミルクティーがトラのお気に入りだ。かつて好きだった炭酸は飲めなくなって久しい。午後になれば昼寝をして、十八時からはテレビをつけてJリーグの試合を見る。観戦しながら夕食をとっても注意されないのはありがたい。トラの応援するヴァンフォーレ甲府は、2対1で鹿島に勝った。
いつしか、部屋の中全体が夜に染まっていた。由紀が来室して消灯を済ませる。真っ暗になった部屋には、暖房とはまた違った暖かみがある。どうやら明日は曇りか雨らしい。
トラは目を閉じる。
パジャマの袖で、鼻をこする。
扉の向こうで、カツーンコツンと足音が鳴っている。巡回の看護師か。トラの意識が、深く深く沈んでいった。
そして、金色の輝く麦畑の中に、トラはいた。
夕焼けが眩しい。麦の茎が脛を撫でて……とてもくすぐったい。
「終わりは、始まりなのよ」
近くで誰かの声が聞こえた。これはたぶん、女の子の声だ。
「誰?」
「ああ、あなたが、わたしの運命?」
下からひょこんと女の子が現れた。いきなりの登場にトラはびっくりする。どうやら彼女は今の今まで、トラの足元で屈んでいたようだ。トラは発作を起こしてはならないと、必死で声を押し殺した。
「まずは終わろう。でないと、始まらないよ」
女の子はトラと同年代くらいだ。目は前髪で隠れて見えない。だけど健康的なピンク色した唇は、明らかに笑みの弧を描いている。
「ここ」
女の子が手のひらでトラの胸を軽く押さえると、ほんのりとした温度が伝わってきた。続けて肺胞と毛細血管に帯びた鈍い熱が消滅し、胸の中が大空と置き換わったかのように澄み渡っていく。気持ちがいい。トラは女の子に抗わず、目を閉じて深呼吸をしてみた。ずっと昔に吸いこんだきりだった、本物の息の味がする。
だけどなぜか、ひと粒の涙がトラの頬を滑り落ちた。
やっぱり、生きていたいと思ったから。
事故に遭わなければ……あんな不注意な行動をとらなければ、人生は違ったのだと。
たった一瞬の正義感が全てを台無しにしてくれたのだと。
トラは整った息を手に入れると同時に、どこかに置いてきたはずの後悔をも覚えた。
母、父、由紀、院長先生、そしてオリーブ。かつてトラを愛し、そして今も大切に想ってくれている人たちの顔が、浮かんでは消える。
「よし」
目の前の女の子はそう言って、次にトラの手を握った。
「行こう」
引く手は強い。女の子は空いた方の手で麦畑をかき分けて進んでいく。
「ちょっと……どこに行くんだよ」
「大人になる旅よ」
「え……?」
ついに女の子は鼻歌をうたい始めた。麦畑は、いくら払おうとも同じような景色のままだ。金色の海の中を、女の子は進む。歩き、進む。
「まずはここを抜けて、流星に会おう。流星に、またがろうよ!」
トラは瞼を瞬かせて、それから笑った。自然に笑えたという方が正しい。女の子の言っていることは荒唐無稽で、あまりにも勝手すぎるのだから。
「いいよ」
トラが言うと、女の子は大きく手を振った。立ち漕ぎウルトラスペシャルのブランコみたいな半孤が、トラと女の子を繋ぐ。麦畑から小さな蒸気が立った。金の粒が空へ帰っていく。それは、人間が見てはならない風景のようにも、感じられた。




